失われた荒野を求めて – ル=グウィン『いまファンタジーにできること』

湿地
目次

はじめに

これまでファンタジージャンルの小説について、様々なことを語ってきました。例えば、ファンタジー小説に愛好家が少ないのはなぜ?では、ファンタジー小説の愛好家が少ない理由を考えました。また、ファンタジーが逃避文学ではない理由では、よく「逃避文学」と言われがちなファンタジージャンルについて、それは誤解ではないかという意見を述べました。

最近、アーシュラ・K・ル=グウィン『いまファンタジーにできること』を読み、ファンタジーについて新しい発見を得ました。今回はそれについてご紹介したいと思います。

前提条件

ル=グウィンは前掲書のなかで、ファンタジーについて広く前提とされているいくつかのことに、いらいらすると言っています。それらの前提は作家や出版社によってレッテルづけされたもので、彼女は書き手の立場からも読み手の立場からも、その誤った前提に苛立つようです。その前提条件とは、主に以下の3つです。

  1. 登場人物は白人である

  2. ファンタジーランドは中世である

  3. ファンタジーは善と悪の戦いに関わるものである

個人的には、②と③の前提に対する誤解に共感しました。①については、私はあまりぴんときませんでした。日本では、例えば上橋菜穂子の小説など、アジア文化がベースになっているファンタジーも多いからです。

しかしル=グウィンはアメリカ人で、主にアクセスできるのは西欧の言葉で書かれた小説だけです。そして西欧には実際には移民など様々な人種が暮らしているにもかかわらず、その土地で出版される小説の登場人物が白人だけ、という点に、彼女は人種差別的なものを感じるのでしょう。

②と③の前提について感じたことを、以下に詳しく記載します。

ファンタジーランドは中世である

まず、ル=グウィンがいう「中世」とは、西欧中心の歴史観で見た中世期です。原著が西欧で出版され、西欧の読者を対象にしているのでそう判断しました。なので、ここでいう「中世」は西洋の中世期だと捉えてください。

ファンタジーランドは中世である。そうではありません。ファンタジーランドはもうひとつの世界で、わたしたちの歴史の外にあります。その世界の地図はわたしたちの地図ではありません。まあ、工業化以前だという点で、中世に似ているかもしれません。

アーシュラ・K・ル=グウィン『いまファンタジーにできること』谷垣暁美訳、河出文庫、2022年、11-12頁。

ファンタジーの時代設定になぜ中世が選ばれやすいというと、技術水準が高すぎず低すぎない、ちょうどよい時代だからだと思います。ル=グウィンが「工業化以前」と言っている通り、中世期は産業革命や科学革命が起こる前の時代です。

おとぎ話とファンタジーの違いで、私はファンタジーを、魔法などの超自然的な力がでてくる物語であると述べました。ここで、歴史の流れを考えてみたいと思います。歴史的に考えると、超自然的な力は、科学という概念が出てきたことによって、衰退しました。科学的な思考を身に着けた人びとは神を、あるいは神々を、奇跡を、魔法を信じなくなり、世界のしくみはすべて科学(あるいは数字)によって解明できると考えるようになりました。

よって、こうした人間の思考の変遷を考えると、超自然的な力を扱うファタジーは、産業革命や科学革命が起こる近代以前の時代設定である必要があります。

一方で、時代が古すぎると、技術や政治形態が未熟なため、物語の刺激性に欠けます。例えば古代ローマ期のファンタジー物語を創るとして、創れないことはないでしょうが、戦闘の陣形や武器が中世期より未熟になります。また、政治的ないざこざを描くにしても、中世期のように様々な領主・国王が乱立しているわけではないので、物語が単純になってしまいます。

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このように、技術水準が高すぎず低すぎない、ちょうどよい時代だからという理由で、ファンタジーの時代設定として中世期をベースにした小説はありがちです。このときル=グウィンが言いたいのは、ファンタジーを歴史上の西洋中世期と同じような世界観にして使い回さないでほしい、ということです。

ファンタジー小説に愛好家が少ないのはなぜ?にて、ファンタジーの魅力の1つとして、作者独自の世界観が構築されていることを挙げました。つまり、魅力的なファンタジーとは、ありきたりな世界観ではなく、それまで世になかったような発想が使われている世界観の物語とも言えます。私もファンタジー愛好家としては、トールキンのホビットのように、想像力を最大限に発揮させた設定がある作品に出会いたいものです。

ファンタジーは善と悪の戦いに関わるものである

ル=グウィンは、ファンタジー映画の多くと双方向ゲームの大半は善と悪の戦いを書いている、と語ります。なぜなら、(年齢にかかわらず・・・・・・・・)成熟していない人たちは、道徳的な確かさを望み、善か悪かを明確に知りたいからです。そして自分たちは善の側、悪に勝つ側にいたいと思っているのです。

ル=グウィンは映画版の『指輪物語』も、善と悪の戦いに重きが置かれ、原作の本質が失われてしまっている、と語ります。

原作のプロットを忠実に追い、指輪が破壊される映画版でさえ、暴力的行動に重きが置かれ、戦闘場面が延々と続くせいで、原作の道徳的な複雑さと独創性が――それこそが原作の中心に抱かれている謎であるのに――目立たなくなり、どうしようもないほど弱められています。

同上、14頁。

私は彼女のこの意見に非常に共感します。最近市場に出回っている「ファンタジー」といえば、判を押したように善と悪の戦いばかりです。魔王とか魔物とか悪魔がいて、それを主人公が倒すんですよね、はいはい、分かりました。

私は『ハリー・ポッター』さえも、善悪二元論だと感じ、白黒はっきりさせたい子供向けの物語だと感じます。「闇の帝王」が出てくるなんて、まさに善と悪の戦いです。(物語を全否定しているわけではありません。年代を越えてあらゆる人をわくわくさせる、素晴らしい物語でもあります)

どうして誰も闇の帝王側に立って考えないのでしょうか。ヴォルデモートは何か理由があって、マグル(非魔法使い)を排除しようとしているのですよね。主人公にとっての正義があるように、闇の帝王にとっても正義があるはずなのに、どうしてそれを見ようとしないのでしょうか。もしかしたら、相手の意見にも一理あるかもしれません。相手の話を聞きもせず襲いかかるのは、子供の喧嘩と同じです。誰だって自分が一番正しいと思いたいですが、そう思っているうちは真の正義には近づけません。

また、数々の「ファンタジー」小説に登場する魔物たちは、どういう理由があって人間を襲うのでしょうか。殺したくて襲うのでしょうか。そうだとしたら、現実にはそんな生き物はいません(強いて言えば人間が一番そうなる可能性がありますが、大半の人はそんなこと思いません)。そのあたりの詰めの甘さには辟易してしまいます。

例えば、食べるために人間を襲うというのなら、生物の生理的欲求に基づいているのでまだ分かります。ただしその場合、人間が魔物をすべからく殺していい理由にはなりません。オオカミやクマが人間を襲うからといって、オオカミやクマを絶滅させていい理由になるでしょうか。生きるために他の生物を殺すのは、人間を含めどの動物も同じです。

ル=グウィンは3つ目の前提の最後で次のように締めくくります。

想像力は倫理について考えるのに役に立ちます。戦いのほかにたくさんの比喩があり、戦争のほかにたくさんの選択肢があります。そればかりか、適切なことをする方法のほとんどは、誰かを殺すことではありません。ファンタジーは、そういうほかの道について考えるのが得意です。そのことをこそ、ファンタジーについての新しい前提にしませんか。

同上、16頁。

人間中心主義から離れること

「ファンタジーは人間中心主義から離れる方向に引っ張られていく」と、ル=グウィンは語ります。どういうことかというと、ファンタジーは、世界に人間以外の生き物が多数存在していることや、人間がその一員にすぎないということを思い出させます。そして、かつて動物は肉や害獣やペット以上のもので、生き物仲間であり、危険なライバルであったことをを思い出させます。

二十世紀に、都市においても必要不可欠な最後の動物であった馬がフォード社製の車に取って代わられたとき、一生の間、ほかの種に無関心で、無知なまま過ごすことが可能になった。(中略)わたしたちは自分たちのためだけの世界をつくった。そこでは、わたしたち以外に重要なものはなく、意味のある存在はわたしたち以外にはいない。そこには「他者たち」がいない。

同上、88-89頁。

かつて人間は動物たちと共生していました。村には馬や牛や鶏や山羊などの家畜がいましたし、一歩村の柵を越えれば、人間を狩る動物や、逆に人間が狩る動物がいました。ところが、現在の人間は動物たちを自分たちの住処から追い出し、他の種と関わりを完全に断ってしまいました。私たちが動物を追放したのでしょうか。それとも動物のいる楽園から、私たちが追放されたのでしょうか。

私はこの「人間中心主義から離れる」というファンタジーの定義にうならされました。人びとが失われた時代に郷愁を感じてファンタジー小説を手に取るのは何となく分かっていましたが、動物、そして自然とのつながりを得るため、という見解は新鮮でした。そして、人間が地球上の生物のなかで最も孤独かもしれない、という気づきを得ました。

私たちは、他の仲間がいる失われた荒野を求めてファンタジーを手に取るのかもしれません。彼らと友達になることは、再び世界と結びつき、世界に属することなのです。

おわりに

今回はアーシュラ・K・ル=グウィン『いまファンタジーにできること』を読み、ファンタジーについて新しく発見したことを紹介しました。

はじめに、ル=グウィンが誤っていると主張する、ファンタジーの前提3つを紹介しました。そのなかの2つに焦点をあて、ファンタジーランドが中世であることと、善と悪の戦いに関わるものであることについて感想を述べました。

次に、人びとがファンタジーを手に取る理由として、動物や自然、ひいては世界とつながりを求めているのかもしれない、ということを紹介しました。

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以上、失われた荒野を求めて – ル=グウィン『いまファンタジーにできること』でした。

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