カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ《雲海上の旅人》1817年頃、ハンブルク美術館

エッセイ

「人生において困難はないに越したことはない」は本当か?

はじめに

人生において、困難がないに越したことはないと、私たちは思っている。楽しい期間はなるべく長いほうがいいし、辛い期間はなるべく短いほうがいい。楽しく感じる時間の割合が大きく、辛く感じる時間の割合が小さければ、総合して幸せになれるはずだ。辛いことを経験せずに済むなら、それに越したことはない。

そう思っていたが、最近ヘルマン・ヘッセの小説を読んだとき、ある部分に引っかかりを覚えた。私たちは本当に困難を経験しないほうが幸せなのだろうか?今日はそれを考えてみたい。

人生の歩みのおさらい

下の図は、ライフラインチャートと呼ばれるものだ。縦軸が幸福度、横軸が年齢を表しており、生まれてから歳を重ねるまで、どのような気分で過ごしてきたかを可視化するための図だ。黒線が山になっている箇所は、楽しかった時期であり、谷になっている箇所は、辛かった時期を表している。

ライフラインチャートの例。

ライフラインチャートの亜種に、キャリアの歩み版がある。社会人として働きはじめてから今に至るまでのキャリアについて、気分を山と谷で表すのだ。仕事がうまくいっていた時期は山、うまくいっていなかった時期は谷になる。私が以前いた会社では、学生向けの座談会で自己紹介をするとき、よくキャリア版ライフラインチャートを使用していた(学生に希望を持たせるために、だいたい線の最後は山に向かうかたちで終わる)。

こうして幸福度を可視化してみると、人生は比喩ではなく本当に「山あり谷あり」である。私たちは人生においてなるべく谷が訪れないことを願っているが、谷は必ず訪れるし、歳を重ねるにつれて深くなっていく。なぜ深くなるかというと、次に訪れる「谷」が「谷」だと認識するためには、過去に経験した谷より深い必要があるからだ。言い換えると、私たちは谷を経験するたびに、基本的には打たれ強くなり、過去に経験した程度の「谷」は「谷」と感じなくなる。だから次に訪れる谷は前より深くなるはずなのだ。

谷があるから人生が楽しくなる?いやいや・・・

高校生のころ、現代文の先生に勧められて買った参考書に、河合塾が出版している『ことばはちからダ!現代文キーワード』という本がある。今でも本棚の取り出しやすい場所に保管しているくらい、大人にとっても興味深く楽しめる本である。

簡単に内容を紹介すると、この本は大学入試の現代文でよく出てくる「抽象的な言葉」を分かりやすく解説した本だ。抽象的な言葉とは、例えば「概念」「ジレンマ」「ロゴス」「メタファー」などである。私の大好きな「神話」も紹介されている。

また、本参考書では用語だけではなく、大学入試の現代文でよく出る「テーマ」も紹介されている。例えば、私も過去に同じテーマの記事を書いたことがあるが、「文明と文化の違い」というテーマが収録されている。※私が過去に書いた記事はこちら

その本のなかで、一番印象に残っているのが、「逆説」の章で出てきた以下の例文だ。なお「逆説」は、「パラドックス」とも言い換えることができる。

愉快な青春時代をつくりあげているのは、日々の授業と定期試験であるというのが、高校生活における一つの逆説である。

例文につづく解説を以下に記載する。

  「逆説」とは「一見矛盾、実は真理」、つまり言葉の上では理屈に合わないようだが、よく考えてみると真実を言い当てているといった論理をいいます。

 この例文も一見しただけでは納得ができないかも知れません。高校生活がいかに愉快な時間を含むとしても、それは「放課後」や「休日」のお陰であって、「学校の授業」や「テスト」など、むしろ苦痛であるといった声が聞こえてきそうです。

 しかしながらよく考えて見ると、その「放課後」や「休日」を解放感に満ちた快活な時間にしてくれているのは、他でもない、「毎日の授業」や「テスト」ではないでしょうか。なぜなら、「授業」や「テスト」の苦痛や束縛こそが、かえって「放課後」や「休日」の解放感や愉悦(ゆえつ)をもたらし、すなわち愉快な青春時代をきわだたせ、形成しているという見方もできるわけで、一見矛盾していると思われた例文は、実は正しいことを述べていたということになります。

要約すると、上記の例文では、「授業」や「テスト」といった「谷」があるからこそ、「放課後」や「休日」という「山」ができると言いたいのだ。当時これを読んだ私は、なるほどと思った。すなわち、人生における辛いことは、それと比較することによって、楽しいことをより楽しく感じるためにある。言い換えると、人生における「谷」は「山」の引き立て役なのだ。

しかし、私は納得できない。「谷」が「山」の引き立て役の範囲にとどまるなら、「谷」にそれほど価値があるとは思えない。例えば真の美人は、引き立て役という比較対象がそばにいなくとも、美人であることにちがいない。同様に人生における真に「楽しいこと」は、引き立て役の「辛いこと」がなくとも、楽しいことであるにちがいない。

人生に辛いことがあるから、その他の時間が楽しく感じる、という理論は安直で危険だ。そのような理論を真に受けてしまうと、楽しいことへの栄養剤だと思って、辛いことが次々に起こるのを許容するようになってしまう。そのような人ははた目から見て不幸である。というわけで、私は「谷があるから人生が楽しくなる論」には反対だ。

困難は害悪なのだろうか?

人生における困難は、害悪なのだろうか。子供のころ私たちは、テスト前などは特に、遊ぶのを我慢して勉強に励んだ。勉強の積み重ねは、幸せな将来につながると直感的に思っているからだ。このとき、遊び=人生における楽しいこと、勉強=人生における辛いこと、だと考えると、辛いことを避け続ける生活が幸せな人生につながるとは言いがたい。勉強をさぼり続ければ、将来生計を立てることができず、頭の良い人に騙されたりして、不幸に飢え死にすることだってあり得る。

先日、ヘルマン・ヘッセの『郷愁』という小説を読んで、人生における困難がどういう意味を持つのか、ヒントになりそうな文章を見つけた。以下に引用する場面は、物語の主人公であるペーターが、自身の母を看取ったときのことを思い出している場面だ。

死は、私たちの賢いよい兄弟であって、潮時を心得ているのだから、安心してそれを待っていればよいのだ、ということを私はとつぜんまた悟った。悩みや失望や憂愁が訪れるのは、私たちを不愉快にし、価値も品位もないものにするためではなく、私たちを成熟させ、光明で満たすためであることをも、私は理解し始めた。

ヘルマン・ヘッセ『郷愁』新潮文庫、2021年、127頁。

愛する人の死は、間違いなく私たちの人生における最大の困難の一つだ。だが作者のヘッセは、その困難は私たちを辛くさせるだけのものではなく、「私たちを成熟させ、光明で満たす」ためのものでもあると理解している。つまりヘッセによると、人生における困難は私たちを、その困難に直面する前より成熟させる。成熟した私たちは、どのような景色を見るのだろうか。

私はここで、一枚の風刺画を想起した。リソースを辿ったのだが、誰が描いたのか不明である。だがそのまま掲載するのは気が引けるので自分で似た絵を描いた。噂によるとアニメ『チェーンソーマン』のOPでもその風刺画を基にした場面があるとか。(もし原作者の方が削除を要請したら削除します)

この絵は、読書量によってその人の見える景色が異なることを示した風刺画だ。左の人物はまったく読書をしない人で、その人には世界が平和に見える。しかし、それは壁に描かれた偽りの世界だ。右の人物は読書をたくさんする人で、その人には壁の向こうの本物の世界が見えている。

読書によって私たちは、他人の考えに触れたり(学術書)、誰かになりきって他の人生を歩んだりする(小説)。つまり、読書をするとは、人生における自分の経験値を増やすことだ。そのように考えると、この風刺画に描かれた「本」は、人生における「困難」にも置き換えられないだろうか。

私たちは困難を経験するたび、人生における経験値を増やす。その結果、より高い場所に自分の位置を占めることができ、より広い範囲の世界を見渡せる。より広い範囲を見渡せるということは、辛く不幸な場面もたくさん見えるが、その分楽しく幸せな場面もたくさん見える状態ということだ。

ようするに、人生における困難は私たちを成熟させ、(より多くの辛さを教えてくれるのと同時に)より多くの楽しみや喜びを教えてくれるのだ。左の人物のように、辛いことを避け、能天気に生きるのもそれはそれで幸せだろう。しかしそれは動物的な生き方だ。右の人物のように、辛いことも経験しながら経験値を積み、人生をより深く生きた場合、知能をもった人間らしい幸せを得ることができる。例えば、仲間外れにされた経験(=困難な経験)がある人は、その後の人生において、人に優しくする喜びを得られるようになる。

上の絵の例と似た例に、「巨人の肩」がある。「巨人の肩」という言葉はニュートンがフックに宛てた手紙に書いた言葉だ。その言葉が暗喩するのは、「先人が積み重ねた発見と知識」であり、私たちは「巨人の肩」の上に乗ることで、より遠くを見渡すことができる、つまり世界をより深く理解することができるのだ。

まとめると、人生における困難は害悪ではなく、私たちがより深く世界を理解し、人間らしい幸せを得るために必要なものだと考えられる。

カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ《雲海上の旅人》1817年頃、ハンブルク美術館
カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ《雲海上の旅人》1817年頃、ハンブルク美術館

おわりに

今回は「人生において困難はないに越したことはない」が本当かどうかを考察した。

困難を避け続ける人生は、(経済的困窮などで)不幸になるリスクがあるのに加え、たとえそれで幸せを得られたとしても、その幸せは無知で動物的な幸せである。適度な困難によって人は成熟し、経験値を積む。経験値を積むと、より深く世界を理解できるようになり、より多様な喜びや幸せを見つけることができる。よって、人生における適度な困難は、人間らしい幸せを得るために必要なものだと考える。

以上、人生における困難についての考察だった。

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