『鋼の錬金術師』のテーマ考察

地球へ向かうルシファー。Gustave Doréによる、ミルトン『失楽園』のための挿絵。1866年。
目次

はじめに

今回は『月間少年ガンガン』において2001年から2010年まで連載された、荒川弘の漫画『鋼の錬金術師』について、メインテーマを考察します。ネタバレするので未読の方はお気をつけください。

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最近まで私の『鋼の錬金術師』に対する知識は、連載当時に単行本で14巻まで読んだことがある(全27巻)、アニメ1期を観たことがある(※)程度の知識でした。

※アニメは2003年から2004年まで放映された『鋼の錬金術師』と、2009年から2010年まで放映された『鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST』の2種がある。前者は原作が完結する前の物語であるため、原作とは異なるストーリー展開であり、後者は原作を忠実になぞったストーリー展開である。

連載当時は自身が幼かったこともあり、物語内容が難しく感じ、あまり魅力を感じませんでした。しかし最近になり魅力を感じ、既に読んだことのある巻も含めて、全巻読んでみました。

すると非常によくできた漫画であると感じると同時に、昔は気づかなかった発見がたくさんありました。そこで今回は『鋼の錬金術師』のメインテーマを考察します。

物語の概要

まず簡単に物語の概要を紹介します。

物語の主人公はエドワード・エルリックという15歳の少年です。彼は1歳年下の弟である、アルフォンスと共に国内を旅しています。彼らエルリック兄弟には、明確な旅の目的があります。それは「元の身体を取り戻すこと」です。

エルリック兄弟は兄が11歳、弟が10歳のとき、「人体錬成」の錬金術を試みます。それは成功した錬金術師はいないと言われている、禁忌の錬成でした。病気で死去した母親をどうしても生き返らせたかったからです。

なお、本物語における錬金術とは、科学と同様に扱われる技術のことです。錬金術の原則は等価交換となっています。簡単に説明すると、質量が一の物からは同じく一の物しか生まれず、水の性質の物からは同じ水属性の物からしか生まれないという法則です。

人体錬成は失敗しました。兄弟の錬成理論には誤りがあり、その代価としてアルフォンスの身体すべてと、エドワードの左足が「持っていかれ」ます。不幸中の幸いとして、エドワードは自身の右腕を代価として、弟の魂だけを取り戻し、鎧に定着させることに成功しました。

そうして、エドワードは左足と右腕を失い、代わりに機械鎧オートメイルをつけて生きることになりました。アルフォンスは身体すべてを失い、空の鎧に魂のみ宿して生きることになりました。兄弟は母親を生き返らせることは諦めますが、自分たちの身体を取り戻すことを決意して故郷を後にします。

*

以前、『ハリー・ポッター』でハリーがニワトコの杖を捨てる理由で、ファンタジー冒険物語のプロットを紹介しました。このプロットに当てはめると、『鋼の錬金術師』における冒険の目的は、元の身体を取り戻すことです。つまり、兄弟が身体を取り戻すというミッションを達成したとき、冒険が終わります。

しかし物語が進むにつれて、ミッションは個人的な目的を達成することのみではなくなります。

実は、兄弟が元の身体を取り戻すためにあてにしていた、賢者の石(※)には、後ろ暗い面がありました。賢者の石の材料は、なんと複数人の生きた人間だったのです。兄弟は賢者の石の製造法の秘密を知ってしまったために、国家的な陰謀に巻き込まれることになります。

※西洋で発展した錬金術(金をつくりだすことを目的とした技術)では、卑金属を金に変える際の媒体として、賢者の石の存在が信じられていた。『鋼の錬金術師』における賢者の石とは、等価交換という錬成法則を無視できる莫大なエネルギーをもつ石

兄弟たちは、自分たちが暮らす国が、「ホムンクルス」という人ならざる者によって建国され、支配されていることを知ります。また、ホムンクルスたちが国民全員の命を代価とする、国家規模の錬成の準備を進めていることを知ります。その陰謀を阻止することが、兄弟の第二のミッションとなります。

まとめると、『鋼の錬金術師』における冒険の目的は以下の通りです。

  1. エルリック兄弟が元の身体を取り戻すこと

  2. ホムンクルスの陰謀を阻止し、国民の命を救うこと

「等価交換」はメインテーマではない

メインテーマを考察するにあたり、前置きです。

作中では繰り返し「等価交換」という単語が持ち出されており、おそらくそれゆえに等価交換がテーマであると考えている人が多いかもしれませんが、私はそうは考えません。

第一の根拠として、等価交換という考え方が「少年」漫画には不適切だからです。少年漫画というジャンルの漫画は、第一の目的として、少年に夢と希望を与えることを目的としているはずです。等価交換は、非常にビジネスライクでドライな、(悪い意味で)大人らしい考え方です。そのようなテーマは、未来への希望に溢れた(あるいは希望あふれる教育的な少年漫画に慣れた)少年の心を掴むテーマとしては、マーケティング上、不適切です。

第二の根拠として、エルリック兄弟が最終話において、等価交換の法則を否定するためです。一般に冒険物語においては、その特質上、主人公が成長する物語であることが必須になります。つまり冒険のミッションを達成することによって、『鋼の錬金術師』における主人公は、何等かの点において成長をすることが必須になります。

エドワードは冒険が終わったとき、それ以前と比較して、どのような成長を遂げたのでしょうか? それは一つには、「等価交換を否定する」という成長です。エドワードは様々な人との関わりを経て、等価交換が必ずしも正しいとは限らない、ということを学びました。つまり、等価交換の考え方は、主人公が成長する「前」の考え方なのです。ゆえに「等価交換」が物語のテーマではないということが分かります。

2つのメインテーマ

私の考えでは、『鋼の錬金術師』におけるメインテーマは以下2つです。

1. 傲慢な者には罰が下る(「思い上がった者に絶望を」)

2. 1の失敗から学びを得て、ふるまいを正した者には希望が与えられる

以下で順に説明していきます。

1. 傲慢な者には罰が下る

地球へ向かうルシファー。Gustave Doréによる、ミルトン『失楽園』のための挿絵。1866年。
地球へ向かうルシファー。Gustave Doréによる、ミルトン『失楽園』のための挿絵。1866年。

一つ目のテーマは、文学史の観点から考えたとき、非常に古くからあるテーマです。「傲慢」はギリシア語で「ヒュブリス ὕβρις」と言います。ヒュブリスはギリシア悲劇において、悲劇の原因とされる重要な概念です。ヒュブリスがもたらした悲劇の例として、神話では以下2つを挙げることができます。

  • 太陽に近づきすぎたために、蝋でできた翼が溶けて地に落ちたイカロス(ギリシア神話)

  • 神に対する謀反を起こし、堕天使となったルシファー(キリスト教)

古代ギリシアの考えが受け継がれたのでしょう、英語には”pride comes before a fall”という諺があります。直訳すると「失墜の前には傲慢がくる」という意味です。

実は、日本にも同じような考えを含有した言い回しがあります。『平家物語』の冒頭に出てくる、「驕れる者久しからず」です。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。

沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。

驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。

たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

『平家物語』より

平家物語の冒頭では、栄華を極めた平家も、世の理からすれば滅びる定めだった、という意のことを語っています。このことから、傲慢な者が失墜するという考えは、西洋に限らず古くから人類の文化で存在するということが分かります。

おそらくこのようなテーマが人類史上生まれ、語り継がれてきた理由は、おごり高ぶる者が共同体に発生した場合、共同体の存続が危ぶまれるからです。ヒトは社会的動物であり、他者との協力なくしては生きていけません。つまり、社会(共同体)を脅かす者は種族繁栄において邪魔者であり、排除すべき存在なのです。よってこのような人物が共同体内で発生しないよう、人びとに教育する目的でこのようなテーマが存在すると考えられます。

根拠

では、『鋼の錬金術師』において、「傲慢な者には罰が下る」というテーマが表れている箇所はどこでしょうか。根拠として以下3つを挙げます。

  1. 第1話 にてエドワードが言う台詞

  2. クセルクセスという名前

  3. 最終話にてフラスコの中の小人ホムンクルスの「真理」が言う台詞

1. 第1話にてエドワードが言う台詞

漫画において第1話とは、物語のはじまりであると同時に、物語全体のテーマを読者に示す必要がある重要な1話です。その第1話にて、「傲慢な者には罰が下る」のテーマがはっきりと表れます。

第1話にてエドワードとアルフォンスは、太陽神が信仰されているリオールという町を訪れます。そこで出会った少女ロゼは、恋人を生き返らせるという目的のために、太陽神レトの教えを熱心に守っています。それを聞いたエドワードは嘲笑し、「祈って待ちつづけるよりは科学的に(つまり錬金術で)人を生き返らせる方法を探したほうがよっぽど有意義だ」と言います。ロゼはむっとして、「高慢ですね。ご自分が神と同列とでも?」と問います。するとエドワードは次の通り応えます。

ーーそういやどっかの神話にあったっけな

太陽カミサマに近づきすぎた英雄は

蝋で固められた翼をもがれ

地に堕とされる」

……ってな

荒川弘『鋼の錬金術師』第1話より

この台詞でエドワードは、自分と弟が禁忌とされている人体錬成を試み、失敗して罰を受けたことを暗喩しています。台詞では「どっかの神話」と言われていますが、「太陽に近づきすぎた英雄」が指す人物は間違いなくギリシア神話におけるイカロスのことです。ヒュブリス(傲慢)がもたらした悲劇の例として、先ほど紹介しました。

『鋼の錬金術師』における契機事件(※)は、人体錬成の失敗です。エドワードはその事件を、イカロスの神話に例えることによって、「自分たちの傲慢がもたらした当然の報い」として認識しているのです。

※契機事件とは、冒険物語において、主人公が旅立つきっかけとなる出来事

この部分が、「傲慢な者には罰が下る」のテーマが表れている箇所の1つ目です。契機事件が「傲慢」と結びついていることによって、物語全体が「傲慢」というキーワードに結びつくことになります。

2. クセルクセスという名前

クセルクセス1世、イラン国立博物館所蔵
クセルクセス1世、イラン国立博物館所蔵

「傲慢な者には罰が下る」のテーマが表れる箇所2つ目は、クセルクセス王国が滅亡する場面です。

物語の中盤になると、「クセルクセス」という古代王国の名前が出てきます。錬金術発祥の国としてかつて栄華を極めた王国だったが、一夜にして滅亡したという伝説が残っています。

物語が進むにつれ、クセルクセスが滅亡した原因は、国民全員の命を代価とした、賢者の石の錬成をしたからだということが明らかになります。

事の発端は、時の統治者、クセルクセス王が不老不死を望んだためでした。当時、王の相談役として、フラスコの中の小人ホムンクルスという人工生命体がいました。クセルクセスの錬金術師によって生み出された、高度な知能をもつ生命体です。

フラスコの中の小人ホムンクルスは、肉体を持たないため小さなフラスコの中から出られず、不自由をしていましたが、クセルクセス王の願いを聞いて悪知恵を働かせます。王に不老不死を授ける方法を教えると見せかけて、自らが肉体を持ち、不老不死になることを画策しはじめたのです。

結果として、フラスコの中の小人ホムンクルスの画策は成功しました。国全土を使用した錬成によって、国王も含めた国民全員が命を落とし、自らと、血を分けた人間であるホーエンハイム(エドワードとアルフォンスの父)の2人のみが、人びとの精神を体内に取り込み、不老不死となりました。

そうして、ホーエンハイムとそっくりな肉体を得たフラスコの中の小人ホムンクルスは、さらなる野望を抱いて、アメストリス(物語の舞台となる国)の建国に乗り出すのです。

*

クセルクセス滅亡のエピソードには、「傲慢な者には罰が下る」というテーマが表れています。もちろん、クセルクセス王が「不老不死」という不可能な願望を抱いたために、罰が下された、という内容もそのテーマを表しています。しかしそれ以前に、「クセルクセス」という名前がヒュブリス(傲慢)を想起させる名前です。

歴史上で「クセルクセス」といえば、最も有名な人物が、アケメネス朝ペルシアのクセルクセス1世です。クセルクセス1世の統治時代は、先王のダレイオス1世につづき、ギリシアとのペルシア戦争をした時代です。兵力の差ではギリシアが圧倒的に不利であり、屈強なギリシアの都市国家として有名なスパルタでさえも、ペルシアに敗北しました(テルモピレーの戦い)。

しかしペルシア戦争で最も有名な戦いは、紀元前480年のサラミスの海戦です。それは、都市国家アテネが中心となったギリシア軍が、機転を利かせた戦略から兵力の差を覆して、ペルシア軍に勝利した戦いでした。

クセルクセス1世はサラミスの海戦での敗北をきっかけに、ギリシアへの浸出を諦めます。この戦いは専制君主制のペルシアに対し、民主制の力を結束させたギリシア都市国家が、独立と自由を守ったという点において、歴史上重要であるとともに、ギリシア人の自信を高めた戦いでした。

サラミスの戦いによる敗北を一つの契機として、アケメネス朝ペルシアは衰退していきます。言い換えると、ダレイオス1世で最盛期を迎えたアケメネス朝ペルシアは、その次の王クセルクセス1世の代に、衰退の道を歩みはじめるのです。よって、「クセルクセス」という名前は、ヒュブリス(傲慢)とそれによる失墜を想起させます。

ちなみに『鋼の錬金術師』において主人公たちが暮らす国は「アメストリス」と呼ばれますが、この名はダレイオス1世の妻の名前と同じです。

以上より、『鋼の錬金術師』における古代王国クセルクセスの滅亡は、「傲慢な者には罰が下る」のテーマが表れている箇所であるといえます。

3. 最終話にてフラスコの中の小人ホムンクルスの「真理」が言う台詞

「傲慢な者には罰が下る」のテーマが表れる箇所3つ目は、最終話でフラスコの中の小人ホムンクルスとその「真理」が向き合う場面です。

『鋼の錬金術師』における「真理」とは、あらゆる人間が自身の内に持っている、錬金術の力の源となるものです。そして心理学的観点において、無意識下にいる「もう一人の自分」でもあります。「真理」は自分自身でありながらも、自分とは異なる意志をもって言葉を発する存在です。

エドワードによって肉体を破壊されたフラスコの中の小人ホムンクルスは、意識の世界から消滅し、代わりに「真理」がいる自らの無意識の世界に飛ばされます。そこで彼は自らの「真理」、つまりもう一人の自分と向き合うことになります。「真理」は次の通り言います。

「思いあがらぬよう正しい絶望を与えるのが真理という存在」ーーとおまえは言ったな

だからおまえの言う通り

おまえにも絶望を与えるのだよ

荒川弘『鋼の錬金術師』第108話より

「真理」は続けて言います。

思いあがった者に絶望を……

おまえが望んだ結末だ

同上、第108話より

その言葉を最後に、フラスコの中の小人ホムンクルスは「真理の扉」のなかに閉じ込められます。「真理の扉」内は意識の世界とは繋がっていません。すなわち、フラスコの中の小人ホムンクルスは永遠に扉のなかをさまようことになるのです。

この場面では、「何人も傲慢である者は罰から逃れられない」という、物語のテーマがはっきりと表れています。かつて不老不死を望んだクセルクセス王がフラスコの中の小人ホムンクルスによって滅ぼされたように、「神」の力を得ようとしたフラスコの中の小人ホムンクルスは、「真理(もう一人の自分)」によって滅ぼされたのです。因果応報とも言い換えられます。

*

記事の冒頭で、『鋼の錬金術師』における冒険の目的として以下2点を挙げました。ラスボスであるフラスコの中の小人ホムンクルスが真理の扉の内に閉じ込められたことは、主人公が2番目のミッションを達成したことを意味します。

  1. エルリック兄弟が元の身体を取り戻すこと

  2. ホムンクルスの陰謀を阻止し、国民の命を救うこと ←達成!

2. 失敗から学びを得て、ふるまいを正した者には希望が与えられる

前章では「 傲慢な者には罰が下る」というテーマについて、物語内で3点の根拠を挙げました。本章では2つ目のテーマ、「(傲慢による)失敗から学びを得て、ふるまいを正した者には希望が与えられる」について考察します。

実を言うと、物語としてはテーマ1のみをメインテーマとしても成り立ちます。しかし問題は、そのようにした場合には、結末が悲劇となってしまうことです。すなわち、イカロスが地に落ちたように、あるいはルシファーが堕天使になったように、エドワードとアルフォンスは元の身体に戻らず結末を迎えることになります。

どういうことか、詳細に説明していきます。「傲慢な者には罰が下る」というルールは、『鋼の錬金術師』の物語世界においては絶対のルールです。不老不死を望んだクセルクセス王は滅び、「神」になろうとしたフラスコの中の小人ホムンクルスは滅びました。死者を生き返らせることを望んだエルリック兄弟も当然、その罰を受けました。エドワードは左足を、アルフォンスは全身を失ったのです。

エルリック兄弟が人体錬成をしたという事実は、取り消すことのできない罪です。そして傲慢によって罪を犯した者は誰であろうと、その代償を払う必要があります。もしここで主人公の特権として、理由もなしに彼らの罪を取り消した場合、物語のルールが崩壊してしまいます。言い換えると、「傲慢な者には罰が下る」というルールのみで物語が終わる場合、エルリック兄弟は罪を犯したまま救われないことが正となります。

しかし、もしそのような悲劇の結末が訪れたとしたら、夢と希望を持つ若き読者たちはがっかりです。そこで考えられたのが、テーマ2「失敗から学びを得て、ふるまいを正した者には希望が与えられる」です。このテーマが加わることで、一度罪を犯した者にも、希望が与えられることになります。

根拠

では、『鋼の錬金術師』において、「失敗から学びを得て、ふるまいを正した者には希望が与えられる」というテーマが表れている箇所はどこでしょうか。根拠として以下3つを挙げます。すべて最終話の出来事です。

  1. フラスコの中の小人ホムンクルスの「真理」が言う台詞

  2. セリムが生き残ったこと

  3. 兄弟が元の身体を取り戻したこと

1. フラスコの中の小人ホムンクルスの「真理」が言う台詞

「失敗から学びを得て、ふるまいを正した者には希望が与えられる」というテーマが表れている箇所の1つ目は、フラスコの中の小人ホムンクルスの「真理」が言う台詞です。前章では「 傲慢な者には罰が下る」のテーマ観点から引用しましたが、この箇所には希望の示唆もあります。

フラスコの中の小人ホムンクルスはエドワードに肉体を破壊され、真理の扉の前に飛ばされます。そのとき、「なぜ私のものにならぬ。神よ!!」と独白すると、「真理」が次の通り応えます。

おまえが己を信じぬからだ

(中略)

盗んだ高級品を身につけて自分が偉くなったつもりか?

(中略)

他人の力を利用し「神とやら」にしがみついていただけで

おまえ自身が成長しておらん

同上、第108話より

この台詞を言い換えると、フラスコの中の小人ホムンクルスがもし「己を信じ」、「成長」したとすれば、今回のような結末にはならなかった、です。「成長」とは後ほど詳しく述べますが、エルリック兄弟のような成長です。

兄弟は自身が傲慢であったことを認め、反省し、変わろうと努めました。一方で、フラスコの中の小人ホムンクルスはクセルクセス王国を滅ぼしたことを皮切りに、数々の悪行をしてきましたが、自身が傲慢なことは一向に認めません。認めていないので、反省や改善もできません。つまりフラスコの中の小人ホムンクルスは傲慢という罪を犯したあと、何も成長していないことになります。「真理」はそれを指摘して、成長がないゆえに、罰として絶望を与えると言っているのです。

よって「真理」による台詞が、「失敗から学びを得て、ふるまいを正した者には希望が与えられる」というテーマが表れている1つ目の箇所となります。

2. セリムが生き残ったこと

「失敗から学びを得て、ふるまいを正した者には希望が与えられる」というテーマが表れている箇所の2つ目は、セリムが生き残ったことです。

フラスコの中の小人ホムンクルスは自身の野望を叶えるにあたり、自分の血から7人のホムンクルス(人造人間)をつくり、部下として彼らに計画の準備を進めさせます。7人のホムンクルスは、それぞれが「七つの大罪※」の罪と対応しています。具体的に言うと、フラスコの中の小人ホムンクルスは自身がもつ七つの罪を取り出し、それぞれの罪を人格化したのです。

※七つの大罪とは、ローマ・カトリック教会(キリスト教の一派)による用語。ローマ・カトリック教会の教えによると、人間は次の七つの罪を持っているといわれる。「傲慢」「強欲」「嫉妬」「憤怒」「色欲」「暴食」「怠惰」

セリムとは、フラスコの中の小人ホムンクルスが最初につくりだした、「傲慢」の罪を人格化したホムンクルスです。エルリック兄弟の父であるホーエンハイム(同時にフラスコの中の小人ホムンクルスと因縁がある)は、セリムのホムンクルスとしての能力を見たとき、次の通り言います。

あいつが最初に切り離したのがおまえ……..「傲慢プライド」だったって訳だ

ご丁寧にフラスコの中にいた頃の姿に似せて切り離すとは

ーーいや、「名は体を表す」ってやつかね

その姿こそが傲慢で自尊心の強いあいつーー

おまえの父親の本質か

同上、第78話より

この台詞から読み取れることは、7人のホムンクルスのなかでも、「傲慢」を表すセリムが、彼の父親つまりフラスコの中の小人ホムンクルスに最も似ているということです。言い換えると、フラスコの中の小人ホムンクルスには7つの罪のなかでも、「傲慢」の罪が最も強いということになります。

テーマ1の考察でも述べたように、フラスコの中の小人ホムンクルスが失墜する原因はその「傲慢」さゆえです。英語の諺”pride comes before a fall”の「プライド Pride」ゆえです。よって、「傲慢」の罪が最も強いことは当然のことです。

フラスコの中の小人ホムンクルスの罪を最も表しているのは「傲慢」である、との考えに基づくと、「傲慢」の人格化であるセリムは、フラスコの中の小人ホムンクルスの鏡映しの人物、つまりもう一人のフラスコの中の小人ホムンクルスであると考えられます。

最終話までに7人のホムンクルスのうち、6人は命を落としますが、セリムだけは生き残ることを許されます。危険分子は全員排除したほうがよいだろうに、というのが初読時の感想でしたが、よく考えると「セリムが生き残る」という設定に希望が含まれていることが分かります。

いわばセリムは、滅びたフラスコの中の小人ホムンクルスの代人です。フラスコの中の小人ホムンクルスは自らの傲慢を反省できなかったために、罰を受け滅びました。しかし、もし彼が反省できていたら、彼の未来は変わっていたのではないでしょうか。もしかすると、人間と平和的に共存できたかもしれません。フラスコの中の小人ホムンクルスの生き写しであるセリムには、そのチャンスが与えられているのです。

以上より、セリムが生き残ることは、「失敗から学びを得て、ふるまいを正した者には希望が与えられる」というテーマを表しています。『鋼の錬金術師』において、傲慢により与えられる「罰」は、主人公にも悪役にも平等に降り注ぎます。言い換えると、傲慢を反省したときの「希望」も、主人公と悪役に平等に降り注ぐということです。

3. 兄弟が元の身体を取り戻したこと

「失敗から学びを得て、ふるまいを正した者には希望が与えられる」というテーマが表れている箇所の最後は、なんといっても兄弟が元の身体を取り戻したことです。

エルリック兄弟の傲慢は、死者をよみがえらせようとしたこと、すなわち人体錬成をしたことです。この傲慢の罪をいかに認識し、反省するか、という部分に、元の身体を取り戻せるか否かがかかっています。

最終的にエドワードが出した答えは、「真理(と真理の扉)を手放す」ということでした。先ほど紹介した通り、「真理」とは、あらゆる人間が自身の内に持っている、錬金術の力の源となるものです。つまり、エドワードは真理を手放すことによって、「錬金術を使う能力を手放す」ことを選択したのです。

最終話にてエドワードは、元の身体を取り戻す代価として、真理の扉を手放すことを、彼自身の「真理」に告げます。その後の2人の会話は以下の通りです。

真理「……もう、これが無くても大丈夫か?」

エド「錬金術がなくても、みんながいるさ」

真理「正解だ、錬金術師。おまえは真理(オレ)に勝った。持って行け、全てを」

同上、第108話より

エルリック兄弟が犯した罪を考えると、このとき「真理」が何に対して「正解だ」と言っているのかが分かります。錬金術を使う能力を手放すことが、彼らの犯した罪の反省として「正解だ」という意味です。

そもそも兄弟が死者をよみがえらせるという発想に至ったのは、錬金術を学んでいたからでした。つまり彼らの罪は、錬金術の力と自らの才能を過信したことによって生まれたのです。よって錬金術という技術に頼りつづける限り、彼らの罪は償えないということになります。言い換えると、錬金術という技術を捨てたとき、彼らは自らの傲慢の罪を反省したと言えます。

「真理」は錬金術を使う力を手放すと宣言したエドワードに対し、反省の色と成長を見ます。そのため兄弟の罪の証だった、元の身体を彼らに返すことにしたのです。

ここで「アルフォンスは何も手放していないじゃないか」という突っ込みがきそうなので補足です。作中でも繰り返し述べられる通り、人体錬成をした時点でエドワードとアルフォンスの精神は錯綜しています。つまり兄弟は2人で1人、と「真理」に認識されています。よって2人分の罪の代価を払えば、それを支払う者が1人であろうと2人であろうと、どちらでも構わないのです。結果としてエドワードの「真理(と真理の扉)」は、2人分の罪の代価に見合っていたことになります。

以上より、 兄弟が元の身体を取り戻したことは、「失敗から学びを得て、ふるまいを正した者には希望が与えられる」というテーマを表しています。

なおエドワードが「真理」と「真理の扉」を手放すことで、エルリック兄弟の冒険のミッションのうち1番目が達成されます。こうして物語は終わりを迎えます。

  1. エルリック兄弟が元の身体を取り戻すこと ←達成!

  2. ホムンクルスの陰謀を阻止し、国民の命を救うこと ←達成!

最終話における最後のメッセージ

最後に、第1話と最終話で同じメッセージが語られることについて考察します。

痛みを伴わない教訓は意義がない

人は何かの犠牲なしに何も得る事などできないのだから

第1話の冒頭で語られるメッセージはこの部分までで終わっています。しかし最終話では、このメッセージの続きが語られます。

しかしそれを乗り越え自分のものにした時……

人は何にも代えがたい鋼の心を手に入れるだろう

前半のメッセージは、傲慢によって罰が下ることを表していると考えます。つまり本記事で述べたテーマ1を内包していると考えられます。痛みを伴う教訓とは、エルリック兄弟の場合でいえば人体錬成のことです。言いたいことは、「失敗には痛みが伴うが、成長の糧だと思って前向きに捉えろ」ということでしょう。

後半のメッセージは、成長した者には希望がもたらされることを表していると考えます。つまり本記事で述べたテーマ2を内包していると考えられます。言いたいことは、「重要なのは失敗から学びを得ること(成長すること)であり、そうすれば希望は再びもたらされる」ということでしょう。

メッセージを俯瞰したとき、この漫画が読者に伝えたいことが分かります。それは次のようなことでしょう。「人生には痛みの伴う失敗があるが、成長の糧だと思って前向きに捉えなさい。失敗にめげずに辛い時期を乗り越えたとき、再び希望がもたらされるだろう」。それはまさにエルリック兄弟の成長物語を表していると言えます。

おわりに

今回は『鋼の錬金術師』のテーマを考察しました。言いたいことを全て含めた結果、膨大な文字数になってしまいました。ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。

幼い頃に読んだ『鋼の錬金術師』を再読しようと思ったきっかけは、第1話で起きたリオールの事件が、結末への重要な伏線だったと知ったことです。私の印象では、漫画の第1話というものは、主人公がどのようなキャラクターだとか、これから始まる話はどのようだだとか、全て紹介に徹するものです。そこに重要な伏線を引くには、物語が始まる前からかなり念入りにプロットを作り込んでいなければなりません。一度公開した話の内容は修正できない漫画において、ここまで複雑なプロットを組めることは素晴らしいと思います。結論として、『鋼の錬金術師』は物語として完成された素晴らしい漫画です。

ちなみに『鋼の錬金術師』における私の推しはマルコー先生です。頭脳派のひ弱なキャラクターかと思いきや、ラストの腹に円柱をぶちこんだり、エンヴィーの賢者の石を破壊したりと、やるときはかっこよくやる所が良いです。またお年を召しているため、軍人ばかりの殺伐とした作中のなかで、子供への眼差しが温かい所も良いです。メイちゃんと共に行動している場面は特に好きです。

あと、若かりし頃のホーエンハイムがイケメンすぎてびっくりしました。作中一番のイケメン。

以上、『鋼の錬金術師』のテーマ考察でした。

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