はじめに
2020年2月21日に日本で公開された、映画『ミッドサマー(Midsommar)』を観ました。目的は2つあり、舞台芸術(衣装、舞台セットなど)の美しさを観ること、夏至祭の描かれ方を観ることでした。
観る前のイメージと、実際に観たときの印象はまったく異なりました。本映画はホラーである、狂っているなどと話題になっており、自分が観て耐えられるかどうか若干不安だったのですが、結論としてはホラーではないし、物語展開に関していえば筋が通っており「狂って」いません。
本記事では、以下2つのテーマについて考察します。
- 主人公以外が死ぬ理由
- 物語はハッピーエンドなのか
夏至祭とは
物語は、西洋の土着の信仰(キリスト教浸透以前から存在した信仰)から生まれた夏至祭を中心として進みます。物語中で夏至(6月)に行われる祭は地域によっては5月に行われ、その場合には五月祭と呼ばれます。春(または夏)の訪れを祝う祭であり、現在でも西洋の各地でその伝統が残っています。
夏至祭ではメイポール(五月柱)と呼ばれる樹が立てられます。この文化はケルト人やゲルマン人による樹木信仰のなごりです。樹木信仰、五月祭について詳細は西洋における樹木信仰のなごりを参照してください。
上記の絵は、中世期の騎士道物語として知られる『アーサー王物語』に登場する、グネヴィア王妃を描いた絵です。五月の生命力にあふれる美しさは同じく豊穣をもたらす女性とよく結びつけられ、メイクイーン(五月の女王)という概念ができた一要因となっていると考えられます。アーサー王物語はケルト人の文化を踏襲した物語なので、ケルト人の女王とも捉えられるグネヴィア王妃にぴったりの称号です。
物語中の文化設定
物語の夏至祭では、9という数字がキーワードになっています。90年に一度の、9日間におよぶ、9人の生贄を捧げる祝祭。おそらく9という数字に何か意味をもたせたのでしょうが、その方面に私は詳しくないので、詳しい方の解釈に任せます。
舞台はスウェーデンのホルガという村です。ゲルマン人が使用していた文字であるルーン文字を伝統的に使用していることから、ケルト文化というよりはゲルマン文化の影響を強く受けている設定であると考えられます。
ゲルマン人が使する文字は、中世期をかけてルーン文字からラテン語のアルファベットに置き換わりました。それはゲルマン民族の諸王がキリスト教に改宗したことが関連しています。西洋における使用言語の変化はラテン語とはを参照してください。
主人公以外が死ぬ理由
物語中で村に訪れる部外者は、ホルガ村出身のペレに誘われたダニーたち4人の学生と、もう一人のホルガ村出身者(名前は忘れました)に誘われた若い恋人同士2人の、計6人です。そして主人公であるダニー以外の部外者5人は全員死にます。
ダニーはなぜ生き残るのか?それはダニーと他の6人の違いを考えれば分かります。ダニーは抗不安剤を飲む、精神の病に苦しむ者で、大学で心理学を学んでいます。つまり彼女は夏至祭に象徴される「非日常」の世界、心理学的な無意識の世界を理解できます。一方でダニーの友人3人とカップル2人は健康で、無意識の世界を理解できません。
以下、詳細に説明していきます。
カップルが死ぬ理由
まず、カップル2人について。彼らは最初の犠牲者になります。それは彼らが最初に、ホルガの伝統を理解できないことを村人たちに示したからです。
ホルガにおいて72歳以上の者は、「人生の季節」の廻りを終えたと解釈され、人為的に死に至らされます。ダニーの友人3人は、文化人類学を専攻していることもあって、その伝統を理解しようと努めますが、カップル2人は発狂し、村人たちを罵倒します。共同体にとって、この伝統を理解できない者、つまり自分の心の隠れた部分、無意識に目を向けようとしない者は不要です。そのためカップル2人は最初の犠牲者となります。
文化人類学を学ぶ学生たちが死ぬ理由
次に、ダニーの友人3人について。物語の序盤で疑問に思いました。なぜダニーだけが心理学を学んでいて、それ以外の友人は文化人類学を学んでいるのか。仲間全員が文化人類学を学んでいてはいけないのか。それは物語が進むにつれて、明らかになりました。
ホルガの村人たちは、文化人類学的な視点を求めていません。たしかに、村人たちは伝統への理解を求めています(そのため先祖の樹に小便をひっかけたマークは殺される)。ですが村の老人が、勉強熱心なジョシュの文化人類学的な意見について、聞き流す場面がありました。ジョシュが「インドでもこのような文化があるんだ!」と興奮ぎみに言ったとき、老人はすぐに話題を変えてしまいました。この行動は暗に、文化人類学的視点で村を見てほしくないことを示していると考えられます。
彼らが部外者に求める視点は、心理学的視点です。「非日常」である祝祭を通じて、自己の内面における無意識の領域(非日常)にいき、意識の領域(日常)と和解する力です。そのため、彼らが文化人類学を学んでいる時点で死亡フラグが立っているのです。
研究心が講じたあまり、禁忌を犯したジョシュは殺されました。そして、ダニーの恋人であるクリスチャンは、無意識と和解するチャンスを何度も与えられているにも関わらず(マヤとの性交など)、その世界を見ようとしないために、最後にダニー自らの指名で、生贄にされました。
クリスチャンがもう一つの世界を見ようとしないことは、ダニーがメイクイーンになったとき、「すみません、何が起こっているのですか?」と村人に尋ねる場面に裏付けられます。村人は笑いながら、彼の目の前で手を叩きます。クリスチャンの頭は朦朧とし、ますます何が起きているのか分からなくなってしまいます。ダニーの立っている世界は、彼の世界とは別世界であり、見ようとする者にしか見えない世界なのです。
クリスチャンに死亡フラグが立っていること、またダニーと結ばれないことは、彼の名前からも分かります。Christianという名前は西洋ではよくある名前で、文字通り、キリスト教徒をあることを意味しています(女性名の場合はクリスティーナ)。夏至祭はキリスト教にとって「異教」的な祭なので、彼があの村に行って無事であるはずがないし、「異教」の女王になるダニーと結ばれることもありません。
西洋における異教については西洋中世期に存続した異教文化を、キリスト教については西洋になぜキリスト教が浸透したのかを参照してください。
ダニーが生き残る理由
ダニーが生き残るのは、夏至祭に象徴される「非日常」の世界、心理学的な無意識の世界を理解し、それと和解したためです。その要因には、第一に彼女自身が精神的な病を患っていたこと、第二に心理学を専攻しそれに関する知見があったことが挙げられます。後述しますが、夏至祭の伝統と融合することによって、彼女自身の不安定な心も融合します。つまり彼女はホルガの夏至祭に参加することで、病を改善したのです。
物語はハッピーエンドなのか
多くの人が殺害されるにも関わらず、この物語はハッピーエンドであると考えます。というのも、主人公はダニーであり、ダニーが幸せになれば物語もハッピーエンドになるからです。
私は物語の序盤でダニーが精神的に患っていることを知り、以下どちらかの結末を予想しました。
- 物語が進むにつれて病気が悪化し、精神状態が崩壊して終わる
- 物語が進みにつれて病気が改善し、精神状態が安定して終わる
この映画に関して「狂気」という言葉を多く聞いていたため、最初は1の結末を迎えるだろうと思っていました。ダニーの心が崩壊するということは、ホルガの村人たちも心が崩壊した人々ということになり、そうなると精神的な狂気の物語になります。そしてダニーにとってはハッピーではない結末に至ります。
しかし村人たちの心は心理学的な意味で健康でした。そのため結末は2になります。村人たちはもう一つの世界と戦うダニーに寄り添い、一緒に声をあげて泣きます。心の無意識を象徴する夏至祭を通して、彼女はあらゆる精神的なしがらみと和解しました。そして、最後には笑顔で幕を閉じるのです。
おわりに
今回は、映画『ミッドサマー』の考察をしました。
この物語は、精神的な病を患っていた女性が、夏至祭を通して自らを縛るしがらみと和解し、病を改善する物語です。ゆえにハッピーエンドの物語です。
以上、映画『ミッドサマー』の解釈でした。