ドゥブロヴニク1日目【クロアチア一人旅⑤】

はじめに

前回はディオクレティアヌス帝が隠居生活を送った宮殿都市、スプリットでの旅についてつづった。今回は、クロアチアで間違いなく一番の見どころである、海洋都市ドゥブロヴニクでの旅1日目についてつづる。

ドゥブロヴニクの位置。

ドゥブロヴニクの概要

上図のクロアチア地図のうち、濃い紫の地帯がダルマチア。

スプリットを出発してからというもの、バス車内で流れるラジオ(クロアチア語)から何度も「ダルマチア」という単語が聞こえた。どうやらラジオ局は「ダルマチア放送」という名称らしい。

ダルマチアとは、クロアチアにおけるアドリア海沿岸地域一帯の名称である。「ダルマチア」という名称の歴史は古く、ローマ帝国時代にこのあたりが、ダルマティア族が暮らすダルマティア属州だったことに由来する。

ドゥブロヴニクは、ダルマチアの最南端に位置する都市だ。じつはドゥブロヴニクが「ドゥブロヴニク」という名称になったのは最近で、第一次世界大戦後の1918年、現クロアチアを含むバルカン半島がユーゴスラヴィアという国になってからだ。※ユーゴスラヴィアについては、旅の導入編で詳しく説明している:海外一人旅ってどんな感じ?-クロアチア導入

それまでのドゥブロヴニクは「ラグーザ」と呼ばれていた。14世紀~1808年の期間、ドゥブロヴニクはラグーザ共和国という名称の自由国家だった。とくに15-16世紀にはヴェネツィア共和国と同様の、地中海貿易で経済をうるおす海洋都市国家として栄え、他の海洋都市国家とライバル関係にあった。

ドゥブロヴニクは現在でも、西洋の多くの国で「ラグーザ」と呼ばれている。昔からラグーザと呼んできたため、そう簡単には呼び名を変えられないのだ。例えばイタリア語でドゥブロヴニクを差す言葉はRagusaである。

ヴェネツィア。現イタリアの北東部、アドリア海の最奥にあり「アドリア海の女王」と呼ばれる。かつては地中海史上で最も栄えた海洋都市国家だった。

ラグーザ共和国を題材にした漫画に、『フローラの白い結婚』という漫画がある。並木陽先生が原作のLINE漫画だ。ドゥブロヴニクを観光している気分になれる上に、時代考証もしっかりしていて、物語としても面白いので、興味がある人はぜひ読んでほしい。リンクはこちら。スプリット(スパラト)に滞在するエピソードもある。

ドゥブロヴニクは1979年に世界遺産に登録された。その美しい町並みを差して「アドリア海の真珠」と呼ばれるが、「女王」の称号はヴェネツィアのものなので、旧ラグーザ共和国の人たちにとっては、あまり嬉しくないあざなかもしれない。

ドゥブロヴニクは1991年にユーゴスラヴィア人民軍によって砲撃されている。その際に旧市街は城壁などを大きく損傷したが、現在はユネスコのガイドラインに従い、元来の姿に復元されている。

高台から撮影したドゥブロヴニクの旧市街。堅固な城壁にぐるりと囲まれている。目前に広がる海はアドリア海で、ちょうど真向かいにイタリア半島があるはず。写真上の右側に向けて航海すれば、やがてヴェネツィアに辿りつく。

宿にチェックイン

ドゥブロヴニクにて予約したアパートメントは、長距離バスの停留所からすぐの地点だ。旧市街からは北方向の沿岸に3kmほど離れている。なぜその場所にしたかというと、空港へ向かうバスもこの停留所から発車するためだ。国際線の飛行機に乗り遅れたら、さすがに笑えない。バスの乗り継ぎをできるだけ少なくするため、確実に時間通りに空港へ行ける場所に宿を取った。

アパートメントを探して沿岸の道路沿いをうろうろする。沿岸をのぞむ斜面に、オレンジの瓦屋根に白壁の、伝統的な家々が段々畑のように立ち並んでいる。アパートメントを探すには、道路から外れて階段を登るしかなさそうだ。しかし、人ひとりがやっと通れる程度の幅の、石畳の階段はどう見ても私道っぽい。勝手に入っていいのだろうか。

困っていると、上のほうから、女性の大声が聞こえた。見上げると、道路から2軒ほど上にある家のバルコニーから、女性が身をのりだしている。「お母さん」といった風貌の、パワフルな人だ。女性は私に向かって叫ぶ、”LAMI ?”

ラミ……? おお、ラミ!! 予約しているアパートメントの名前である。Yes、と答えると、その人が石畳の階段を降りてきた。どうやら彼女がオーナーらしい。小学生くらいの子供がいるようで、子供たちが騒いでいる部屋の窓に向かって、何やら大声で叫んでいる。

「本当はバスターミナルまで迎えに行くべきだったんだけど、何時に着くか分からなかったから」とオーナーさんが言う。私はおおまかなチェックイン時間しか伝えていなかったのだが、直前に何時に着くか?という質問のメッセージを送ってくれていたらしい。気づかなかった。だから頻繁に外を見て、それらしき旅行者がうろついていないか、チェックしていたようだ。

今日とまる部屋。

「チェックアウトするときは、鍵だけ部屋に置いておいてくれればOKよ。私は仕事があるし、子供たちの送り迎えに行かなきゃいけないから」。地中海の日差しのように明るいお母さんは、白い石畳の階段を登って去っていった。

城壁を歩く

ドゥブロヴニクの目抜き通り。伝統的な跳ね上げ橋のピレ門をくぐり、城壁のなかへ入ると目抜き通りである。約200m。

アパートメントから城壁に囲まれた旧市街までは、3kmほど距離がある。そのためバスに乗って旧市街近くのバス停まで移動した。

旧市街には、急こう配の階段がたくさんある。

私は西洋の都市を訪れるとき、城壁がある町の場合には、必ず城壁を歩くようにしている。高台から町を見下ろせて眺めがよいし、当時の衛兵の気分が味わえておもしろいからだ。ドゥブロヴニクは、市街を囲む城壁のほとんどを歩けるようになっている。さっそくチケットを購入して、城壁にのぼる。チケットを買うときにおじさんが、「市外にある見晴台もこのチケットで行けるよ」と教えてくれる。

ドゥブロヴニクの城壁は8世紀ごろに建造された。要塞や見張り塔が整備され、現在のような形になったのは15-16世紀のことだ。1667年に地震があり、町の大部分が倒壊したが、城壁は耐えたという。その後、先述した通り、紛争による砲撃で一部が破壊され、修繕された歴史がある。

町の南側。小舟がたくさん停泊している。

写真右側の、鐘楼のある建物は、15世紀に建てられたドミニコ会の修道院(鐘楼は18世紀に後付けされた)。旧市街にはフランチェスコ会の修道院もあり、狭い町のなかに、修道院が2つもあるのは驚きである。どちらの修道院にも、きちんと中庭がある。

ドゥブロヴニクの海に面した門。桟橋があり、船がたくさん停泊している。中世期には船の荷の積み下ろしで賑わったことだろう。

写真右下に、急こう配の階段を下りていく人々が見える。

城壁には古そうな部分と、新しそうな部分がある。新しそうな壁は、おそらく1991年の砲撃後に修繕した壁である。

一面にオレンジの屋根。

城壁で最も高い位置にある、ミンチェタ要塞から町を見下ろす。

かなり高い。海から敵が攻めてきたときにすぐ気づけそうだ。

壁の諸所に設えられた見張り塔には、小窓がある。人ひとりが入れるくらいのスペース。

ミンチェタ要塞の外観の一部。あとから気づいたのだが、スプリットやドゥブロヴニクは、ゲーム・オブ・スローンズ(Game of Thrones)のロケ地として使われている。デナーリスが不死者の館の入口を探して、高い塔の周りを一周する場面を見て、「なんかこの景色に見覚えがある」と思った。よく考えてみると、それはミンチェタ要塞のまさにこの画角だった。ドゥブロヴニクにはとくにロケ地が多いため、ロケ地ツアーがあるらしい。

最高地点であるミンチェタ要塞から下っていく。場所によって壁の高さが異なり、おもしろい。右奥の岬に見える要塞は、チケット売り場のおじさんがいっていた見晴台である。

坂道の城壁を下っていく。手前の建物は、屋根が落ちて空き地になっていた。

左奥に見える鐘楼は、フランチェスコ会修道院の鐘楼。

内海とはいえ、けっこう波が激しい。天然の岩壁のうえに城壁を建てていることが分かる。

廃墟になっている場所も多い。例の砲撃によって崩れてしまったのだろうか。

廃墟は猫のかっこうの住処になっているもよう。写真をよく見ると、猫を見つけられる。

マンダリンオレンジ。地中海に来た~!という感じの果物である。なぜなら、西洋大陸のほとんどは寒くてオレンジが育たないからだ。ドイツ人の知人が「日本ではオレンジが育つの? 羨ましいわ~」と言っていた。

ここの壁は真っ白でずいぶん新しそうだ。海に面している壁は総じて新しそうで、砲撃の被害が大きかったのかもしれない。ところで、右側のロープを見てくれ。洗濯物が干してある。こういう生活感がする絵は最高である。ロープを引いて回収するんだろうな。

旧市街の外にある入り江。

この壁も新しそう。右側に貼ってある紙は、城壁ツアーのタイムスケジュールである。

反時計回りに、海側の壁までぐるっと歩いてきた。ガイドブックによると、城壁歩きの目安時間は30分になっていたが、私は歩ける区画をすべて歩いたため、1時間半くらいかけた。楽しかった。

城壁から下りた私は、チケット売り場のおじさんが言っていた、旧市街の外の岬にある、見晴台に行ってみる。

高台にあるためけっこう登る。

内陸方向に撮った写真。ほぼ石ころだらけの山がある。手前にはでかいアロエが。

ところが、見晴台は営業時間外だった。チケットを改めて見たところ、とくに有効期限などはなさそうなので、明日あらためて来てみることにする。

見晴台のある岬から眺める旧市街。天然の岩壁が海にせり出している。自然の地形を利用して、堅固な城壁を建てていることが分かる。

夜ご飯を食べて帰ろうとするが……

旅程も終わりに近づいてきたので、今日と明日は外食するぞ!と意気込む。ガイドブックに載っていた、「コプン」という名前のお店に行ってみる。ワインは全てクロアチア産で、料理メニューも80%はクロアチアの伝統料理だそうだ。

夕食には少し早い時間だったため、レストランにはほぼ人がいなかった。店の席はテントが張ってあるテラス席で、ところどころにヒーターが置かれている。店員さんが、ヒーターのそばの暖かい席に案内してくれる。勧められた牛肉の料理と、ワインを一杯注文する。

付け合わせのパンと、ワイン。

牛肉の料理。マッシュポテトの上にデミグラス的なソースに絡めた牛肉がのっている。その上にはネギ。

味の感想は、まあ美味しかったけれど、他の国でも食べられそうな一般的な感じだった。お皿を片づけるときに、店員さんが「デザートはいかが?」と訊いてくる。おなかいっぱい、と答えると、「コーヒーか紅茶はいりますか?」と訊いてくる。とても物腰柔らかな人だったので、頼むつもりがなかったコーヒーを、つい頼んでしまう。でも身体が温まってよかった。それはともかく、隣の西洋人カップルがイチャイチャしていて気まずい。

「天気が悪くなってきたけど、大丈夫?」と店員さんに訊かれる。「どこに滞在しているの?」「バス停の近く(とっさに高度な英語が出てこないので非常にあいまいな答え)」「じゃあ雨に濡れずに帰れるかな……」 店員さんは終始やさしく、互いに笑顔で別れた。

さて、アパートメントに戻るバスから降りると、あたりは暗くなっていた。暗いなか、道を間違えないように気を付けながら、細い階段を登っていく。ところが、部屋の扉に鍵を差し込んでも、鍵が開かなかった。どういうこと? 部屋を出るとき、確かにこの鍵で閉めたから、開かないはずはないんだけど……。

鍵を回そうとガチャガチャしていると、階段を登り下りして、お酒の入ったケースを運んでいたお兄さんが、足を止めた。腰にエプロンを巻いて、飲食店の店員らしき恰好をしている。”May I help you?” と声をかけられる。

「ここに泊まる予定なのですが、鍵が開かなくて」と言うと、「貸して」という感じでドアノブの前に立つ。そして、私よりはるかに強い力で、全力で鍵をこじあけようとする(扉が壊れるかと思った)。しかし扉は開かない。

「OK、ちょっと下にいって確認してくる」と言ったお兄さんが、スマホを持って戻ってきた。暗いなか、スマホのライトで鍵を照らしながら、「本当にこの鍵かな?」と言っている。しばらくして、「待てよ。この扉じゃなくて、一つ隣の扉だと思う」とのことで、いやいや、そんな馬鹿な(絶対この扉だって!)、と思いながら、右隣の扉に鍵を差し込んでみる。

え、開いた!!! ちょうどそのとき、騒ぎを聞きつけた、お兄さんの同僚と思しきおじさんが表れ、クロアチア語で「そうそう、Lamiはそっちだ!」的なことを言う。

オサワガセシマシタ……。お礼を言うと、お兄さんは “No problem” と言って笑うと、タバコをくわえて去っていった。くそ、タバコ嫌いだけど、今のはかなりかっこよかったぞ。

というわけで、無事に部屋に入ることができ、温かいベッドで眠りについたのだった。

おわりに

今回はクロアチアのドゥブロヴニクでの旅1日目についてつづった。次回は旅行記の最終回で、ドゥブロブニクでの旅2日目についてつづる。

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