はじめに
今回はフィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読み解釈したことを綴ります。ネタバレありです。
本書は1996年に出版された小説で、古典的SF(サイエンス・フィクション)作品として知られています。1982年には『ブレードランナー』という題名で映画化されています。
世界観の概要
物語の舞台は、〈最終世界大戦〉後の地球、アメリカです。地球全体が核兵器による放射線物質で汚染されているため、多くの人類は火星への移住を済ませています。ただし移住は強制ではなく、地球に愛着がある者や理由があって地球に留まらなければならない者は、地球に残留しています。主人公のリックは、後者の理由で地球に留まる者です。
人類の火星移住は、飴と鞭の2つによって推し進められています。まず鞭は、言うまでもなく「死の灰」と呼ばれ昼夜降下してくる放射線物質です。飴は、人間型ロボット(アンドロイド)の無料貸与です。国連法によって、すべての火星への移民は、自らの下僕となるアンドロイドを無償提供されることになっています。
つまり多くの人類は、放射線物質の恐怖と、自らの下僕を無料で手に入れられるお得感から、火星への移住を果たしてきました。主人公のリックが火星への移住をしない理由は、彼の職業がアンドロイドを狩る〈賞金稼ぎ〉だからです。
地球上には基本的にアンドロイドは存在しません。それは他惑星で奴隷として使用するロボットだからです。しかし、まれに火星で奴隷として働かされていたアンドロイドが主人を殺し、地球に逃亡することがあります。彼らは人間のようにふるまい、アンドロイドであることを隠して暮らしています。
リックの使命は、そのような地球に逃亡してきたアンドロイド――つまり少なくとも人間ひとりを殺した殺人ロボット――を地球の平和のために消すことです。
人間とアンドロイドの違いは何か
一般的に認知されている違い
本作品世界では、人間とアンドロイドの違いは、他生物への「感情移入」ができるかどうかです。生物とは、人間を含めた動物のことです。放射性物質に汚染された地球には、あらゆる動物が絶滅の危機に瀕した、貴重なものとなっています(例えば蜘蛛などの虫でさえも)。そのため人びとが動物を購入するには莫大な費用が必要です。
動物全般が絶滅の危機に瀕している背景もあり、人間は非常に動物に愛着を持ちますが、アンドロイドはそうではありません。アンドロイドは人間や動物を殺すことを平気で行い、当然仲間のアンドロイドも平気で殺します(アンドロイドは厳密にはロボットであり、生物ではないが)。
主人公のリックは、その違いを活用して、人間社会に紛れた8人のアンドロイドを探します。しかし、アンドロイドを狩る中で問題が生じます。それは、アンドロイドよりアンドロイドらしい人間が存在し、人間より人間らしいアンドロイドが存在することです。それによってリックは、アンドロイドを狩ることは本当に正しいのか?という葛藤に悩まされます。
人間性をもつアンドロイドとアンドロイド性をもつ人間
人間性をもつアンドロイドの例が、ルーバ・ラフトと名乗る女性型アンドロイドです。彼女は類まれな歌の才能をもち、オペラ歌手として人間社会に紛れ込んでいます。彼女を追って、リックが美術館へ行くと、彼女はムンクの《思春期》に見入っています。
他方、アンドロイド性をもつ人間の例が、フィル・レッシュという名の〈賞金稼ぎ〉です。リックと同業者の彼は、リックと共にルーバ・ラフトを追って美術館を訪れたとき、ムンクの《叫び》に興味を持ちます。
実はこれら2枚の絵が、ルーバ・ラフトとフィル・レッシュが、人間性とアンドロイド性のどちらの性質を保持しているかを示唆しています。すなわち、《思春期》は具象的な絵画であることからルーバ・ラフトが人間性を保持していること表しており、《叫び》は抽象的な絵画であることからフィル・レッシュがアンドロイド性を保持していることを表しています。
まず、具象を好む者=人間性をもつ、抽象を好む者=アンドロイド性をもつという紐づけが分かる箇所を抜き出します。隣人たちがアンドロイドだと気づいた、イジドアという人物が言うセリフです。
「あんたらはインテリなんだよ」イジドアはいった。すべてが理解できたことにあらためて興奮を感じた。興奮と、そして誇りを。「あんたらは物事を抽象的に考えるから、だから――」むなしく身ぶりした。
フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』浅倉久志訳、ハヤカワ文庫、2020年、214頁
このセリフから、アンドロイドが人間より抽象的な考えをすること、逆にいうと人間がアンドロイドより具体的な考えをすることが分かります。よって、具象的な絵画を好むものは人間性があり、抽象的な絵画を好むものはアンドロイド性があると言えます。
次に、ムンクの《思春期》が具象的な絵画であり、《叫び》が抽象的な絵画であると(作品世界において)定義されている箇所を抜き出します。ルーバ・ラフトを狩ったあとに、フィル・レッシュとリックが会話する場面です。
「ルーバ・ラフトの見とれていたあのムンクの絵、正直どう思う? おれにはピンとこなかった。リアリズム美術ってやつにはぜんぜん興味がない。おれはピカソとか――」
「〈思春期〉は1894年の作品だ」リックはそっけなくいった。「当時はまだリアリズムしかなかった。それを勘定に入れなくちゃ」
「しかし、もう一枚の、男が耳をふさいでさけんでいる絵――あっちは具象じゃなかったぜ」
同上、181-182頁。
フィル・レッシュが「具象じゃない」と言っている絵は《叫び》です。よってこの箇所で、《叫び》が抽象的な絵画であり、逆にいうと《思春期》が具象的な絵画であると定義されていることが分かります。
以上のことから、具象的である《思春期》を好むルーバ・ラフトは人間性をもっており、抽象的である《叫び》を好むフィル・レッシュはアンドロイド性をもっていることが分かります。
リックはルーバ・ラフトがアンドロイドであり、フィル・レッシュが人間であると確認したあと(疑心暗鬼になったリックは彼に判定テストを受けさせた)から、人間性をもつアンドロイドと、アンドロイド性をもつ人間が存在することを知ります。リックにとっては、アンドロイドであるルーバ・ラフトのほうが、人間であるフィル・レッシュよりずっと人間らしかったのです。
それでは、アンドロイドと人間の違いとは、結局のところ何なのか? 実は違いなどなくて、人間と同じもの(アンドロイド)を、自分は殺しているのではないか? リックはそう考えはじめ、〈賞金稼ぎ〉の仕事を続ける自信をなくしていきます。
なぜ人びとは動物を飼うのか
作品世界においては、動物を飼うことが富の象徴となっています。なぜなら地球上における人間以外の動物はほとんど滅びてしまったからです。しかし動物を飼うことは、庶民にとっては経済的に大変難しいことです。そのため多くの人は、「電気動物」と呼ばれる、本物の動物と見分けがつかないほどそっくりな動物型ロボットを保持し、本物の動物を保持しているかのように近所の人びとに見せています。
リックに関しては、彼は電気羊を飼っています。その電気羊は、昔飼っていたが現在は死去した本物の羊とそっくりに制作されています。そのため近隣の人びとは、リックがいまだに本物の羊を飼っているものと思い、それが偽物の羊であるとは思っていません。リックは見栄のために、それが電気羊であることがばれないようにするために必死です。
もちろん、ここ(アパートの屋上の牧場)に飼われた動物の中にも、電子回路を内蔵したニセモノは、きっと何頭かいるはずだ。隣人たちがこの羊の動きに目を光らせたことがないように、リックもそんな問題に鼻をつっこみはしない。それはこの上なく礼儀に反する行為だからである。「おたくの羊は本物ですか?」とたずねたりするのは、相手の市民の歯や毛髪や内臓が本物かどうか質問する以上のはなはだしい無作法とされている。
同上、14頁。
実は、人びとが動物または電気動物を飼うのは、見栄のためだけではありません。見栄よりもっと重要なのは、「人間であることを実感すること」です。
作品世界において人びとは、マーサー教と呼ばれる宗教を信仰しています。それは他者と感情を共有する宗教です。つまりアンドロイドができない、「感情移入」をする宗教なのです。人びとは無意識のうちに、自分がアンドロイドではなく人間であると実感したいがために、マーサー教を信仰します。
マーサー教と同様のことが、人びとが動物や電気動物を飼う行為に言えます。動物を飼うとは、他生物に愛着をもつことです。これはアンドロイドができない行為です。すなわち人びとは動物または電気動物を飼うことによって、自分が人間であることを無意識に確認したいのだと考えられます。
題名に込められた意味
最後に、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』という題名について考察します。物語の題名とは、その作品のテーマそのものです。ではこの題名は何を意味しているのでしょう?
作中では、アンドロイドは眠ると夢を見ることが語られます。夢は見る。ですが、「電気羊の夢」となるとどうなのでしょう?
先述した通り、動物または電気動物を飼うとは、人間が人間であることを確認する行為です。きっと人間は自分が大切にしている動物(電気動物)の夢を見ることでしょう。
他方で、アンドロイドは動物についての夢を見ないでしょう。「感情移入」ができないアンドロイドは、他生物の存在に無頓着であり、動物(電気動物)を大切には思わないからです。
しかし任務を遂行するなかで、リックは従来の考え方を覆されました。アンドロイドは、ときに本物の人間よりも人間的である、と彼は気づきました。つまり「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」という問いは、リックの自問を表しています。
アンドロイドは通常、電気羊の夢を見ないはずです。しかし、彼らが人間と同様の精神をもつならば、電気羊の夢を見るでしょう。アンドロイドは精神的にもあくまでロボットなのか、それとも人間になりえるのか。題名はその問いを読者に投げかけており、問いを投げかけること自体が本作品の存在意義、すなわちテーマであると考えられます。
おわりに
今回はフィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の解釈を綴りました。私は普段SFをあまり読みませんが、本作品については非常に楽しかったので、読まず嫌いな面もあったかもな、と思いました。これからは有名な作品からSFジャンルを開拓したいです。
個人的に作中で最もツボだった設定が、火星にできた新しい都市、「ニュー・ニューヨーク」です。「ニューヨーク」だけですでに「新しいヨーク※」の意味なのに、さらにニューをつけるとは、かなり滑稽で面白いアイディアでした。
※大航海時代につけられたアメリカの都市名には「ニュー New」+自国の都市名という名が多い。ニューヨークの「ヨーク」はイギリスにある都市。
以上、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の解説でした。