作者との内輪話によって読書はより楽しくなる

アーサー・ラッカム《トールは嵐の雲を呼ぶ》1910年
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はじめに

本を日常的に読んでいる方は、こんな経験があるかもしれません。同じ作者が書いた本でも、同じジャンルの本でもないのに、「この内容(表現)、他の本でも見たな……」。さらに驚かされるのは、遠い昔に読んだ本ではなく、直前に読んだ本の内容が、今読んでいる本と繋がる内容を持つときがあることです。どうやらわたしたちは、本の中身を知らないのに、直感で内容が関連した本を同時に購入できるようです。

この経験は、例えば学術書と学術書の間で起こると、学びが深まり有意義な時間を過ごせますし、例えば小説と小説の間で起こると、作者たちと話題を共有しているようで楽しくなります。

今回は作者と共通する話題を持つことで、読書がより楽しくなることを紹介します。

内輪話

友人同士で盛り上がる話題といえば、何といってもそのとき集まった友人間で共通する話題、内輪話です。大学時代のサークル仲間で集まれば、自然と当時の話や、サークル仲間の現状の話(「あの子は〇〇社を辞めて、〇〇を始めたらしいよ」)で盛り上がります。

じつは内輪話と同様のことを、わたしたちは本の作者とすることができます。それは作者が明示的に、あるいは暗示的に他の物語の踏襲をしており、読者が踏襲元となる物語の内容を知っていた場合に起こります。ここでいう内輪話とは、読者が作者の踏襲した物語を知っていた場合にのみ、読者が読み取れるメッセージです。読者と作者は同じ物語を知っているという点で「内輪」の関係になることができるのです。

明示的な内輪話

作者が意識して物語に内輪話(作者と読者の両方が知っている話)を盛り込み、読者に分かりやすく示す場合があります。その場合における内輪話を、明示的な内輪話と呼びましょう。

明示的内輪話の例として、チャールズ・ディケンズの『デヴィッド・コパフィールド』を挙げます。主人公のデヴィッドは馬車がガラガラと立てる音を聞いて、雷や神々の夢を見ます。この場面の元となっている物語、お分かりでしょうか。

六人分でもいけそうな枕にうずくまって、ぼくは無上の喜びに浸りながら、じきに眠りにつき、古代ローマやスティアフォースや友情の夢を見ていたのだが、やがて、早朝便の駅伝馬車が下のアーチ道をガラガラと音を立てて通り抜けていくのを耳にすると、いつの間にか雷や神々の夢に変わっていったのだった。

チャールズ・ディケンズ著、石塚裕子訳、『デヴィッド・コパフィールド〈2〉』岩波文庫、2002年、277-278頁。

元となっている物語は、北欧神話です。北欧の人びとは雷が鳴ると、雷神トールが馬車で外出していると考えました。なぜならトールはお出かけの際、二頭のヤギに馬車を引かせ、ガラガラと音を立てながら空を駆け巡るからです。ディケンズはこの場面に、北欧神話の内輪話を盛り込んだのです。

アーサー・ラッカム《トールは嵐の雲を呼ぶ》1910年
アーサー・ラッカム《トールは嵐の雲を呼ぶ》1910年

ところで、明示的に何らかの物語を踏襲して創作した物語のことを、パロディやオマージュと呼びます。つまりパロディ作品やオマージュ作品には必ず、明示的な内輪話が盛り込まれています。

パロディとは、ある物語を風刺する目的で模倣した物語のことです。踏襲する物語に批判的な態度をとった物語だけをパロディと呼ぶのではなく、踏襲する物語を面白おかしく書いた物語もパロディと呼ばれます。例えばアイルランド作家ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』は、古代ギリシア人ホメロスが創作したと言われる『オデッセイア』を踏襲したパロディとして有名です。

オマージュとは、ある物語を敬意を払う目的で模倣した物語のことです。例えば二次創作漫画(ある漫画のファンがその漫画を踏襲して創作する漫画)はオマージュにあたります。わたしの知っている小説で例を挙げるなら、遠藤文子の『サラファーンの星』シリーズの世界観はJ.R.R.トールキン『指輪物語』のオマージュです。作中に登場する「灰色の騎士」は『指輪物語』の「指輪の幽鬼」に、「フィーン」は『指輪物語』の「エルフ」に対応します。

暗示的な内輪話

明示的な内輪話とは異なり、作者が意識しないのに物語に内輪話が紛れ込む場合があります。あるいは意識してある物語を踏襲したけれども、読者にあえて明示しない場合があります。その場合における内輪話を、暗示的な内輪話と呼びましょう。

暗示的な内輪話の例を出すのは難しいです。なぜなら作者が踏襲した物語を明示していないため、わたしの推測と実際に作者の踏襲した物語が異なる場合があるためです。そのため、次に出す例はわたしの推測であって、実際には違うかもしれないということを念頭に置いてください。

第45回メフィスト賞を受賞した『図書館の魔女』という小説があります。言語学者である高田大介さんのデビュー作で、「剣も魔法も使わない、『言葉』で戦うファンタジー」として評判です。その小説を読んでいた際に、ウンベルト・エーコの『バウドリーノ』と共通する記述を2箇所見つけました。一つ目が、井戸の底で人間が生存できるかどうかをろうそくを落として確かめる箇所、二つ目が、地下貯水槽にメドゥーサ(ギリシア神話に登場する、髪が蛇の妖女)の彫像が転がっている箇所です。

一つ目については、一方では登場人物が口で語るのみ、一方では登場人物が実際に経験します。

ろうそくの話について『バウドリーノ』ではバウドリーノの友人ボロンが、真空に関する議論で引き合いに出します。実際に登場人物たちが経験するわけではありません。下記は引用です。

「ろうそくが消えるような、からっぽの井戸の奥底でも、動物が死ぬと聞いたことがありませんか?そこはしたがって、空気はなく、真空があるという結論を導き出す者もいます。ところが井戸の奥底には、澄んだ空気はなく、よどんだ有毒の空気が残っていて、それが人間を窒息させ、ろうそくの炎を消してしまうのです……」

ウンベルト・エーコ著、堤康徳訳『バウドリーノ〈下〉』岩波文庫、2017年、73頁。

ちなみに『バウドリーノ』の時代設定はコンスタンティノープル(現トルコのイスタンブール)が第四回十字軍によって蹂躙される(1204年)前なので、現代科学の知識は登場人物たちにありません。

一方『図書館の魔女』では、実際に主人公のキリヒトがろうそくを井戸の底に落とし、井戸の底に降りても安全かどうかを確かめます。ろうそくの火が消えなければ、井戸の底に酸素があるということなので、降りても安全です。ろうそくが消えないことを確認したキリヒトは井戸に降り、マツリカが降りるのを手伝います。それから二人で、物語の要となる地下水路の調査を始めます。

二つ目のメドゥーサの彫像に関する話は、どちらの物語でも登場人物たちが実際に経験します。登場人物たちが水の張った地下を歩いていると、不気味なメドゥーサの頭部(の彫像)を発見するのです。どちらも「異教」がかつてその地に存在したことを示すために描写されます。

両小説の出版年度を比較すると、先に出版されたのは、『バウドリーノ』のほうです。年表は下記の通りです。

  • 2000年 イタリア語『バウドリーノ』出版
  • 2001年 英語『バウドリーノ』出版
  • 2010年 日本語『バウドリーノ』出版
  • 2016年 『図書館の魔女』出版

これらの根拠により、わたしは、『図書館の魔女』の作者である高田大介さんが、『バウドリーノ』を読んだことがあり(どの言語で読んだかは分かりませんが)、それを無意識にあるいは意識して踏襲したのだと考えています。あるいはわたしが知らないだけで、①ろうそくを井戸の底に落とす話、②メドゥーサの彫像が地下貯水槽に転がっている話の2点を盛り込んだ物語が『バウドリーノ』が出版される以前にあり、高田大介さんはその物語を踏襲したのかもしれません。もしわたしの推測が事実ならば、これは暗示的な内輪話と呼べます。

内輪話の楽しみ方

明示的な内輪話は、楽しみ方が分かりやすいです。元となる物語が明記されている場合が多いので、読者はそのつもりで読み、元の物語と比較して楽しむことができます。

一方、暗黙的な内輪話はどうでしょうか。わたしが思うに、暗黙的な内輪話にこそ内輪話の楽しみがあります。なぜなら作者が踏襲した箇所は、読者に愛着のある物語について語っているからです。

読者に愛着のある物語について語っているとは、どういうことでしょうか。

読者が物語を読んでいて、その物語が踏襲している物語に気づくとき、踏襲元の物語は、読者にとって愛着のある物語であるはずです。かつて読んでつまらなかった物語の内容を覚えている方はいますか? いませんよね。「つまらなかった」という感想だけ記憶に残り、内容は即忘れてしまうことでしょう。ですから、「この部分はあの物語を踏襲している」と気づくときの「あの物語」は自分が面白い、好きと感じた物語なのです。「あの物語」を踏襲しているということは、作者は少なくとも一度はその物語を読んだことがあるということです。同じ物語を読んだ仲間として作者を身近に感じ、結果としてその作者が書いた物語をより楽しむことができます。加えて、ほかに「あの物語」を踏襲した部分はないかと探すのも楽しいです。

残念ながら、作者が踏襲元の物語に愛着があるかどうかは分かりません。なぜなら愛着がなくても、無意識に物語に紛れ込む場合があるからです。それでも、物語の多くの部分で踏襲が見られるなら、それは愛着があると言えそうです。すると読者と作者の物語の嗜好が似ているということになり、読者としては嬉しくなることでしょう。なぜなら同じ物語を好きな仲間が増えたということになりますから。

おわりに

今回は、読者が作者の踏襲した物語を知っていた場合にのみ、読者が読み取れるメッセージを「内輪話」と定義し、内輪話によって読書がより楽しくなることを紹介しました。内輪話は「明示的な内輪話」と「暗示的な内輪話」に分けることができます。明示的な内輪話は、作者が読者に分かりやすく示す内輪話のことです。これはパロディやオマージュといった作品にも盛り込まれます。一方、暗示的な内輪話は、作者が無意識に盛り込んだ内輪話、あるいは意識して盛り込んだが読者にあえて明示しない内輪話のことです。これは読者が自主的に発見しなければ見つかりません。明示的な内輪話の楽しみは、踏襲元の物語と比較することです。暗示的な内輪話の楽しみは、そもそも内輪話を見つけるという行為と、作者を同じ物語を読んだ同士だと考えることです(ちょっと失礼)。

ところで、記事中で紹介した遠藤文子さんはチャールズ・ディケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』を愛読しているという予想なのですが、ほかにそう思う方いらっしゃいませんか?

以上、作者と共通する話題を持つことで、読書がより楽しくなることを紹介しました。

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