はじめに
このブログについてにも記載している通り、私は神話や昔話などの口頭伝承に興味があり、それらに関する本を好んでよく読みます。大昔から今まで伝えられてきた口頭伝承には、時代や地域を越えて共通する、人間の根源的な何かが宿っていると考えるからです。
最近、地域を西洋に絞った昔話考察がされた、マックス・リュティの『ヨーロッパの昔話』を読みました。その際、西洋昔話とファンタジー小説にいくつかの共通点があることを発見し、興味深かったので、今回は西洋昔話とファンタジー小説の共通点をまとめます。
※この記事では、今後とくに断りがない限り「昔話」=西洋の昔話を指す。
なお、そもそも昔話(広義にはおとぎ話)とファンタジー小説の違いが分からない、という方は、おとぎ話とファンタジーの違いを参照ください。簡単にいうと、昔話は詠み人知らずの口伝えの物語、ファンタジー小説は作者が存在する書き言葉の物語です。
主人公は孤立している
昔話とファンタジー小説は、第一に、主人公が孤立している点で共通しています。
昔話の主人公は、多くの場合「子供」で、一人っ子か三人兄弟の末子であることが多いです。理由として、①登場人物を少なくして物語を簡素にするため、②主人公と他の2人(主人公と違って過ちをおかす)の対比を強調するため、ということも考えられますが、リュティは何よりもまず、主人公が孤立していることが重要だと考えています。
なぜ主人公が孤立していることが重要なのでしょうか。それは、孤立しているがゆえに、「世界の根源的な力と目に見えない接触を1 」もつことができるからです。例えば、『灰かぶり(シンデレラ)』において、主人公は継母や姉妹に虐げられてひとりぼっちです。しかし、ひとりぼっちがゆえに、魔法使いやモノ言う動物などの異界の住人(彼岸の住人)とつながりを持つことができ、彼らの援助を得て幸福を掴みます。
※「異界」については西洋における森の歴史も参照。
孤立性ゆえに他のものと結びつきやすい、という話の例として、私は理科の授業で習う原子を思いつきました。例えば水素原子は、一つきりでは安定しないため、もう一つの水素原子と結びついて、水素分子を作ります(水素分子=われわれが水素と呼ぶ物体)。ようは、孤立している昔話の主人公は、その状態では不安定なために、通常の人にとってはありえない、様々なものと結びつく可能性があるのです。多くの場合、結びつく対象は、超自然的なものや存在です。
※「超自然」については魔法と科学の違いも参照。
昔話のなかに「結婚」で終わる物語が多いことも、主人公が物語のはじめに孤立していることを裏付けています。結婚して他者との結びつきを得た主人公は、水素原子の例でいうと安定の状態にあるため、もはや超自然的なものとの接触をもたず、昔話の主人公ではなくなるのです(つまり物語が終わる)。
盲人、勘当された者、末弟、みなし子、道に迷った者、それらが昔話の真の主人公である。なぜならば、彼らは孤立者であり、それゆえに他のだれよりも、真に本質的なものに対して自由だからである。
マックス・リュティ『ヨーロッパの昔話』岩波文庫、2020年、149頁。
主人公が孤立しているファンタジー小説の例として、真っ先に私が思い浮かべたのは、J・K・ローリングの『ハリー・ポッター』シリーズです。主人公のハリーは赤ん坊の頃に両親を亡くしているため、母方の叔母家族のもとで暮らしています。しかし、ハリーは叔母家族に虐げられ、遊び友達もおらず孤立しています。ところが、そんなハリーのもとにある日、ホグワーツ魔法魔術学校への入学招待状が届き、彼の物語が始まるのです。
主人公は旅立つ
昔話とファンタジー小説は、第二に、主人公が旅立つ点で共通しています。
昔話は主人公を旅に出させる理由を非常にたくさん見つけだす。すなわち両親の困窮、主人公自身の貧困、まま母の悪意、王様から与えられた課題、主人公の冒険欲、なんらかの命令あるいは求婚の競争などである。主人公を孤立させ、旅人に仕立てあげるきっかけならば、どんなきっかけでも昔話にはふさわしいのである。
同上、45頁。
リュティは、昔話の主人公が旅に出るのは、本質的なものと出会うためだと考えています。本質的なものとは、主人公ひいては主人公に投影されている人間全般にとって、孤立から安定した状態になるための何か、幸福を掴むための何かのことです。
日本には「可愛い子には旅をさせよ」ということわざがあります。それと同様に、主人公が物語の冒頭の状態から変化するためには、つまり成長するためには、厳しく辛い旅が不可欠なのです(※)。
※この点において、リュティは昔話の内容について「一種の弱められた成人手続き(イニシエーション)」であるとも考察している。
主人公が旅に出るファンタジー小説の例に、トンケ・ドラフト『王への手紙』があります。この物語における主人公は、騎士になるために必要な試練をしている最中に、切羽詰まった男から手紙を届けてほしい、と頼まれます。町から3時間ほど離れた場所で待機している騎士の元へ届けるだけ……だったはずが、その手紙がきっかけとなり、主人公の壮大な冒険が幕をあけます。
この物語の魅力については、別記事(こんな冒険小説を読みたかった!トンケ・ドラフト『王への手紙』)にてネタバレなしで熱弁しているので、ぜひ参照ください。もちろん、『王への手紙』の主人公は、苦難に満ちた冒険を経て精神的にも、身体的にも成長します。
主人公は恩寵を授けられる
昔話とファンタジー小説は、第三に、主人公が恩寵を授けられる点で共通しています。
リュティは、昔話においては、自己の活動の手続きのためには、すなわち主人公が実現したいことを達成するには、恩寵が加わる必要があると断言しています。ここでいう恩寵とは、外的原動力と援助のことです。
昔話をつくった人たちは、「だれも自分の幸福を自分だけの手でつかむことはできない2」ということを知っていました。だからこそ昔話おいては、主人公が窮地に陥ったときに魔法の道具がもたらされたり、手助けしてくれる老婆や老翁や動物が現れるのです。なお、昔話の主人公は、自身が魔法使いなのでなく、外部から魔法の道具をもらったり、魔法使いに助けられたりします。
これは共通点の一つ目である、主人公が孤立していることとも関係しています。自然の理として、万物はバランスを取りながら共存しています。例えば(また理科の話になるが)、濃度の異なる液体が隣り合うと、互いの濃度を同じにしようとする「浸透圧」という力が働きます。長風呂をすると手の指がふやけてしわしわになるのは、濃度の濃い人間が濃度の薄い風呂水を吸って、体内濃度を湯船と同じにしようとするからです。
同様に、自然の理にてらすと、孤立した人間にはその報いとして、大きな恩寵が授けられる可能性があります。恩寵を「浸透圧」に例えると、恩寵は恩寵の濃度が薄い人へと流れていくのが理というわけです。
それでは、ひどい境遇にある者に対してしか恩寵は授けられないのでしょうか。いいえ、リュティは次のように言っています。「人間は究極的には孤独なものであるが、しかしくりかえし援助が与えられる3」。つまりどの人間にも孤独になったり、苦しかったりするときはあるけれども、必ず助けてくれる人(もの・動物)がいるということです。
しかしながら、リュティは、このような恩寵に受け身になる姿勢は、前近代的であり、近代以降の人たちは好まないだろう、と言っています。近代以降の人たちは、自分で自分の幸福をコントロールしたい、世界をコントロールしたいと思うからです。むしろ、科学が発達したことによって、人びとは何事もコントロールが「できる」と思っている、と言ったほうが正しいかもしれません。例えば、われわれが冬に夏の野菜を食べられるようになったのは、人間が気候をコントロールしたいと思った結果です(そしてビニールハウスが生まれた)。
昔話は人間をいろいろな可能性が与えられた、恩寵を受けたものとして示す。しかし近代の人間は自己形成と世界形成をめざして努力している。近代の人間は超越的諸力をただ単に受領者として体験するだけでなく、それを認識したいと思う。おそらく彼は恩寵を受けたものであろうと願うよりも、自己自身を決定する人間、自己の目的と自己の道を、意識的に認識して選ぶ人間でありたいと願うだろう。
同上、228頁。
昔話が成立した時代の人びとにとって、自然はコントロールできるものではありませんでした。だからこそ、恩寵に受け身な主人公が成立しました。しかし現代の人びとにとって、そのような主人公は我慢なりません。そのためリュティは、ヘルマン・ヘッセの小説に例えて、「昔話はすぎさった時代のガラス玉遊技である4」と表現しています。
主人公が恩寵を授けられるファンタジー小説の例に、というより、ファンタジー文学の代表としてこれを持ち出さないわけにはいきませんが、J.R.R.トールキンの『指輪物語』があります。主人公のフロドは、魔法使いのガンダルフや、同じく超自然的な力をもったエルフたちに、何度も助けられます。とくに、エルフのガラドリエルから授けられた玻璃瓶は、その聖なる光によって、終盤のフロドの旅を大いに助けてくれます。
※『指輪物語』について語った代表的な記事に、『指輪物語』でフロドが灰色港から旅立つ理由がある。
おわりに
今回は、西洋昔話とファンタジー小説の共通点についてまとめました。以下3点が両者に共通している点となります。
- 主人公は孤立している
- 主人公は旅立つ
- 主人公は恩寵を授けられる
現代社会にあふれる全ての物語は、昔話に代表される口頭伝承の物語の系譜上にあります。よって、あらゆるジャンルの現代小説が、昔話の話型を踏襲しているといえます。しかしながら、ファンタジージャンルの小説は、あらゆるジャンルのなかでも最も昔話の話型に近い小説だと個人的には思っています。その証拠として、たいていのファンタジー小説の主人公は、孤立しており(また若者であることが多く)、何らかの事件で旅立ち、周りの人に支えられながら成長していきます。
とても余談なのですが、今回はたとえ話として、原子と浸透圧の話をしました。中学生か高校生のころの生物や化学の記憶をひっぱりだしてきただけなので、いっけん自分の興味に関係なさそうなことも、学んでおくと自分の世界を広げてくれるんだな……としみじみ思いました。当時は、理系に進むわけでもないのに、なぜこんなことを勉強しなければいけないんだろう、と思ってましたが、何事も勉強しておいて損はないですね。
以上、昔話とファンタジー小説の共通点でした。