喜劇にむなしさを感じる理由

Walter Crane《眠り姫》
目次

はじめに

喜劇でも悲劇でもない小説にて、喜劇の要素も悲劇の要素も持つ物語は、どちらか一方の要素しか持たない物語より魅力的であると述べました。

わたしたちは幼少期には喜劇(ハッピーエンドの物語)を好みますが、成長するにつれて、悲劇の要素を含む物語、あるいは完全に悲劇的な物語にも興味を持つようです。それは物語の機能に、(経験などの)何らかの事象の原因・理由について、読者に納得のいく説明を提供する機能があるからです。つまり、わたしたちは人生経験が浅いうち(幼少期)は読書に娯楽の機能しか求めませんが、人生経験を積むと、より多くの機能を求めるようになるのです。詳細は人が小説を読む理由を参照してください。

今回は、少し悲しい話ですが、人が喜劇にむなしさを感じる理由を考察します。

幸福な状態で感じるむなしさ

Walter Crane《眠り姫》
Walter Crane《眠り姫》

「こうして王子様とお姫様は末永く幸せに暮らしましたとさ」。

子供向けの物語は総じて、このようにハッピーエンドで終わる物語です。それは彼らが物語に楽しさを求めるからです。

子供時代、多くの人には悩みがなかったことでしょう。あるいは、あったとしても、大人になった今になって振り返れば、ちっぽけな悩みだったと思うことでしょう。それは、子供が大人に保護される存在だからです。子供は大人が用意した、悲しみも苦しみもない幸福な箱庭に生きています。

しかし子供はある時から、幸福な世界に疑いを抱きはじめます。あれ?生きるとは案外辛いのではないか。雲一つない空、鮮やかな原っぱ、友達の笑い声……。これらは全部嘘なのではないか。子供の頃のわたしはしばしば、太陽が傾きはじめた午後にむなしい気持ちになることがありました。お出かけ日和の良い天気、とても明るい午後なのに、なぜ?

どうやら人は、幸福な状態に置かれたときに幸福に疑いを抱き、不安になることがあるようです。その理由については、廃墟はなぜ美しいのかで書いた文を引用します。人は本能的に、人生が幸福だけでは成り立たないことを知っているのです。そのため喜劇を読むと、むなしさを感じることがあります。

ハッピーエンドの物語だけ創作し、読んでいれば心穏やかなのに、なぜ人はわざわざ悲劇の物語を生み出し、読んで心打たれ、思い悩むのでしょうか。その理由の一つとして、「生まれたものはいつか死ぬ」という自然の法則を、悲劇が表していることが挙げられます。

生と死の観点で見れば、「ハッピーエンド」は嘘です。人間は必ず死にます。そのため、人は悲劇を読み、いつか来る死に立ち向かう心の準備をするのです。

土日休みで働く大人たちは特に、日曜日の昼間にこういった虚無感に襲われることでしょう。

不幸な状態で感じるむなしさ

平静であるのにもかかわらず、喜劇にむなしさを感じるのであれば、落ち込んだときに喜劇を読めばいっそうむなしくなるはずです。なぜなら自分の身をもって幸福が嘘であると感じている最中だからです。

落ち込んだときに無理に楽しもうとして失敗する例を、物語の中から二つ挙げます。

例1-『ゲド戦記V』

まじない師のハンノキは、悪夢に悩まされています。その悪夢とは死者たちがハンノキに助けを求める夢です。最初にロークの魔法使いたちに、次に元大賢人のゲドに相談しますが解決せず、最終的にアースシーを治める王に相談します。ハンノキの悪夢は単なる個人的な夢ではなく、アースシー全体の危機に関わる夢であることが明らかになります。

ハンノキは気分を晴らそうと町へ出かけますが、町の賑わいにいっそう気分を落ち込ませます。

王が竜退治に出かけてしまうと、ハンノキは何をしたらいいか、わからなくなった。自分がまったくの役立たずに思われ、宮殿に居残って王の食客でいつづけるのは間違っているように感じられた。やっかいごとを持ちこんだことにも申し訳なさを覚えていた。そんなわけで、ハンノキは終日自分の部屋にすわっていることなどできず、市中に出ていったが、市のはなやかさと賑わいはいっそう彼の気分を落ち込ませ、そのうえ、金もなし、目的もなしとあっては、できるのは疲れるまでただひたすら市中を歩きまわることだけだった。

ル=グウィン著、清水真砂子訳『ゲド戦記V』岩波書店、2006年、193-194頁。

例2-『車輪の下』

エリート養成学校に好成績で合格した少年ハンスは、周囲の期待に押しつぶされ学校を退学します。故郷の友人のつてで、機械工として働きはじめますが、何に対してもやる気がでません。働きはじめて初めての休日、友人に誘われ酒盛にでかけます。

ハンスは酒の効果で一時的に気分が良くなりますが、今までの辛かったこと、これから起こる辛いことを思い、気分を沈ませます。

このとき以降、かれの度はずれな陽気な気分は、しだいにおとろえてきた。かれは自分が酔っ払っているのを、知っていた。そしてこの酒盛全体が、もう楽しいとは思えなくなった。そしてなんだか遠くのほうで、いろんなわざわいが、自分を待ち受けているのが見えた。帰路、父親とのやっかいな場面、そして次の朝はまた製作所。だんだんと頭も痛くなりはじめていた。

ヘルマン・ヘッセ、実吉捷郎訳『車輪の下』岩波文庫、1958年、285頁。

ちなみに、『車輪の下』はかなりショッキングな悲劇なので、読む時間帯には注意してくださいね。良い物語に間違いないですが、日曜日の夜に読んではだめです!

おわりに

今回は人が喜劇にむなしさを感じる理由を考察しました。理由として第一に、幸福な状態の場合に、人生が幸福だけでは成り立たないことを知っており、不安と虚無を感じるからであると説明しました。第二に、不幸な状態の場合に、身をもって幸福が嘘であると感じているからであると説明しました。

以上、喜劇にむなしさを感じる理由でした。

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