西の方角にある妖精の国

John Duncan, Riders of the Sidhe(妖精の騎手),1911
目次

はじめに

イギリスにおける魔法の歴史にて、イギリスとアイルランドには、ケルト人やゲルマン人による古くからの信仰文化が残っていることを紹介しました。

ケルト人は、ブリテン諸島(現イギリスとアイルランドの島々)から西の方角、つまり海の先に妖精の国があると信じていました。この伝説は、英文学におけるさまざまな物語に受け継がれています。そしてファンタジー文学の祖であるJ.R.R.トールキンが、その伝説を『指輪物語』にて踏襲したために、伝説は英文学の枠を超えて、ファンタジー文学界の約束事になっているようです。

今回は、西の方角にある妖精の国へ向かう者の例を紹介します。ケルト神話と、さまざまな文学作品から引用します。

ケルト神話

異界への入口でも触れましたが、アイルランドに伝わるケルト神話には、ダーナ神族と呼ばれる神々がいます。彼らはのちに島に上陸した人間のミレー一族に敗れ、地下へ逃げていきました。地下に神々の宮殿がある丘は「シー」と呼ばれ、やがて「妖精の丘」と呼ばれるようになりました。これはダーナ神族が人びとの間で、妖精として認知されるようになったことを意味しています。

ダーナ神族は地下だけではなく、海のかなたでも暮らしていると言われています。その国は西の方角にあり、「常若の国」と呼ばれています。

海のかなたや地下にある楽園、常若の国には、いつも「りんご」の木がたわわに実をつけ、生きている「豚」と、食べるばかりに料理されていて、いくら食べてもなくならない「豚」があり、飲んでも尽きることのない「エール」、この三つがあることになっています。

井村君江『ケルトの神話―女神と英雄と妖精と』ちくま文庫、2018年、78頁。

常若の国は悲しみも苦しみもない神々の楽園です。しかし人間がそこへ行ってしまうと、浦島太郎と同じ運命をたどります。すなわち、楽園で楽しい数年を過ごしているうちに、人間の国では何百年も経っているのです。

アーサー王物語

《アーサーと不思議なマント》トマス・マロリー『アーサー物語』より。
《アーサーと不思議なマント》トマス・マロリー『アーサー物語』より。

『アーサー王物語』とは、イギリスを舞台にした中世期の代表的な騎士道物語です。騎士道物語とは、騎士の武勲や恋について吟遊詩人がうたった物語です。

『アーサー王物語』は長らく口承によって人々の間に伝わっていましたが、それが中世後期に文字に起こされ、文献がいくつか作成されました。文献によってアーサー王の最期は異なりますが、ここでは、西の国へ旅立つアーサー王のお話を紹介します。

『アーサー王物語』では、ケルト人社会の祭司、ドルイドをモデルにした魔術師マーリンや、ケルト神話における女神モリガンである、魔術師モルガン・ル・フェが登場します(※)。そのことから、『アーサー王物語』はケルト文化が根底にある物語であることが分かります。

※モリガンについては、騎士は湖で美女に出会うを参照。

「円卓の騎士」という言葉で有名なように、アーサー王は臣下に対等に接する良き王であり、さまざまな武勲を収めました。しかし最後の戦いのときに、裏切り者のモードレットと戦い、致命傷を負ってしまいました。すると、傷を負ったアーサー王のもとに、海を渡って妖精がやってきます。妖精たちは彼を船にのせ、海の向こうにある西の国、アヴァロンへと連れていきます。傷を癒したアーサー王は今でもアヴァロンで暮らしており、有事の際にはブリテン島に駆けつけると伝えられています。

ここで登場する妖精とは、ケルト神話でいうダーナ―神族の神々、精霊のことです。西の国へ行けるのは基本的に妖精のみですから、一説ではアーサー王は人間ではなく、妖精の仲間だったと言われています。

指輪物語

『 指輪物語』は19世紀生まれの文献学者、J.R.R.トールキンが書いたファンタジー小説です。一般的にはこの小説を映画化した『ロード・オブ・ザ・リング』のほうが有名ですね。じつはファンタジーという小説ジャンルは最近生まれたもので(※)、トールキンの書いた『指輪物語』がその始まりであるとされています。

※ファンタジーの歴史については、おとぎ話とファンタジーの違いを参照。

この物語にもケルト神話の影響が見られます。魔法使いのガンダルフはケルト人社会の祭司、ドルイドがモデルと言われていますし、人間と並ぶ種族であるエルフやドワーフもケルト(あるいはゲルマン)文化に由来しています。

ただし、物語の主役であるホビット族は、トールキンが創造したオリジナルの種族です。指輪物語の冒頭で、トールキンはホビット族に関して楽しそうに紹介します。皮肉なことに、その数ページに渡るホビットの紹介が、はじめて『指輪物語』を読もうとする人の気概を折る要因となるのですが。(わたしは幼い頃に一度『指輪物語』を開きましたが、冒頭を数行読んでそっと閉じ、その後10年ほど開きませんでした。)

それはともかく、ホビット族の主人公フロドも、物語の最後で西の国へ旅立ちます。フロドだけでなく、魔法使いのガンダルフや、高名なエルフたちも一緒に旅立ちます。超自然的な力(※)をもつ彼らは、ミドルアースの平和を人間に任せ、自らは引退することにしたのです。こうしてミドルアースは人間の王が支配する、人間の世界になりました。この話はケルト神話のダーナ神族が西へ去り、ブリテン諸島が人間に統治される国になったことと重なります。

※超自然的な力については、魔法から科学への移行を参照。

なお、フロドはホビット族なので超自然的な力は持っていません。それにもかかわらず、なぜ妖精の国へ旅立つのかは、『指輪物語』でフロドが灰色港から旅立つ理由を参照してください。

【中古】指輪物語 1 新版/評論社/J.R.R.トールキン(文庫)

ゲド戦記

『ゲド戦記』はアメリカ人作家である、アーシュラ・K・ル=グヴィンが書いたファンタジー小説です。彼女はファンタジーというよりは、SFをメインに執筆する作家です。しかしファンタジー愛好家のなかでは、『ゲド戦記』はファンタジー小説として根強い人気があるように見受けられます。詳しくはファンタジー小説について語る2 おすすめ本を参照してください。

日本において『ゲド戦記』といえば、ジブリが映画化した作品が知られています。しかし映画は原作とストーリーが全く異なりますので、映画版については、本記事では忘れてください。

ル=グヴィンはアメリカ人なので、ケルト神話の影響は受けていませんが、ファンタジー文学の祖であるトールキンの影響は受けています。彼女もやはり、超自然的な存在を西の国へ旅立たせる、という構想を物語に取り入れました。

『ゲド戦記』において、テナーが育てた娘、テハヌー(あざなはテルー)は不思議な力を持っています。彼女は幼い頃、カレシンという名の竜を呼びよせ、ゲドとテナーの苦境を救ったことがあります。

この世の時が刻まれたとき、人間と竜は同じひとつのものだった。だが、竜は野生と自由を選び、人間は富と力を選んだ。選んで、分かれた。

ル=グウィン『ゲド戦記 5 アースシーの風』清水真砂子訳、岩波書店、2006年、189頁。

物語中では、ずっと昔、竜と人間は同じ種族だった、という設定があります。そのため今でもまれに、竜の力をもった人間や、人間の力をもった竜が生まれます。アースシーの人々はそれを竜人と呼びます。竜を自分の仲間だと認識するテハヌーは、今はほとんどアースシーにいなくなってしまった、竜人だったのです。

テハヌーの仲間である竜たちは、アースシーという世界が変化する過程で、次々と西へ旅立っていきます。そして物語の最後で、竜の長老であるカレシン、竜でありながら人間であるアイリアン、人間でありながら竜であるテハヌーも、西方へ旅立っていきました。大切な娘を失ったテナーは、ゲドにこう語ります。

「みんな行ってしまった。もうハブナーにも西方の島々にも竜は一匹も残っていないわ」

ル=グウィン『ゲド戦記 5 アースシーの風』清水真砂子訳、岩波書店、2006年、372頁。

竜はアースシーの魔法使いが魔法に使う言葉である「太古の言葉」を、仲間と話す際に自然に使う、超自然的存在でした。すなわち、ケルト神話でダーナ神族が西へ旅立ったように、あるいは『指輪物語』でエルフたちが西へ旅立ったように、『ゲド戦記』にて竜が西へ旅立ったことは、人間が支配する世界のはじまり、新しい時代のはじまりを意味するのです。

おわりに

今回は、西の方角にある妖精の国へ向かう者たちの紹介をしました。

西の方角に超自然的存在が暮らす島があるという伝説は、ケルト神話に由来しています。そのため、ケルト文化が根付いているイギリスで生まれた文学作品、『アーサー王物語』と『指輪物語』にはその伝説が取り入れられています。そして、ファンタジー文学の祖であるトールキンがケルトの伝説を取り入れたことで、その作品に影響された『ゲド戦記』にも西=妖精の国という構想が取り入れられました。

西へ向かう者たちは神々、妖精、エルフ、魔法使い、竜など、みな超自然的な力をもつ存在です。残ったのは人間であり、彼らは超自然的な存在に頼らず、自立して生活しはじめます。それは人間の時代、新たな時代の到来を意味します。

別の世界へと去っていく妖精たちは私たちに、人間にもこの世を生き抜くことができる十分な力がある、ということを伝えたかったのかもしれませんね。

以上、西の方角にある妖精の国でした。

John Duncan, Riders of the Sidhe(妖精の騎手),1911
John Duncan, Riders of the Sidhe(妖精の騎手),1911

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