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昔話とファンタジー小説の共通点:孤独・旅・助けの物語構造

絶望的な状況から助けてくれる、人語をはなす動物や魔法使い。

そのような存在は、ファンタジー小説だけでなく、昔話にもたびたび登場します。

居場所を失った主人公が旅に出て、不思議な助けを得ながら成長していく。そうした「救済の物語」は、世界で繰り返し語られてきました。

この記事では、マックス・リュティ『ヨーロッパの昔話』を手がかりに、昔話とファンタジー小説に共通する物語構造について見ていきます。

※本記事では、とくに断りがない限り「昔話」=西洋の昔話を指す。

目次

主人公は孤立している

昔話とファンタジー小説は、第一に、主人公が孤立している点で共通しています。

昔話の主人公は、多くの場合「子供」で、一人っ子か三人兄弟の末子であることが多いです。理由として、①登場人物を少なくして物語を簡素にするため、②主人公と他の2人(主人公と違って過ちをおかす)の対比を強調するため、という点も考えられます。しかしリュティは何よりもまず、「主人公が孤立していること」、言い換えると自分の居場所がないことが重要だと考えています。

居場所を失い、旅がはじまる

なぜ主人公が孤立していることが重要なのでしょうか。それは、孤立しているがゆえに、「世界の根源的な力と目に見えない接触を1 」もつことができるからです。例えば、『灰かぶり(シンデレラ)』において、主人公は継母や姉妹に虐げられてひとりぼっちです。しかし、ひとりぼっちがゆえに、魔法使いやモノ言う動物などの異界の住人(彼岸の住人)とつながりを持つことができ、彼らの援助を得て幸福を掴みます。

孤立性ゆえに他のものと結びつきやすい例として、原子を挙げます。例えば水素原子は、一つきりでは安定しないため、もう一つの水素原子と結びついて、水素分子を作ります(水素分子=われわれが水素と呼ぶ物体)。ようは、孤立している昔話の主人公は、その状態では不安定なために、通常の人にとってはありえない、様々なものと結びつく可能性があるのです。多くの場合、結びつく対象は、超自然的なものや存在です。

「孤立」の反対が物語の終着点

「孤立」からはじまる物語の終着点は、その逆の状態になること、すなわち「安定」です。すなわち、居場所を失った主人公は、新しい居場所を見つけるために旅にでるのです。

物語の終わりが「安定」であることは、昔話のなかに「結婚」で終わる物語が多いことからも分かります。結婚して他者との結びつきを得た主人公は、水素原子の例でいうと安定の状態にあります。よって、もはや超自然的なものと接触する必要がなくなり、昔話の主人公ではなくなるのです(つまり物語が終わる)。

盲人、勘当された者、末弟、みなし子、道に迷った者、それらが昔話の真の主人公である。なぜならば、彼らは孤立者であり、それゆえに他のだれよりも、真に本質的なものに対して自由だからである。

マックス・リュティ『ヨーロッパの昔話』岩波文庫、2020年、149頁。

『ハリー・ポッター』の例

主人公が孤立しているファンタジー小説の例に、J・K・ローリングの『ハリー・ポッター』シリーズがあります。主人公のハリーは赤ん坊の頃に両親を亡くしているため、母方の叔母家族のもとで暮らしています。

しかし、ハリーは叔母家族に虐げられ、遊び友達もおらず孤立しています。ところが、そんなハリーのもとにある日、ホグワーツ魔法魔術学校への入学招待状が届き、彼の物語が始まるのです。

主人公は旅立つ

昔話とファンタジー小説は、第二に、主人公が旅立つ点で共通しています。

昔話は主人公を旅に出させる理由を非常にたくさん見つけだす。すなわち両親の困窮、主人公自身の貧困、まま母の悪意、王様から与えられた課題、主人公の冒険欲、なんらかの命令あるいは求婚の競争などである。主人公を孤立させ、旅人に仕立てあげるきっかけならば、どんなきっかけでも昔話にはふさわしいのである。

同上、45頁。

リュティは、昔話の主人公が旅に出るのは、本質的なものと出会うためだと考えています。本質的なものとは、主人公ひいては主人公に投影されている人間全般にとって、孤立から安定した状態になるための何か、幸福を掴むための何かのことです。

旅はイニシエーションでもある

リュティは昔話の内容について「一種の弱められた成人手続き(イニシエーション)」であるとも考えています。

成人のイニシエーションとは、子供が大人になるために通過しなければならない、儀礼のことです。例えば仮に、狩猟技術を身につけることが、一人前の男の証とされている部族があるとします。するとその部族で「人」として認めてもらうには、たった一人きりで森へ出かけ、決められた動物を決められた方法で狩り、決められた期間内に戻ってこなければなりません。これが成人のイニシエーションで、それが果たせないうちは、永遠に「人」と認めてもらえません。

このような成人手続きは、宗教観がうすれた現代では、多くの場合、形ばかりのものとなっています。例えば、日本には「成人式」という一瞬の儀礼がありますが、正装して式に出席するだけで、危険な冒険は不要です。しかし、かつてはどの地域にも、危険な冒険を伴う成人手続きがあったと考えられています。このあたりの研究は、文化人類学の分野で積極的にされています。

つまり、昔話で主人公が旅にでるのは、辛く険しい旅の過程で心身ともに成長し、一人前の人間になるためでもあるのです。そう考えると、「可愛い子には旅をさせよ」という日本のことわざには、イニシエーションの旅の意も込められていることが分かります。

『王への手紙』の例

主人公が旅に出るファンタジー小説の例に、トンケ・ドラフト王への手紙』があります。この物語における主人公は、騎士になるために必要な試練をしている最中に、切羽詰まった男から手紙を届けてほしい、と頼まれます。町から3時間ほど離れた場所で待機している騎士の元へ届けるだけ……だったはずが、その手紙がきっかけとなり、主人公の壮大な冒険が幕をあけます。

この物語の魅力については、別記事にて解説しています(ネタバレなし)。もちろん、『王への手紙』の主人公は、苦難に満ちた冒険を経て精神的にも、身体的にも成長します。

主人公は助けを得る

昔話とファンタジー小説は、第三に、主人公が助けを得る点で共通しています。

リュティは、昔話においては、自己の活動の手続きのためには、すなわち主人公が実現したいことを達成するには、「恩寵」が加わる必要があると断言しています。ここでいう恩寵とは、「外的原動力と援助」、ようは外からの助けのことです。

なぜ助けが与えられるのか

昔話における助けは、多くの場合、主人公が窮地に陥ったときに与えられます。では、なぜこのような助けが与えられるのでしょうか。

昔話をつくった人たちは、「だれも自分の幸福を自分だけの手でつかむことはできない2」ということを知っていました。だからこそ昔話では、絶望的な状況で魔法の道具がもたらされたり、手助けしてくれる老婆や老翁や動物が現れるのです。ここで面白いのは、昔話の主人公は、自身が魔法使いではないということです。主人公は平凡な人間で、魔法は外部からやってきます。

主人公に「特別な恩寵」が授けられる背景には、共通点の一つ目である、主人公が孤立していることとも関係しています。例えば、濃度の異なる液体は、隣り合うと、互いの濃度を同じにしようとする「浸透圧」という力を働かせます。長風呂をすると手の指がふやけてしわしわになるのは、浸透圧のせいです。

つまり自然の理にてらすと、孤立した人間にはその報いとして、大きな恩寵が授けられる可能性があります。恩寵を「浸透圧」に例えると、恩寵は恩寵の濃度が薄い人へと流れていくのが理というわけです。この考え方からは、「堅実に生きていれば、神さまはそれを見守ってくれていて、いつかは暮らし向きがよくなるはずだ」という、昔話をつくった人たちによる、ささやかな願いも感じられます。

助けは何度でも与えられる

タイトルなし、アーサー・ラッカム、1904年
アーサー・ラッカム、1904年

それでは、ひどい境遇にある者に対してしか、恩寵は授けられないのでしょうか。いいえ、リュティは次のように言っています。「人間は究極的には孤独なものであるが、しかしくりかえし援助が与えられる3」。つまりどの人間にもつらく苦しい時はあるけれど、必ず助けてくれる人(もの・動物)がいるということです。

しかしながら、リュティは、このような恩寵に受け身になる姿勢は、前近代的であり、近代以降の人たちは好まないだろう、と言っています。近代以降の人たちは、自分で自分の幸福をコントロールしたい、世界をコントロールしたいと思うからです。

むしろ人は、科学技術が発達したことによって、何事もコントロール「できる」と思っているのかもしれません。例えば、私たちが冬に夏の野菜を食べられるようになったのは、ビニールハウスという気候コントロールの結果です。

昔話は人間をいろいろな可能性が与えられた、恩寵を受けたものとして示す。しかし近代の人間は自己形成と世界形成をめざして努力している。近代の人間は超越的諸力をただ単に受領者として体験するだけでなく、それを認識したいと思う。おそらく彼は恩寵を受けたものであろうと願うよりも、自己自身を決定する人間、自己の目的と自己の道を、意識的に認識して選ぶ人間でありたいと願うだろう。

同上、228頁。

昔話が成立した時代の人びとにとって、自然はコントロールできるものではありませんでした。だからこそ、恩寵に受け身な主人公が成立しました。とはいえ現代人にとって、そのような主人公は我慢なりません。そのためリュティは、ヘルマン・ヘッセの小説に例えて、「昔話はすぎさった時代のガラス玉遊技である4」と表現しています。

たしかに、科学技術が発達したことで、人は少しだけ、自分の人生を主体的に変えることができるようになりました。しかし世界の大部分はいぜんとして、人にはコントロールできません。コントロールできないからこそ、人生には大きな喜びも、大きな悲しみも発生しうるのです。そうであるなら、辛いときに与えられる助けも、またあり得るものだと思います。

助けは「与えられるもの」かもしれないし、自分で「見出すもの」かもしれません。その途上にあるとしても、絶望に打ちひしがれているより、「いつかはよくなるはず」という希望を持ちながら暮らすほうが健全で、じつのところ、生きる活力もわいてきます。

昔話の恩寵は、尽きることがありません。それは主人公が再起するまで、何度でももたらされます。いっけん非現実的に見える、その助けの背景には、幸せになるための現実的なすべが隠れているのかもしれません。つまり、希望を持ちつづけたからといって、あらゆる者が救われるとは限りませんが、もし救われる者がいるとしたら、それは最後まで希望を失わなかった者なのです。このテーマは『クララとお日さま』でも描かれています。

このような昔話の研究に興味のある方は、以下の『おとぎ話はなぜ残酷でハッピーエンドなのか』がおすすめです。

『指輪物語』の例

主人公が恩寵を授けられるファンタジー小説の例に、J.R.R.トールキンの『指輪物語』があります。主人公のフロドは、魔法使いのガンダルフや、同じく超自然的な力をもったエルフたちに、何度も助けられます。とくに、エルフのガラドリエルから授けられた玻璃瓶は、その聖なる光によって、終盤のフロドの旅を大いに助けてくれます。

『指輪物語』は、「行きて帰りし物語」の典型でもあり、以下記事で解説しています。

おわりに

今回は、昔話とファンタジー小説に共通する3つの要素を見てきました。

現代の物語の多くは、口頭伝承の物語の系譜上にあります。そのなかでもファンタジー小説は、昔話の構造を色濃く受け継いでいるジャンルだといえます。だからこそ私たちは、ファンタジー小説に惹かれるのかもしれません。

「居場所を失ったのち、旅の過程で誰かに助けられながら、帰る場所を見つける」。

この構造は、現実の人生のなかにも、繰り返し現れるように思います。誰にとってもその旅ははじまりうるし、もしかすると今も、旅の途中なのかもしれません。

カイ・ニールセンによる『ヘンゼルとグレーテル』の挿絵。1921-25年頃。

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参考文献

  1. マックス・リュティ『ヨーロッパの昔話』岩波文庫、2020年、124頁。 ↩︎
  2. 同上、192頁。 ↩︎
  3. 同上、245頁。 ↩︎
  4. 同上、227頁。 ↩︎

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