喜劇と悲劇の側面をもつ小説

Jules Huyot《ダルタニャンと三銃士》After Maurice Leloir、1894年
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はじめに

神話学者のジョーゼフ・キャンベルは、あらゆるもの(生物・物質)は滅びゆくため、人は悲劇の物語に惹かれると述べます。つまりバットエンドを迎える物語です。しかし幼い子供は喜劇の物語を好みますし(「こうして王子様とお姫様は幸せに暮らしましたとさ」)、大人だって、喜劇は好きです。古代ギリシアにおいても、劇場では喜劇と悲劇の両方が提供されていました。

私は幼い頃、悲劇の物語が存在する意義すら分かりませんでした。当時は、物語とは、「こうであったらいいな」という理想のために創作されるものだと思っていたのです。バットエンドを理想とする人など、どこにいるのでしょう?やがて、物語が存在する理由が分かるようになったとき、悲劇にも存在意義があるのだと理解しました。物語の存在意義については、人が小説を読む理由を参照してください。

個人的には、人は悲劇にも喜劇にも惹かれると考えています。そして喜劇と悲劇の側面をもつ物語に、最も物語としての深みがあると考えています。なぜなら、人生は良い面と悪い面の連続で成り立ち、どちらかに常に偏ることはないからです。

※人生の悪い面については「人生において困難はないに越したことはない」は本当か?の記事も参照。

今回は喜劇と悲劇の側面をもつ小説の魅力を、例を交えながら紹介します。

喜劇と悲劇の側面をもつ小説とは

ここで言う「喜劇と悲劇の側面をもつ小説」とは、ある側面ではハッピーエンドであるけれども、ある側面ではバットエンドである小説のことです。しかも、そのバランスが絶妙でなければなりません。どちらかに偏ってしまうと、その物語は「喜劇」か「悲劇」に分類されてしまいます。

喜劇と悲劇の側面をもつ小説になぜ魅力があるかと言うと、解釈の幅が広がるからです。

「文学作品」と言うと、皆さんはどんな物語を想像しますか?私は学生時代、文学作品とは古くから存在して、学者や批評家など、様々な人に評価されてきた物語だと思っていました。例えば岩波文庫が出版しているような作品です。

ある日、何をもって文学作品と言うのか、また現代でも文学作品が生まれるのかどうかが気になり、敬愛する英文学の教授に尋ねてみました。すると教授は、「様々な解釈ができる物語を文学作品と呼びたい」とおっしゃっていました。「確かに西洋で偉大な文学作品というと19-20世紀に集中して生まれているが、現代でも文学作品は生まれている。例えばカズオ・イシグロの小説がそうです」。

教授の理論にのっとると、様々な解釈ができる物語ほど、いつの時代においても人々に楽しまれる文学作品と言えそうです。喜劇の要素も悲劇の要素も含む物語は、どちらか一方の要素しか含まない物語に比べ、解釈の幅が広がるため、「文学作品」になる可能性が高いです。そのため、魅力的な物語と言えます。

例1-『指輪物語』

J.R.R.トールキンの『指輪物語(Lord of the Rings)』(1954-55年)は、平凡なホビットのフロドが仲間とともに、悪しき力の宿る冥王サウロンの指輪を破壊しに行く物語です。

一見ハッピーエンドを迎えるように思えますが、そのハッピーエンドは主人公のフロドを含める指輪所持者たちが犠牲になることによって成り立っています。

喜劇の側面:冥王サウロンの指輪が破壊され、世界に平和が訪れること

悲劇の側面:指輪所持者(ビルボ、フロド、サム)が故郷を去ること

『指輪物語』でフロドが灰色港から旅立つ理由でも紹介しましたが、ビルボとフロドは指輪が破壊された時点で、異界人になったきり普通の人に戻れなくなります。また、サムもフロドから一時的に指輪を預かったことがあり、数年後にビルボ・フロドと同じ運命をたどります。フロドが浮かない様子の描写を再掲します。

「さあ、これでぼくたちだけになった、一緒に出発した四人だけだ」と、メリーは言いました。「ほかの人たちはみんな、次々とあとに残して来たんだね。まるでゆっくりと醒めていく夢みたいだな」

「わたしにとってはそうじゃないね」とフロドがいいました。「わたしはもう一度眠りに落ちていくような感じだよ」

J.R.R.トールキン著、瀬田貞二、田中明子訳『指輪物語9 王の帰還〈下〉』2002年、249頁。

例2-『三銃士』

Jules Huyot《ダルタニャンと三銃士》After Maurice Leloir、1894年
Jules Huyot《ダルタニャンと三銃士》After Maurice Leloir、1894年

アレクサンドル・デュマの『三銃士』(1844年)は、フランスの田舎出身の青年ダルタニャンが、銃士になることを目指してフランスの都・パリにのぼり、国王の近衛銃士隊の中で名をはせている三人の銃士と仲良くなり、四人で様々な事件を解決していく物語です。なかでも最大の冒険は、悪女ミレディの陰謀を防ぎ、制裁を加える冒険です。その功績をたたえられ、ダルタニャンは銃士隊副隊長に任命されます。しかし、その背景ではダルタニャンの想い人が殺害され、一人の友人が暗い気持ちになります。

喜劇の側面:

  • 悪女ミレディの陰謀を防ぎ、制裁を加える
  • ダルタニャンが銃士隊副隊長に任命される

悲劇の側面:

  • ダルタニャンの想い人がミレディに殺害される
  • 三銃士の一人であるアトスが救われない

アトスは仲間うちの最年長で、しっかり者でリーダー気質を持っていますが、女の影が一切ないことで知られています。どうやら過去に結婚していたらしいが、嫌な事があったらしい……。物語の後半で、アトスの元妻が悪女ミレディだったことが明らかになります。ほかの仲間のポルトス(好色で見栄っ張り)、アラミス(俗世を嫌い僧になりたいと言っているが女の影がある)は恋愛を楽しんでいるのに、アトスは救われないのです。ダルタニャンに関しては、想い人であるコンスタンスを亡くしていますが、まだ若い青年です。これから恋愛を楽しむことが可能だと、アトスは言います。

物語の最後で、ダルタニャンは枢機卿から「(名前は書かないから)好きなように使うがいい」と銃士隊副隊長の辞令を受け取り、「貴公こそ銃士隊副隊長にふさわしい。ここに貴公の名前を書いてくれないか」と三人の友人の元を訪ねてまわります。しかし、三人は銃士隊副隊長の座を辞退します。アトス以外の二人は隊を辞め、恋愛に生きるようです。ダルタニャンは最後に、再度アトスの元を訪れます。

「だめだ、みんなに、ことわられた」

「つまり……貴公が受けるのが、一番ふさわしいからさ」

アトスはそう言って、ペンをとり、辞令の上にダルタニャンの名を書きいれて、渡した。

「こうして、おれはもう友達もなくなるんだな。友達も何もかも……ただもう、苦い思い出があるばかり」

青年はそう言いつつ両手で自分の頭をかかえこんだ。と、ふた筋の涙が頬をつたって流れた。

「貴公はまだ若い。苦い思い出も、そのうちには楽しい思い出にかわる時もあるだろうよ」アトスが傍らからそう言った。

アレクサンドル・デュマ著、生島遼一訳『三銃士〈下〉』岩波文庫、1970年、454頁。

「友達がいなくなる」のはなぜかと言うと、ポストスとアラミスに関しては銃士隊を辞めてしまうし、ダルタニャンに関しては副隊長になり、共に行動できる身分ではなくなってしまうからです。そして、アトスはほかの三人と違って恋愛に生きることもできないのです。

おわりに

今回は喜劇と悲劇の側面をもつ小説の魅力を紹介しました。喜劇でも悲劇でもない小説とは、ある側面ではハッピーエンドであるけれども、ある側面ではバットエンドである小説のことです。

喜劇の要素も悲劇の要素も含む物語は、どちらか一方の要素しか含まない物語に比べ、解釈の幅が広がるため、魅力的な物語と言えます。例として、J.R.R.トールキンの『指輪物語』(1954-55年)とアレクサンドル・デュマの『三銃士』(1844年)を挙げました。

今回引用した二場面は似ていると思っています。一人の話者は幸せになり(メリー、ダルタニャン)、一人の話者は不幸になります(フロド、アトス)。個人的に、悲劇的な場面は喜劇的な場面よりも心が揺さぶられます。記憶にしっかりと残り、「この小説は傑作だった」と思う一要因になります。やはり、物語は悲劇が加わることによってより魅力的になるようです。悲劇的な場面の魅力について、今後考えてみたいです。

2020/8/22追記:

最近、ハリウッド映画のシナリオ作成の指南書として名高いらしい、ロバート・マッキー『ストーリー ロバート・マッキーが教える物語の基本と原則』 を読んだ。その本によると、脚本家が生み出す物語は大きく以下の3つに分類される。

  1. 楽観的な結末
  2. 悲観的な結末
  3. 二面性のアイロニーをもつ結末

 本記事で考察したのは、まさに3番目の、「二面性のアイロニーをもつ結末」だ。本書では、物語が人生の隠喩であることが繰り返し主張されている。そして「現実とは苛酷で皮肉なものであるからこそ、二面的でアイロニーに満ちた結末のストーリーは長く心に残り、世界のどこでも受け入れられ、観客から最大の愛と敬意を勝ち取る」(158頁)。大学の講義を受けている感覚に陥る、非常に面白く勉強になる本なので、興味がある方はぜひご覧あれ。

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