ドゥブロヴニク2日目【クロアチア一人旅⑥】

目次

はじめに

前回は、海洋都市ドゥブロヴニクでの旅1日目についてつづった。今回は、ドゥブロヴニクでの旅2日目についてつづる。最終回なので、海外一人旅の総括も記載する。

ドゥブロヴニクの位置。

フランチェスコ会の修道院

昨日のバス移動と城壁歩きの疲れがたまっていたのか、今朝はなかなか起き上がれない。いつものお手製サンドウィッチを食べて、部屋を出たのは10時ごろ。天気がよく爽やかな朝だ。バスに乗って旧市街へ移動する。

まずは前回も触れた、旧市街内にあるフランチェスコ会の修道院を訪れることにする。あわせてドミニコ会の修道院も訪れたかったのだが、改修中だったのか何なのか、入れなくて残念に思った記憶がある。

ドゥブロヴニクのフランチェスコ会修道院は、14-15世紀にかけて建てられた。残念ながら、建物は1667年の大地震で崩れて、再建されたものである。しかし中庭は14世紀のままだ。

フランチェスコ会修道院の中庭。

私は修道院に必ずある中庭が大好きだ。修道院という限られた空間に暮らす修道士たちにとって、中庭はさながら、世界の縮小版であるミクロコスモスである(あるいは、アダムとイヴが暮らしていたエデンの園)。修道士たちは、中庭を囲む回廊をぐるぐる回りながら、瞑想をする。

中庭は精神的に活用されているだけではなく、実用的にも活用されている。具体的には、中庭では多くの場合、薬の原料となる薬草が育てられている。修道院では、その敷地内で自給自足を完結させる必要があるため、怪我や病気の際の薬も自ら調合していたのだ。

ドゥブロヴニクのフランチェスコ会修道院は、前記事でも紹介した漫画『フローラの白い結婚』に頻繁に出てくる。男主人公・ラザロの友人に、フランチェスコ会修道士のブラシウスがいるからだ。薬草(ハーブ)を使って香り石鹸をつくることが好きなフローラに、ブラシウスが修道院で育てた薬草を贈るエピソードもある。

中庭にはオレンジの樹もあった。

中庭の噴水。水は流れていない。

回廊の柱ごしに見る中庭。

中庭を囲む回廊。住宅街にある修道院なので、中庭も回廊もコンパクトだが、小さくても荘厳なおもむきである。

別の角度から回廊。

修道院内には、修道院が保有する貴重品を展示する美術館があった(写真撮影はNG)。30クローナで閲覧できるらしい。受付のおじさんに声をかける。

私「大人1枚お願いします」

おじさん「きみは学生だから20クローナ」

私「いや、私は学生ではな」

おじさん「学生だ」

見た目の年齢で判断するという、ずいぶんアバウトな判断である(ラッキー)。西洋人にとってアジア人は若く(幼く)見えるという話だが、当時は新卒1年目の23歳だったため、実年齢的にも学生である可能性はあるし問題ないな。よし。

美術館では、司祭が着用していたと思われる、きらびやかな刺繍がほどこされたマントや、指輪などの宝飾品をとくにじっくり眺めた。指輪の石は様々な色があり、サイズもデザインも千差万別で美しかった。満足した私は、名残惜しくも修道院を後にした。

他の修道院の様子を知りたい方は、ドイツのマウルブロン修道院を訪れた際の記事があるため、参照してほしい。マウルブロン修道院は、世俗から離れた辺境にあり、典型的な修道院の性質をもっている。

スルジ山に登る

ドゥブロヴニクの背後にあるスルジ山。標高412m

修道院を後にした私は、旧市街の背後にある、スルジ山に登ることにした。登るといっても、ケーブルカーがあるため歩く必要はない。山の展望台からは、ドゥブロヴニクやアドリア海の島々を見下ろすことができる。

山頂から見下ろす旧市街。

拡大。港や目抜き通りの位置がよく分かる。

山の荒野を、山羊の群が歩いている(拡大してよく見てくれ)。誰かが放牧しているのだろう。

観光客はみな、アドリア海側の景色にしか魅力を感じないようだった。しかし個人的には山の反対側の、内陸の景色がとてもよかった。見てくれ、この荒涼とした大地を。ファンタジー映画のロケに使えそうな景色だ。こういう場所を徒歩で旅することが、本当に旅するということなのだろう。

海とは反対側の景色。家が一軒もない。

あとで地図を確認したところ、内陸側はボスニア・ヘルツェゴビナ(左側)とモンテネグロ(右側)の領土だ。

地図を確認したところ、そこに見えている山脈までは40kmほどあるもよう。日本の国土のほとんどは山であり、山が視界を邪魔するため、このように何十kmも先まで視界におさめる機会は貴重である。

よく見ると、オレンジ屋根の家がぽつりぽつりとある。

草むらには春の花々が咲いている。

スルジ山を下る

登りはケーブルカーを使ったが、下りは歩くことにした。海側の山肌にジグザグの道が整備されており、だんだんと近づいてくる旧市街を眺めながら下りられる。

海側の登山道へ向かう。
このような砂利道が整備されている。
アドリア海の島々が見える。海の色も美しい。

標高が高い場所には高木は生えず、低木が生えている。紫の小花が咲いている低木は、野生のローズマリー。ローズマリーは地中海原産のハーブ。旅人的には、葉をむしって今晩の料理に使いたいところ。

景色を楽しみながら、ゆっくりと歩いていく。

だいぶ近づいてきた。

標高が下がり、高木が生えるエリアにやってきた。日差しが強かったため、頭上を覆う樹々はありがたい。松の樹が多く目につく。

ときどき海がちらっと見える。

登山道が終わり、道路に出た。さすが地中海性気候、真夏のように鮮やかな景色だ。

登山口を振り返る。

住宅街の合間をぬう階段を下りていく。「海へ至る道」という感じで最高だ。

岬に見える建物はロブリイェナッツ要塞。

絵になるなあ。

ロブリイェナッツ要塞

旧市街の入口を隠すようにそびえる、ロブリイェナッツ要塞。

さて、沿岸に戻ってきたた。きのう営業時間外で入れなかった、チケット売り場のおじさんが言っていた「見晴台」、ロブリイェナッツ要塞に行ってみよう。

ロブリイェナッツ要塞は、ドゥブロクニクがヴェネツィアの支配に抵抗した象徴として有名な建物だ。岬に立つこの要塞は、旧市街の入口を海からも陸からも隠す役割を果たしている。

11世紀前半、ヴェネツィアはこの場所に要塞を建て、ドゥブロクニクの人びとを支配下に置こうとした。しかし町の人びとはヴェネツィアよりも早く、たった3カ月間の期間でロブリイェナッツ要塞を建てた。そして船に乗ってやってきたヴェネツィア人を追い返したという。

要塞が建つ岩場には緑のドアが。おそらく要塞の内部に通じている。秘密の扉みたいでよい。

岩場から旧市街を眺める。壁に囲まれてほぼ何も見えない。船でやってくる敵はこの景色を見て絶望しそう。

要塞の内部。

Game of Thronesで赤の城として撮影に使われた場所だ。井戸がある。

屋上の一つ。スルジ山の稜線がよく見える。

近代には大砲が取り付けられたようだ。大砲といえば、大砲技術を世に広めたのはナポレオンであり、ドゥブロヴニク(当時ラグーザ共和国)は1806年にナポレオン軍に包囲されて降伏している。ラグーザ共和国は1808年にイタリア王国に統合され、歴史上から姿を消した。

要塞の屋上から見るドゥブロヴニク。要塞で働く兵士たちは、毎日この景色を見ながら、壁のなかで暮らす家族のことを思い、「故郷を守っている」と感じていたことだろう。

白い壁に碧い海。

窓の向こうに見える海。

市内をぶらぶら

要塞を一通りみた私は、旧市街へ戻る。お腹がすいてきたし、町の内部をじっくり見たい。

旧市街へ戻るまでの道。海辺の町らしく、ボートがそのへんに置いてある。

旧市街の内陸側の壁には堀がある。現在は堀ではなく、公園になっている。

旧市街の正門であるピレ門。

ピレ門には伝統的な跳ね上げ橋がついている。一般的な中世期の町においては、夜間には橋を上げて門を閉め、人を入れなくする。

現在は橋を上げないのだろう、なぜなら手すりがついている。これでは橋が上がらないはずだ。

目抜き通りには人があふれている。

さあ、お腹がすいたので昼ごはんだ。「カメニツェ」という店名のシーフードレストランへ行く。店名はカキという意味で、カキ料理に自信があるらしい。青と白のボーダーのテントが張られた、テラス席につく。

ガイドブックに載っていた、赤玉ネギが入ったタコのサラダがおいしそうだったので、それを一皿と、パエリアを一皿注文する。白ワインも一杯。

タコサラダとパエリア。一皿の量がとても多い。

料理が出てきた瞬間、おいしそう!と同時に、食べきるかな?と思った。しかし、見た目以上に感動的においしかったため、2人前くらいの量をぺろりと食べてしまった。

タコサラダは、刻みトマト、玉ねぎ、オリーブの実が入っており、レモンとオリーブオイル、塩コショウで味付けされている(と思われる)。バジルも一緒にあえてあり、香りがとてもよい。何よりレモンが、「本場のレモンはやはり違う」というおいしさだった。これこそ本物の地中海料理である。帰国後も、この味が恋しくなって、似せたサラダを何度もつくっている。

パエリアも感動的においしかった。レモンを絞って食べるのだが、酸味と魚介のうま味が混ざって、やみつきになるおいしさだ。タコサラダは食べきっても、パエリアは(米だから)無理だろう、と思っていたが、気づくと完食していた。

ドゥブロヴニクを訪れるなら、このレストランは本当におすすめだ。他の料理も総じておいしいだろう。外食したのはこれで最後となるが、最後においしい食事ができてよかった。

港につながる門。

旧市街の港。

お腹いっぱいになった私は、旧市街を海方向の門から出てみる。この港がこれまで、たくさんの船乗りや商人の夢を運んできたと思うと、感慨深い。町の人にとっては、ここから眺める海が世界に繋がる門だったはずだ。

外から見た門。

港からの景色。スルジ山の稜線が見える。

聖ヴラホ教会。聖ヴラホは、ドゥブロヴニクの守護聖人。

市内からもスルジ山が見える。だいぶ日が傾いてきた。

飛行機雲が走っている。

時計台。鐘もついている。

フランチェスコ会修道院の鐘楼。

1438年につくられた、オノフリオの大噴水。水源は12kmほど先で、今も水が流れ続けている。円形にすることで、多くの人が水を利用できるようになっている。町の人たちは毎朝、ここに水を汲みにきたことだろう。

クロアチアの国旗がはためいている。

さて、日が陰ってきたため、散策もそろそろ終わりである。長距離バスのバス停にて、ドゥブロヴニク空港に向けて発車するバスの時間を確認して、アパートに戻る。

バスの本数は一日6本と少ないため、いちばん早い5:10のバスに乗ることにする。やはり、バス停へ歩いて行ける場所に宿を取ってよかった。明朝、まだ太陽が昇らない時間にバスを待ち、無事に空港に辿りついた。

帰りの飛行機でピンチ

飛行機に乗ればもう安心、あとは日本に戻るだけだ。そう思っていた私の心に、さっと影が差した。

問題は飛行機のチェックイン時に、じわじわと発覚してくる。帰りの旅程は、ドゥブロヴニク → ザグレブ → アムステルダム(オランダ)→ カタール → 東京、である。わざわざ日本から遠ざかるアムステルダムには寄りたくないけど、それしかチケットがなかったのだから仕方ない。

受付のお姉さんが、「荷物はアムステルダムまでですね」と言った。「東京までのはずですが」というと、「あなたの旅程はそうなんだけど、うんたらかんたら」と言われる。うんたらかんたらがよく聞き取れなかった。アムステルダムまでとは、どういうことだろうか。

不安に思い、保安検査を済ませて飛行機を待っている間に、ネットで調べてみた。すると、アムステルダムまでと、アムステルダムからの航空会社が加盟しているグループ(例:スターアライアンス)が異なるため、アムステルダムの空港で再度チェックインしなければならないらしい。

再度チェックイン? それはつまり、アムステルダムで一度入国し、空港の受付に行かなければならないということだ。だから預け荷物も一度ピックアップして、チェックイン時に、別の空港会社に預ける必要がある。ということ? 飛行機がくるまでにはまだ時間があったため、搭乗ゲートの受付に立っているお姉さんに、上記の仮説を確認してみた。

「ええ、アムステルダムで一度荷物をピックアップする必要がありますね」

私は顔面蒼白になりながらお礼を言う。なぜ蒼白なのか? なぜなら、アムステルダムでの乗り換え時間は約2時間だ。アムステルダム・スキポール空港は広大である。旅客数においてはロンドン、パリにつづいて欧州第3位で、本当にでかい空港なのだ。果たして、2時間内に荷物をピックアップし、アムステルダムへ入国し、航空会社の受付を済ませ、保安検査を済ませ、出国することができるのか?

ネットで調べてみると、「2時間は無理」という意見と、「2時間で間に合った」という意見で割れている。もうこれは実際にやってみないと分からない。事前にチェックインカウンターの場所などを調べて、着いてからの導線をイメージしておく。それ以降は、もうなるようにしかならないので、いったん忘れて、機内でゆっくりと休んだ。

アムステルダムに着いた。荷物をいかに早くピックアップできるかが山場な気がする。可能なかぎり早く飛行機から下りると、可能なかぎり早く入国審査を受ける。おなじみの質問が飛んでくるーー「アムステルダムに滞在する目的はなんですか?」 目的も何もないわ!と内心ツッコミながら、”Picking my baggage” と答える。おじさんがしたり顔でボン!と入国スタンプを押してくれる。

預け荷物がベルトコンベアから出てくるのを待つ時間は、永遠にも長く感じた。幸いなことに、目安としていた時間までに預け荷物を取り戻すことができた。そこからは広大な空港内を、頭に叩き込んだ地図を頼りに急ぎ足で歩きはじめる。このあたりで、「間に合いそう」という気持ちがわいてくる。時計を見る。たぶん間に合う。航空会社のチェックインの時間に間に合ったときは、ほっとした。

そうして、出国審査で出国スタンプを押してもらい(なんだこの無駄なアムステルダム滞在は)、無事に日本に帰ることができた。

旅のお土産。ネクタイ以外にも色々と買った。

旅の総括

クロアチア一人旅は、「海外を一人旅するってどんな気持ちなんだろう?」という問いからはじまった。旅を終えてみてどうだったかというと、半分たのしく、半分試練(修行)のような旅だった。

というのも、困っているときに助けてくれる人は多かったが、同じくらいの割合で冷たく態度の悪い人もいたからだ(社会の縮図が旅に表れたともいえる)。もし、旅の仲間がいたなら、嫌なことはすぐに忘れて流せたかもしれないが、一人でいると一つ一つの会話が印象に残るため、もやもやすることが多かった。だから、旅とは本来楽しいだけではなく、危険や苦難にも満ちていることを身をもって知った。

とはいえ、人間の脳はうまくできており、年月が経てば楽しい思い出以外は忘れてしまう。クロアチアに行けてよかったと心から思っている。

この旅で学んだもう一つのことは、私にとって、旅の仲間はいたほうがよい、ということだ。クロアチアに滞在した約一週間は、気軽に会話できる人がそばにいなくて、本当に寂しかった。修行という目的なら一人旅はよいかもしれないけれど、楽しむという目的で旅行するなら、道ずれがいたほうがよい。そう実感したのだった。

おわりに

旅の導入も含めて、7回の記事にわたりクロアチア一人旅について記載した。

私にとって旅に出るとは、『ホビットの冒険』のビルボのように、自分の故郷がいちばん心地よいことを実感することだと思う。そのうちまた旅に出るかもしれないが、慣れない土地に足をつけた瞬間から、いつも「帰りたい」と思っている自分がいる。

7回にわたりお読みいただき、ありがとうございました。

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