中世ヨーロッパはいつからいつまで? どんな時代?特徴も解説

漫画やアニメについて、中世ヨーロッパ風であると聞いたとき、「歴史の時代区分上の中世は、いつからいつまでなのか?」と気になることはありませんか。今回はそんな疑問を解決するために、一般的な時代区分や、中世という時代の特徴を解説します。

世界史に詳しくない人にも分かりやすく説明していくため、ご安心ください。

目次

時代区分は後世の人がつくった

時代区分

時代区分は、歴史を学ぶ上で、あるいは研究する上で、あったほうが便利なためつくられた区分です。歴史学という学問が発展するなかで、ルネサンス期(15-16世紀頃)に生まれました。現在では、伝統的な3区分に「近世」の区分を加えて、古代、中世、近世、近代という4区分になっています。

例えば、大学の歴史学の研究室は、対象地域+時代のセットで分類されていることが多いです。具体的には、「日本古代史」「東洋中世史」「西洋近世史」などと分類され、それぞれに専門の研究者が在籍しています。

なお、時代区分に限らず、歴史という概念そのものも、「現代人がつくる過去の物語」と定義できます。つまり、歴史に「本物」は存在せず、歴史学者は歴史を「本物」に限りなく近づけるために、常に見なおしを繰り返しているのです。それはE.H. カーの「歴史とは、現在と過去との絶え間ない対話である」という有名な言葉に現れています(※)。

※このあたりの話は、歴史学者はどのように過去の出来事を知るのか|文字史料と口頭伝承を参照。

中世期の特徴:キリスト教の最盛期

シャルトル大聖堂(フランス)の北翼廊のバラ窓。1235年ごろ。

一般的に、西洋の中世期は、西暦476年~1453年の間の、約1000年間を指します(※)。その時代を「中世」と呼ばせる要素、言い換えると「中世期の特徴」は何でしょうか。

※前述した通り、時代区分は後世の人が便宜上つくったものなので、諸説ある。しかし「諸説ある」で片づけると考察が進まないため、本記事ではこの期間を中世期として捉える。

中世期の最も大きな特徴として、キリスト教権力が最盛期だったことが挙げられます(※)。封建社会など、他にも様々な特徴がありますが、入門としてまずはこの要素だけを押さえれば、中世期に対する理解が深まります。むしろこの要素を抜きにしては、中世史を語れません。

※正確にいうと、キリスト教のなかでも、最もメジャーな一派、ローマ・カトリック教会の権力が最大だった時代。

中世期のはじまりは、キリスト教がゲルマン諸国によって認められ、国教に定められた頃です。1200年頃には、史上で最も権力をもった教皇・インノケンティウス3世が登場します。彼は宗教的指導者でありながら、諸国王よりも力をもち、王たちを臣従させていました。中世期のおわりは、十字軍遠征が失敗して、教皇の権威が衰退しはじめた頃です。

インノケンティウス3世。13世紀半ばのフレスコ画、Monastery of Sacro Speco of Saint Benedict所蔵。

すなわち中世期とは、キリスト教の浸透からはじまり、キリスト教の衰退と共に終わる時代です。中世期は、力をもった貴族(封建諸侯)があちこちに存在したため、王の権力が相対的に弱い時代でした。そのため人びとは、所属する国というよりは、「キリスト教」という同じ宗教を信仰している者同士で、仲間意識を持っていました。そして、その権力の頂点には教皇がいました。

次章からは、中世期をはじまり、盛期、おわりの3段階に分けて、時代の変遷を詳細に解説します。

【聖権と俗権について】
歴史上の権力は、①聖権と②俗権の2種類に大別されます。聖権とは、教皇に代表される、宗教的な権力のことです。いっぽうで俗権とは、皇帝や王に代表される、世俗的な権力のことです。

宗教の力が衰退した現代では、「権力」といえばほぼ俗権のことを指します。ところが、生活に宗教が根付いていた中世期には、聖権も俗権も、民に対して同程度の影響力がありました。教皇インノケンティウス3世に代表されるように、ときに権力の天秤は、聖権に大きく傾きました。

権力の絶頂にあったインノケンティウス3世は、「教皇権は太陽であり、皇帝権は月である」という言葉を残したとされています。つまり教皇は皇帝より強い光をはなっている、偉いという意味です。

この状況は、日本史で例えると、将軍(世俗的指導者)より天皇(宗教的指導者)のほうが世に対する影響力をもっている状況と似ています。

中世のはじまり:キリスト教の浸透

最盛期のローマ帝国の版図
最盛期のローマ帝国の版図(117年)。

中世期のはじまりは、一般的に476年からとされます。これは西ローマ帝国が滅亡した年を指します。西ローマ帝国とは、古代期に一大帝国を築いた、ローマ帝国が395年に東西分裂してできた、西側の国です。ローマ帝国は、最盛期には上図の赤の部分を領土としていました。

ローマ帝国が崩壊したあと、東側の領土は、ビザンツ帝国という名称になって存続します。ビザンツ帝国は、西側とは異なる独自の文化を発展させながら、1453年まで存在しました。なお1453年は、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルが、イスラームに陥落した年で、この出来事が中世のおわりを指します。後ほど詳しく説明します。

一方で、旧ローマ帝国の西側の領土は、西ローマ帝国として一時期存在しますが、分裂して100年も経たずに、北欧から南下してきたゲルマン人に支配されました(476年)。ゲルマン人は、自分たちより文化水準の高かったローマ人の文化を、積極的に取り入れました。その結果、ゲルマン諸国の文化は、大部分がローマ化されました。

ゲルマン人が建てた諸王国は、現代までつづく国家の原型となります。例えばこの頃生まれたフランク王国は、やがて3つに分裂して、フランス、ドイツ、イタリアの原型になりました。

《ローマ大火、紀元後64年、7月18日》ユベール・ロベール、1785年、マルロー美術館所蔵
《ローマ大火、紀元後64年、7月18日》ユベール・ロベール、1785年、マルロー美術館所蔵。ネロ帝はローマ大火の原因をキリスト教徒たちに負わせた。

キリスト教の命運を決定づけた大きな出来事に、ローマ皇帝から存在を認められたことが挙げられます。ローマ人は古くから、多神教の神々を信仰していました。そのため唯一神しか認めないキリスト教徒を、仲間とはみなせず、歴史上で何度も迫害してきました。大迫害で有名なのはネロ帝です。

ところが、ローマ帝国の存続が危うくなってきたとき、皇帝の考えが変わりました。その頃にはキリスト教徒の人口が増えていたため、皇帝は信徒たちに寛容な姿勢を見せることで、彼らの支持を得ようとしました。まずは313年に、コンスタンティヌス帝がキリスト教を「公認」しました(ミラノ勅令)。これは帝国内において、キリスト教の存在を公認するという意味です。次に392年に、テオドシウス帝がキリスト教を帝国の「国教」に定めました。

キリスト教史の観点で、これらの出来事は画期的でした。テオドシウス帝が国教に定めた2年後に、ゲルマン人侵攻の混乱により、ローマ帝国は崩壊します。しかし次の為政者となったゲルマン人は、ローマ人の文化を踏襲したため、彼らにもキリスト教が受け入れられたのでした。キリスト教は中世期の間、西洋大陸の南から北へと、徐々に浸透していき、権威を高めていきました。

【ちなみに】
ローマ皇帝が、キリスト教を受け入れたくなかった理由の一つに、一神教の教えが、皇帝崇拝と対立することがある。ローマ帝国による、詳しい受容の歴史は、西洋文化において、王に聖油をそそぐのはなぜかを参照。

《よき羊飼い》ガッラ・プラキディア廟堂、5世紀。5世紀にはすでにキリストをほのめかすモザイクが存在した。

中世の盛期:ロマネスク時代~ゴシック時代

ロマネスク様式を代表する、ヴォルムス大聖堂。

キリスト教にはさまざまな宗派があります。そのなかで、中世から現代に至るまで最もメジャーな宗派が、ローマ・カトリック教会(=カトリック)です。ローマ・カトリック教会は、教皇を最高位聖職者と定めています。現代でも教皇は存在し、バチカン市国に暮らしています。

約1000年つづく中世期には、研究のしがいがある魅力的なモノコトがたくさんあります。例えば、私が個人的に興味をもっているテーマの1つに、神聖ローマ帝国のカール大帝による、文化隆盛事業「カロリング・ルネサンス」があります(800年頃)。また、修道院(600年以前から存在)による写本製作があります。

しかしながら、一般の人がアニメやゲームで親しんでいる、いわゆる「中世」らしい雰囲気は、ロマネスク時代(11-12世紀)やゴシック時代(13-15世紀)に該当するでしょう。これらの名前は、当時流行した芸術様式、ロマネスク様式・ゴシック様式から採用されています。

1572年のパリの図。原典:Civitates orbis terrarum。中世都市に特徴的な、町の周りをぐるりと囲う壁がある。

ロマネスク時代~ゴシック時代は、中世期に特有の文化が数多く生まれた点で、中世の盛期といえます。具体的には、中世都市が繁栄し、さまざまな技術分野で職人が育成されるようになりました。各地に大学が誕生し、学問の研究が盛んになりました。遠方へ旅する商人が増え、陸路のみならず海上交易も盛んになりました。

繁栄の一方で、西洋の人びとは、イスラームの存在に悩まされていました。イスラームは、ムハンマドによって600年頃に創始された宗教です。つまり中世という時代区分になって、西洋人がはじめて対面した宗教でした。そのため中世期は、ローマ・カトリック教会とイスラームの戦いとの時代ともいえます。

現代的感覚をもつ私たちは、世界に異なる宗教が存在する状況を、当然のように受け入れられます。ところが、中世期の西洋人にとっては違いました。

なぜなら、当時の彼らの宗教観によると、世界に存在するあらゆるものは、神の意志によってつくられているはずでした。彼らは世の中の人を、ざっくり「キリスト教徒」か「異教徒」の2つで分類し、異教徒について、悪魔の手先であると考えていました。それなのになぜ、悪魔の手先が自分たちより多く存在するのでしょうか(当時はイスラームの人口がキリスト教徒より多かった)。神はどのような意図で、彼らをつくったのでしょうか。

やがて、増えつづけるイスラームに領土を脅かされるようになった西洋人は、彼らと闘うことにしました。それが十字軍遠征で、ローマ・カトリック教会の教皇の呼びかけによって、西洋諸国の王や貴族が参加し、複数回行われました。聖権の絶頂にあった、教皇インノケンティウス3世は、第4回十字軍を提唱し、実施しました(1202年~)。

ジャン・コロンブ 、Siege of Antioch、1474年頃、フランス国立図書館所蔵。第一回十字軍によるアンティオキア攻囲戦の様子が描かれている。
ジャン・コロンブ 、Siege of Antioch、1474年頃、フランス国立図書館所蔵。第一回十字軍によるアンティオキア攻囲戦の様子が描かれている。

なお、中世期の西洋人によるイスラーム観については、R.W.サザン『ヨーロッパとイスラーム世界』に詳しく記載されています。現代の宗教対立構造を理解する上でも、非常に役立つ名著です。

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中世のおわり:キリスト教の衰退

アヤソフィア。ギリシア正教会ではハギア・ソフィア大聖堂とも呼ばれる。
現イスタンブール(旧コンスタンティノープル)にある、アヤソフィア。ギリシア正教会ではハギア・ソフィア大聖堂とも呼ばれる。
1180年頃のビザンツ帝国の版図(赤ぬり部分)。コンスタンティノープルは海峡にあるため、船を監視できる点で、昔も今も軍事上の要所。

中世期のおわりは、一般的に1453年とされます。これはローマ帝国の東側を前身とする、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルが、イスラームに征服された年を指します。この出来事を、世界史では「コンスタンティノープルの陥落」と呼びます(という呼び方は西欧中心的な歴史観であって、本当はイスラーム視点で「イスタンブールの征服」と呼んでもよい)。

一連の十字軍遠征は、キリスト教の聖地であるイェルサレム(※)を、イスラーム領土から奪還するという目的で行われました。さらには、イスラームの矢面に立っているキリスト教国が、ビザンツ帝国だったため、その砦を越えさせないという目的もありました。なぜなら、ビザンツ帝国が征服されたら、次は自分たちの領土に危機が及ぶのです。

※現イスラエルの首都・イェルサレムは、キリスト教、ユダヤ教、イスラームという3つの宗教の聖地。ゆえに聖地をめぐって、今も争いが絶えない。

《コンスタンティノープルの陥落》Philippe de Mazerolles、1470-1479年の間。

ところが、十字軍遠征は失敗に終わり、イェルサレムを奪還できないどころか、ビザンツ帝国がイスラーム領土に取り込まれてしまいました。すると、十字軍を提唱した、ローマ・カトリック教会の教皇の権威がゆらぎ、キリスト教権力が衰退しはじめます。十字軍遠征は、他にもいくつかの社会変化をもたらし、時代が近代へと移行するきっかけとなりました。

【ちなみに】
この時からコンスタンティノープルは、イスタンブールという名称になり、現トルコの前身である、オスマン帝国の首都になった。なお「コンスタンティノープル」という名前は、キリスト教を公認した、ローマ皇帝コンスタンティヌス帝に由来している。その前は古代ギリシア名で、ビザンティウムと呼ばれていた。名前が何度も変わるということは、支配者がよく変わるということなので、その地が要所である証拠である。

しかしトルコの首都は現在、アンカラである。なぜかというと、オスマン帝国時代に、第一次世界大戦で負けたため、軍事上の要所であるイスタンブールを西洋に取られ、アンカラに首都を移さざるを得なくなったのだ。西洋諸国はなにも言わないが、イスタンブールを返還した今も、トルコの首都がアンカラでありつづけていることに、ほっとしていると思う。

イスタンブールは、歴史に翻弄されてきた町なのである。

十字軍遠征によってもたらされた、中世期の終焉を告げる社会変化として、ここでは以下3つを挙げます。順番に詳しく説明します。

  1. 聖権の衰退にともなう俗権の高まり
  2. 貴族の弱体化と商人の台頭
  3. 地中海経済から世界経済への移行

1. 聖権の衰退にともなう俗権の高まり

中世期には、聖権と俗権の天秤が釣り合った状態で、どちらにも同程度に、民に対する影響力がありました。さらに言えば、教皇インノケンティウス3世の任期中には、この天秤がやや聖権のほうに傾いていました。

しかし十字軍遠征が失敗したことに伴い、教皇を代表とする、ローマ・カトリック教会に対する信用がゆらぎました。さらには、ルターの宗教改革(16世紀)に代表されるように、権力を持ち過ぎたローマ・カトリック教会の腐敗に対して、宗教改革運動が活発になります。すると権力の天秤は俗権に傾き、教皇に代わって、諸国の王が、力を持ちはじめました。

後述するように、貴族の財力が衰えたことも、王にとっては好都合でした。教皇・貴族という競合が弱体化した状態は、国王一人に対する、権力の集中を助長しました。そうして中央集権化が進んだ結果、近代的な「国家」という概念が誕生します。

ルイ14世の肖像画。Hyacinthe Rigaud、1700-1701年、ルーヴル美術館。

国王が史上で最も権力をもった時代を、絶対王政と呼びます(16-18世紀)。十字軍遠征の失敗は、この時代が到来するための系譜上にありました。絶対王政期の代表的な国王に、フランス王ルイ14世がいます。

【栄枯盛衰は繰り返される】
ルイ14世は「朕は国家なり」という言葉を残しています。これは、かつて権力の絶頂にあった、教皇インノケンティウス3世と同じようなセリフです。しかし国王の権力も永遠に続くわけではなく、やがてフランス革命(1789年~)が起きます。そうして歴史は、栄枯盛衰を繰り返すのです。

聖権が衰退した代わりに、国王の権力が高まり、国の中央集権化が進んだことは、中世期の終焉を告げる社会変化の1つでした。

2. 貴族の弱体化と商人の台頭

インドへ向かうマルコ・ポーロの隊商
インドへ向かうマルコ・ポーロの隊商。”Runners of the seas”, Pepper of Arvorより、1375 年。

中世期の特徴的な社会システムに、封建制度と呼ばれるシステムがあります。このシステムは、主君が臣下に土地と保護を与え、臣下がその見返りに、軍役と金銭の提供を約束するという、契約関係で成り立っていました。力のある貴族は、この場合の主君(封建諸侯)になり、臣下の信頼を集めていました。

しかしながら、たび重なる十字軍遠征によって、封建諸侯の財力が衰えます。財力が衰えることは、権力が衰えることに直結するため、封建制度が崩れていきます。この動きは十字軍遠征に暗雲がたちこめた、13世紀頃にはすでに始まっていました。封建諸侯が衰えた場合、臣下は直属の上司である主君を飛び越え、国王を頼りにするようになります。そうして前述した通り、国王の権力が高まっていきました。

貴族の勢力が衰える一方で、力を持った者が、国王の他にもいます。それは商人です。中世都市が発展し、貨幣経済が浸透したことで、才能のある商人は、貴族よりも財力を持つことができました。そうして、物語でよくある、落ちぶれた貴族の娘が、財力を目当てに豪商と結婚する……逆に豪商は、貴族という身分ほしさに娘と結婚する……などという展開が実際に起きはじめるのです。

封建制度が崩壊し、貴族が弱体化したことは、中世期の終焉を告げる社会変化の1つでした。

3. 地中海経済から世界経済への移行

Nicolaus Germanusによって、1467年に復元された、プトレマイオスによる世界地図(2世紀)。

十字軍遠征は、イスラームとの聖戦でしたが、西洋の人びとが全員イスラームに敵意を持っていたかというと、そうではありませんでした。じつは十字軍遠征は、人びとのイスラームに対する関心を高めた面があり、とくに商人は、自分たちとは異なる文化を持つ彼らに、(経済的利益の予感もあり)関心を持っていました。

そうして始まったのが、ムスリム商人(イスラーム商人)と取引する、東方貿易(レヴァント貿易)です。なぜ「東方」かというと、当時は地中海東岸がイスラームの領土だったからです。西洋側の商人は、主に香辛料・絹織物・宝石を輸入していました。一方でムスリム商人は、毛織物や銀を輸入していました。

中世期は、水運での交易が盛んになった時代でした。東方貿易に代表されるように、その舞台となったのは地中海で、ヴェネツィアやジェノヴァといった、海洋都市国家も栄えました。つまり地中海は、中世期で最もカネが動いた、一大経済圏でした。

【ひとこと】
聖職者視点では、イスラームは得体の知れない、恐ろしい異教徒だった。しかし商人視点では、ムスリム商人はアジア産の珍しいものを取り扱っているビジネスパートナーだった。いつの時代にも、商人は合理的視点を持ってうまく立ち回り、経済的利益を得るのである。

商人の活躍については、西洋中世期における旅する商人も参照。商人のうまい立ち回りの様子については、並木陽が原作の漫画『フローラの白い結婚』で楽しく学べる(ただし中世期ではなく近世期・ルネサンスあたりの話)。

東方貿易で西洋人が得られるモノのうち、特に人気だったモノは、アジア産の香辛料でした。西洋人はだんだんと、ムスリム商人経由ではなく、アジアから直接、香辛料を買いたいと思うようになります。そのほうが安上がりだからです。しかし、西洋とアジアの間にはイスラームの帝国が広がっているため、(イスラームを無視しながら)東周りで交易するのは不可能でした。

そこで一部の西洋人が思いついたのが、西回りの新しい航路を開拓して、西回りでアジア人と交易することです。

キリスト教的世界観が支配していた中世期には、地球が平らで円盤状であるという「地球平面説」が有力でした。そのため、大陸の西には地球の果てがあり、奈落の底が広がっていると考えられていました。しかし近世期になると、地球が球体であるという「地動球体説」の支持者が増えました。その説に支えられて、ポルトガルとスペインが、競うようにして西回りの航路を開拓しはじめます。これが大航海時代のはじまりで、15世紀頃に該当します。

大航海時代の到来は、西洋の経済圏が、地中海から、世界規模へ移行したことを意味します。これは中世期の終焉を告げる社会変化の1つでした。

おわりに

今回は、中世ヨーロッパの時代区分が、いつからいつまでに該当するかを解説しました。

中世期の最も大きな特徴は、キリスト教権力が最盛期だったことです。すなわち中世期とは、キリスト教の浸透からはじまり、キリスト教の衰退と共に終わる時代を指します。

中世期の終焉を告げる社会変化として、以下3つを挙げました。これらは、十字軍遠征が一つのきっかけとなり、もたらされた社会変化でした。

  1. 聖権の衰退にともなう俗権の高まり
  2. 貴族の弱体化と商人の台頭
  3. 地中海経済から世界経済への移行

*

中世史をメインに勉強・研究を進めて、ずいぶん長い時が経ちましたが、今になってやっと、このような記事を書くことができました。つまり、今までの知識や経験を総動員して、やっと中世期がどんな時代だったか、またどのように近世期に移行していったかを、大局的に理解することができました。

書きながら思ったのは、どんな学問も、子供の頃より大人になった今のほうが理解できる、ということです。例えば、中学や高校で日本史や世界史を習いますが、ある出来事がどのようにして次の出来事に繋がっていくかや、権力者の思惑について、社会経験の乏しい子供には実感として理解しづらいです。

ところが、社会経験を重ねた後に歴史を見直すと、「A国にはこんな思惑があったんだな」「B王はこんな思惑をもって、この法律を制定したんだな」ということが、面白いほどよく分かります。仕事で様々な人に接する中で、人間の損得感情を、経験として分かるようになっているためです。

だからといって中学・高校の頃の勉強が無駄というわけではありません。むしろ吸収力の高い時期に、できるだけ多くの知識を詰め込んでおくことはとても大切です。なぜなら、基礎的な知識があるからこそ、大人になってから、誰の指導もなく一人で勉強できるようになるのです。実際にこの記事を書くにあたっても、高校生の頃の世界史ノート、用語集、資料集を何度も参照しました。

子供の頃の勉強はほんのきっかけにすぎず、本当の勉強というのは、大人になってから始まるのだ、ということをしみじみ実感した回でした。このブログが、皆さんの勉強の一助になれば幸いです。

関連書籍

十字軍遠征の目的の1つに、ビザンツ帝国を守ることがあると説明しました。なぜなら、ビザンツ帝国はイスラームと国境を接しており、ここが陥落すると、ビザンツ帝国の領土分、イスラームが一気に自分たちの領土に近づくからです。

キリスト教文化圏の端に位置する国が、どれほど苦難に満ちているかを想像するには、並木陽の『斜陽の国のルスダン』という物語がおすすめです。13世紀ジョージアの物語で、当時のジョージアは、キリスト教文化圏に対しても、イスラーム文化圏に対しても、うまい立ち回りが求められました。さらには、チンギス・ハン率いるモンゴル軍の脅威にもさらされます。

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十字軍について学びたい方は、山内進『十字軍の思想』がおすすめです。

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以上、お読みいただきありがとうございました。

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