レオン・ベリー《オデュッセウスとセイレーン》1867年、サントメール市立美術館、フランス

歴史

男を惑わす「美女」セイレーン

はじめに

先日、同僚と訪れたスタバに、美しいセイレーンが描かれたタンブラーが売っていました。調べてみると、ちょうどアニバーサリーの日で、限定グッズが売られていたんですね。素敵なセイレーン!買いたい衝動を必死に抑えて拝むにとどめました…。

ところで、セイレーンという伝説上の魔物はいつでも、美しい女性として描かれます。

「傾国美女」という言葉があるように、いつの時代も女の存在は男を悩ませます。歴史を変えた有名な美女といえば、エジプトのクレオパトラや唐の楊貴妃がいますね。

美しいものを愛でるはこの上ない至福ですが、美しすぎるものには要注意です。美は喜びと同時に、魔性をはらんでいますから。

今回はセイレーンを一例として挙げ、「美女」についてご紹介します。

世の中に たえて桜のなかりせば

美が人を喜ばせるだけでないことは、平安時代の歌人、在原業平も知っていました。彼が呼んだ歌に、次のようなものがあります。

世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし

この歌を、哲学者の神崎繁氏は次のように解釈します。

花の咲く前からいつ咲くのかどうかソワソワし、咲いたら咲いたでいつ散るかハラハラするのは、桜があるからで、いっそ桜がなかったらもっと落ち着いた気分で春を迎えられるのに……

野矢茂樹編『子どもの難問-哲学者の先生、教えてください!-』中央公論新社、2018年

「実際、あまりにもきれいなものは、人の心をかき乱す原因ともなる」、神崎氏はこうまとめています。

美しいものは人を喜ばせるだけでなく、人を悩ませもするのです。

わたしの歌をきいて

私たちは花の美しさだけでなく、人の美しさにも心かき乱されます。

美しい人が近くにいると、どきどきしてしまって勉強や仕事に集中できない、話しかけられても緊張してしまうからやめてほしい。でも見ていたい。思わず見入ってしまう。どこかへ行ってほしいけど、行かないでほしい。

そんな経験が、誰しもあるのではないでしょうか。相反する気持ちがぶつかり合い、嬉しいのか嫌なのかよく分からなくなってしまいます。

そんな「美女」の一例として、セイレーンをご紹介します。

レオン・ベリー《オデュッセウスとセイレーン》1867年、サントメール市立美術館、フランス
レオン・ベリー《オデュッセウスとセイレーン》1867年、サントメール市立美術館、フランス

セイレーンとは、ホメロスの『オデュッセイア』に登場する魔物の名です。とても美しい声で歌うために、人は思わずセイレーンに引き付けられます。そうして自分のもとにやってきた人間を、セイレーンは食べてしまいましす。

『オデュッセイア』の主人公、オデュッセウスは航海中、その歌声を聴いてみたいと思い、従者らに命じて縄で自分をマストに縛り付けさせました。どんなに歌声に魅惑されようと、セイレーンのもとへ行かないようにするためです。

いざ歌声が聞こえはじめると、従者たち(耳栓をしているため聞こえない)は縄を抜け出そうと暴れるオデュッセウスを抑えつけるのに大変でした。そのかいあって、オデュッセウスは無事、セイレーンの住まう海域を抜けることができました。

セイレーンは後世になると、歌声に加えて容姿の美しさも持つようになります。人魚の伝説は世界各地に存在しますが、女形の人魚はどの地域でも大変美しいものとして語り継がれています。その一種がセイレーンです。美しい歌声と容姿で男を惑わすセイレーンは、魔性をもつ美女の好例なのです。

真の美女は人を狂わせる

美女は「人」であり、感情を持っている分、美しい「物」より人に対する影響力が大きいように思えます。

美女は、基本的には民話や神話の主人公の「ご褒美」です。悪い怪物をやっつけて、お姫様や領主の娘と結婚する、という話がよくありますが、その美女は男の活躍に対する報酬なのです。

が、本当に美しい女というのは、男たちの身を滅ぼします。そのような神秘的で危険な美女を、文学用語で「ファム・ファタル(仏:Femme fatale)」と言います。彼女らは様々な神話や民話で登場します。有名なファム・ファタルは、キリスト教のサロメ、アーサー王物語のモルガン・ル・フェです。

この世のものとは思えない、ぞっとするような美しさ、駄目とは分かっているけれど惹かれてしまう…。絶世の美女を一目見れば、ほかの女など霞んでしまいます。そうして美女は争いを生み、ついには国を亡ぼすのです。

美女は、へたに手に入れようと考えずに、眺めているくらいが丁度いいのかもしれませんね。

おわりに

今回は最初に、在原業平が歌に詠んだ桜を例に、美しいものが人を喜ばせるだけでなく、悩ますことを説明しました。その後、セイレーンを例にあげ、美女も同様に人を悩ますことを説明しました。最後に、美女は「人」である分、「物」よりも影響力が大きいことを述べました。

ちなみに、スターバックスのロゴとして描かれるセイレーンのヒレは2本に分かれています。このようなセイレーンの絵が実際に残っており、それにインスピレーションを得たのでしょう。二股に描かれた理由は、人間との生殖能力をもたせるためだったと思われます。せっかく美女なのだから、異類婚姻の妄想をしたかったのでしょう。

ただし、スターバックスが2本のヒレを持つセイレーンを採用したのは、ロゴとして見栄えがよかったからかと思います。2本あることで、左右対称のロゴができますからね。

以上、「美女」についてご紹介しました。

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Songs of Innocence and of Experience, copy Y, 1825, object 54, The Voice of the Ancient Bard (Metropolitan Museum of Art)スマートスピーカーと口頭文化前のページ

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