ファンタジーが逃避文学ではない理由

飛ぶドラゴン
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はじめに

世の中における一定数の人はこう信じています――「ファンタジーは逃避文学である」。ファンタジー文学の祖と言われるJ.R.R.トールキンも、ファンタジー小説を世に出したとき、世間から自身の作品がそのように捉えられ、無下に扱われることを憂慮していました。そのため次のように語っています。

※当時は「ファンタジー」というジャンルが確立されておらず、トールキンは超自然的な力や存在がでてくる小説を、「おとぎ話 fairy tale」とは区別して「妖精物語 fairy story」と表現している。おとぎ話とファンタジーの違いについてはおとぎ話とファンタジーの違いを参照。

妖精物語が「逃避」の唯一の手段でないことはもちろんであるが、今日では、最も明瞭な(そしてある人々にとっては)言語道断な「逃避文学」の形式のひとつとみなされている。

J.R.R.トールキン『妖精物語について―ファンタジーの世界』猪熊葉子訳、評論社、2003年、124頁

私は多くのファンタジー愛好家と同意見で、「ファンタジーは逃避文学である」という主張に否と答えたいです。今回はその理由を述べていきます。

ファンタジーが逃避と結びつけられる理由

ファンタジーが「逃避」と結びつけられて考えられる一番の要因は、ファンタジージャンルが、現実には実現不可能なことを、可能なものとして描くことが許されている、という点でしょう。

例えば、人語を話す動物(C.S.ルイス『ナルニア国物語』)、不老不死のエルフ(J.R.R.トールキン『指輪物語』)、空飛ぶほうき(J.K.ローリング『ハリー・ポッター』シリーズ)などは、現実世界ではありえません。しかしファンタジージャンルの物語内であれば受け入れられます。

私が考えるに、「ファンタジーは逃避文学である」という主張が生じた理由は、(ファンタジー小説内では)都合の悪いことがすべて超自然的な力で解決できる、と一部の人に捉えられているからです。

小説という娯楽が生まれた17世当時においてはともかく、物語慣れしている現代においては、ご都合主義な物語はあまり歓迎されません。なぜなら私たちは、現実世界は理想通りにいかない、ということを知っているからです。最近のハリウッド映画において、完全なハッピーエンドではなくアイロニーを持たせた結末が通例となっていることからも、人びとのそのようなニーズが分かります。

現実的には白馬の王子様はいないし、不老の美女もいないし、窮地に陥ったときに救いの手を差し伸べてくれる賢者もいません。そのため一部の人にとっては、ファンタジー小説は、現実の厳しさを知らない(あるいは知られたくない)子供向けの小説である、という主張になるのです。

物語における「逃避」の本質

ファンタジーが逃避文学であると捉えられる理由、それは現実では実現不可能なことを可能にする点です。しかし、よく考えてみてください。この点は、ファンタジー以外のジャンルの小説にも、当てはまり得ることですよね? つまり「逃避」をもたらすのは「ファンタジー(あるいは超自然的な現象)」ではありません。

そもそも小説とは、空想の物語です。作者の方針次第で、現実では実現不可能なことを可能にすることは、いくらでも可能です。例えば作者は、主人公にありえない額の大金を手にさせたり、絶世の美女と出会わせたりすることができます。

私が考える「逃避」物語とは、一つには不幸の除外、もう一つには幸福の誇張をする物語です。言い換えると、起こりうる不幸を除外して、あり得ないほどの幸福を描きつづける物語が「逃避」だと、私は考えます。

例えば、登場人物たちが深刻な悩みを持たず、ほんわかしたスローライフを描きつづける物語は「逃避」物語だと思います。人生には波があるので、現実的にはそのような平和な生活が永遠に続くことはあり得ません。

私は世の中には2種類の物語が存在すると考えています。一つは、現実世界を生きる勇気をくれる物語。もう一つは、現実世界に戻るのが嫌になる(その物語世界に浸り続けたいと思う)物語。「逃避」と呼ばれる物語は、後者です。

ファンタジー「も」現実である

物語とは、人生の暗喩である――ロバート・マッキーが『ストーリー ロバート・マッキーが教える物語の基本と原則』において、繰り返し述べる言葉です。人生に幸・不幸の波があるように、物語にも幸・不幸の波があります。主人公にとってずっと悪いことは起き続けないし、ずっと良いことも起き続けません。

ファンタジー小説においても、それは同様です。『指輪物語』において、フロドは指輪を破壊することに成功しますが、もはや故郷に住みつづけることはできず、西へ旅立ちました。『ハリー・ポッター』において、ハリーはヴォルデモートを倒すことに成功しますが、その成功までにあまりにも多くの犠牲者(シリウス・ブラック、ダンブルドア、スネイプ先生など)を出しました。

※興味がある方はこちらの記事も参照。

つまり、他のジャンルの小説と同様に、ファンタジー小説「も」現実を書いた物語、人生における苦難と喜びを書いた物語です。言い換えると、他ジャンルの小説のすべてが「逃避」物語ではないように、ファンタジージャンルだからといって、そのすべてが「逃避」物語ではありません。

おわりに

今回は、ファンタジーが「逃避」文学ではない理由を述べました。

私が考えるに、「逃避」物語とは、①不幸の除外、あるいは②幸福の誇張をする物語です。つまり「ファンタジーだから」逃避なのではなく、左記の2つのどちらかの要素がある場合に逃避なのです。

よって、「ファンタジーは逃避文学である」と一概に決めつけるのは誤っていると考えます。

補足すると私は「逃避」物語を否定しているわけではありません。ストレスフルな現代社会にとっては、幸せのみを詰め込んだ、癒しをもたらす物語も必要かと思います。大切なのは、きちんと現実に戻って生きることですね。

以上、ファンタジーが「逃避」文学ではない理由でした。

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