はじめに
おとぎ話とファンタジーの違いで説明した通り、ファンタジー文学発祥の地はイギリスです。さらにいえば、「小説」という娯楽自体、イギリスで生まれました。ファンタジーとは、「魔法がでてくる空想の物語」です。
ファンタジージャンルの小説が生まれるには、その地に「魔法」の文化がなければなりません。言い換えると、魔法の文化がなければ、ファンタジー小説を思いつかなかったはずです。
そう、イギリスは魔法の国なのです。
今回は、イギリスにおける魔法の歴史について紹介します。
前提
本記事における魔法とは、近代以前の人が信じていた超自然的な力、言い換えれば、神や精霊の力です。詳しくは魔法から科学への移行を参照してください。
そして、ここが重要ですが、西洋文化の根底であるキリスト教では、神以外に魔法、キリスト教で言う「奇跡」を使える者の存在を認めません。なぜならキリスト教は一神教だからです。神以外に超自然的な力を使える者がいることを認めれば、神の冒涜にあたります(なお聖人の「奇跡」は認められている)。そのため、魔法を使える女がいると噂がたてば、その「魔女※」は火刑に処されました。
※魔女については西洋史における「魔女」とは何かを参照
では、イギリスに魔法の文化があるとはどういうことでしょうか。イギリスもキリスト教の国なので、「魔法」という概念は禁止されたはずです。
実は、イギリスにはキリスト教の布教がされる以前の時代の、多神教の信仰が「文化」として残っています。わたしたち日本人も、仏教徒ではないけれどお寺に行くし、神道を信仰しているわけではないけれど神社に行きます。それはもはや宗教というより、日本の文化、古くからの慣習と言えるでしょう。
同じようにイギリスにも、キリスト教が入ってくる前の自然や精霊の信仰文化が残っています。つまり魔法の文化が残っているのです。
そして、ここでいう魔法の文化をつくった宗教は、ケルト人とゲルマン人の宗教です。
ケルト文化とゲルマン文化が混ざった島国
ケルト人の移住
みなさんは、最盛期の古代ローマ帝国がどれだけ広かったかご存知でしょうか。
最盛期のローマ帝国は、現在のエジプト・シリア・トルコあたりからイギリスまでの領土を保持していました(紀元後2世紀)。イギリスに手を伸ばしたということは、海を渡ったということです。
ただ、イギリスを支配したといっても、現在のスコットランドの手前までです。つまり南イギリスだけです。この地点がローマ帝国の最北端で、敵の侵入を防ぐために城壁を建設しています。
ローマ帝国の敵とは誰だったのでしょうか。敵というより、ローマ帝国人(「ローマ」は帝国の名前であり、民族的にはラテン人)に追われて、ヨーロッパ大陸からブリテン諸島(現イギリスと現アイルランドを含めた島々)に逃げた人たちと言ったほうがいいかもしれません。それは、ケルト人です。
森に生きたケルト人は木々やそこに宿る精霊、妖精を信じていました。日本の神道と同じように、万物に神が宿ると信じる多神教だったのです。
もともと中央ヨーロッパに住んでいたケルト人たちは、ローマ帝国人に追われて北へ北へと移住し、ブリテン諸島に移り住みました。ケルト人はその後も様々な民族の侵略を受けながら、ブリテン諸島で暮らします。こうしてイギリスとアイルランドは、今でもケルト人の文化が残る世界でたった二つの国となりました。
ちなみに、ケルト社会の指導者はドルイドと呼ばれる神官で、杖を持っています。J.R.R.トールキン『指輪物語』のガンダルフの外観は、ケルト社会のドルイドがモデルと言われています。
ゲルマン人の移住
大帝国へと成長したローマ帝国にも、4世紀になると陰りが見えはじめます。ローマ帝国人にとっての異民族である、ゲルマン人の大移動が始まったのです。
ゲルマン人はもともとバルト海周辺、現在でいうデンマークや北ドイツなどに暮らしていました。しかし人口が増え、住む場所や食料が足りなくなってくると、南へと移動しはじめました。
彼らはローマ帝国の領土に次々と王国を建てていきました。なかでも、フランク人というゲルマン人の一部族は、現在のイタリア、フランス、ドイツの原型となる国を建国します。
476年、西ローマ帝国がゲルマン人に滅ぼされました(東ローマ帝国は存続する)。この時点でヨーロッパ大陸の覇権は、ローマ帝国人からゲルマン人に移ります。
さて、肝心のブリテン諸島はどうなったのでしょう。実は、ここにもゲルマン人の手が伸びていました。
ゲルマン人の大移動が始まると、本土の危機を知ったローマ帝国人たちはブリテン諸島から早々に撤退していきました。そこへアングロ・サクソン人というゲルマン人の一部族がやってきて、国を建てたのが449年のことです。そのときから現在まで、イギリスはずっとゲルマン系の国家です。だから、英語は「ゲルマン系」の言語なのです。
こうして、イギリスにゲルマン文化が流入しました。ゲルマン人も、ケルト人と同じように多神教で、妖精を信じていました。いわゆる「北欧神話」です。世界樹(ユグラドシル)で知られ、主神オーディンを筆頭に、トールやロキなど、さまざまな神がいます。
ケルト文化とゲルマン文化の融合
上記のような歴史的背景から、イギリスはケルト文化とゲルマン文化が混ざった、自然信仰や妖精信仰をする人が住む国になりました。たとえば『指輪物語』に登場するドワーフやエルフなども、ケルト人やゲルマン人の間でもともと信じられていた存在です。これが、魔法や魔法使いを信じる文化がイギリスに生まれた理由です。
キリスト教化されきれなかった島国
もう1点、イギリスに魔法文化が存在する重要な要因があります。それは、ローマ・カトリック教会がブリテン諸島(現イギリスと現アイルランドを含めた島々)のキリスト教化を十分にできなかったことです。ローマ・カトリック教会とは、教皇を最高統治者とするキリスト教の一派、いわゆるカトリックです(詳しくはラテン語とはを参照)。
地理的に考えてみてください。ローマ・カトリックの総本山はローマです。ブリテン諸島は、ヨーロッパのなかでも一番遠い場所にあるうえに、海まで渡らなければなりません。必然的に布教が遅くなります。また、信者に対し厳しく目を光らせていることもできません。結果的に、キリスト教が浸透するのには時間がかかり、また民たちはキリスト教に改宗したあとも、司祭の目をかいくぐって、昔のケルトやゲルマンの信仰文化を持ちつづけたのです。
もし、ローマ・カトリック教会によるイギリスのキリスト教化がうまくいっていたら、イギリスにおけるケルト、ゲルマンの文化は今なくなっていたかもしれません。キリスト教が西洋に浸透した理由は、西洋になぜキリスト教が浸透したのかを参照してください。
おわりに
イギリスに魔法の文化が存在する理由は次の通りだと考えます。
- キリスト教布教以前に、魔法を信じるケルト人とゲルマン人が暮らしていたから
- ローマ・カトリック教会がブリテン諸島を十分にキリスト教化できなかったから
以上、イギリスにおける魔法の歴史でした。
関連書籍
ケルト神話と北欧神話について詳しく知りたい方には、以下2冊がおすすめです。文庫なのでさらっと読め、かつ基礎知識をつけることができます。
- 井村君江『ケルトの神話―女神と英雄と妖精と』ちくま学芸文庫、1990年
- 山室静『北欧の神話』ちくま学芸文庫、2017年
ドワーフやエルフなど、神話や昔話に登場する超自然的な生物について詳しく知りたい方には、以下の本がおすすめです。世界中の超自然的な生物を辞典としてまとめた文庫です。ユニコーンやスフィンクス等も掲載されています。
- ホルヘ・ルイス・ボルヘス著、柳瀬尚紀訳『幻獣辞典』河出文庫、2015年