はじめに
2024/7/13(土)に10回目の読書会を開催しました。今回は課題本型で、課題本はレイ・ブラッドベリの『華氏451度』でした。当日は著者や本のあらすじをおさらいした後、物語内容について考察しました。その記録を本記事に記載します。
- 読書会はTwitter上で参加者を募り、オンラインで開催しています。
- 今回参加いただいた方は2名でした。
レイ・ブラッドベリについて
レイ・ブラッドベリは、1920年に、アメリカのイリノイ州、ウォキーガンで生まれました。五大湖のひとつである、ミシガン湖の湖畔にある町です。彼の父はイギリス系、母はスウェーデン移民です。
子供の頃に、叔父に短編を読んでもらったことが、その後の物語作りの基礎となりました。自らも七歳の頃から図書館に通い、そこで長い時間を過ごしました。その時気に入っていた作家は、ハーバート・ジョージ・ウェルズ(SF作家)、ジュール・ヴェルヌ(SF作家)、エドガー・アラン・ポーなどです。
高校生の頃には、演劇部に所属していました。ブラッドベリは小説家のみならず、映画脚本家としても活躍したため、物語を表現する芸術として、小説と芝居のどちらも好んでいたといえるでしょう。
ブラッドベリが19歳の年、第二次世界大戦がはじまりました(1939年)。彼は視力の悪さを理由に、軍への入隊を拒否されたため、そこから作家としての活動を始めました。
彼は生涯でさまざまなジャンルの物語を書きましたが、最初に書きはじめたのはSFでした。彼はSF作家のコミュニティである、Los Angeles Science Fiction Societyに参加し、そこで作家仲間をつくりました。
20世紀の作家としてアメリカで最も讃えられている者の一人で、『華氏451度』『火星年代記』の小説が特に有名です。2012年に死去しました(91歳)。
華氏451度について
※ネタバレを含むので未読の方は注意!
『華氏451度』は1953年に出版された小説です。第二次世界大戦が終結し、アメリカ-ソ連間の冷戦の中で、核戦争勃発の懸念が高まっていた時期に書かれました。その時代背景が物語世界にも強く表れています。
主人公のモンターグは「ファイアマン」と呼ばれる、公務員職に就いています。ファイアマンの役目は、国に存在するあらゆる本を燃やすことです。物語世界においては、本を所持したり、読んだりすることが禁じられているためです。
市民はまるで、スパイを密告するように、本を所持している者を通報します。すると警察が所持者を逮捕し(ときには処刑し)、ファイアマンが華氏451度の炎で、本を燃やして処分する流れになります。
本を燃やすという行為、すなわち焚書は、思想統制のために、歴史のなかで繰り返し行われてきた出来事です。例えば古代中国の世界史用語に「焚書坑儒」という言葉があります。これは奏の始皇帝が実施した、思想・言論統制策のことを指します。具体的には、農業・医薬、占い以外の本を焼き、儒教の学者を多数処刑しました。
西洋においては、中世期を通じて、キリスト教から異端とみなされた書物が焼かれたことや、近代ドイツにおいて、「非ドイツ的」とみなされた書物が、ナチス・ドイツによって焼かれたことなどが挙げられます。
とはいえ、歴史において、本が燃えた事件のうち最もセンセーショナルで、歴史家や読書家を惹きつけてやまない事件は、古代エジプトにおける、アレクサンドリア図書館の炎上でしょう。アレクサンドリア図書館は当時としては世界最大の図書館で、一説には70万巻の蔵書があったと言われています。図書館が破壊された理由として、現時点で有力な仮説は以下の3つです1。
- ローマ人による思想統制
- 地震
- 管理の怠慢さ
ブラッドベリは9歳の頃に、上記のアレクサンドリア図書館の炎上の出来事を知り、涙を流したそうです。むろん、その経験が主人公モンターグの「ファイアマン」という職業に繋がっていることは明らかです。
『華氏451度』の世界では、なぜ本を読むことが禁じられているのでしょうか。その理由は、本を読むような「賢い」人間がいると、怠惰な娯楽にまみれる生活が危機にさらされるからです(またそういうインテリの存在が癪に障るからです)。ポイントは、為政者が焚書を押しつけているというよりは、むしろ国民がそれを選択してしまった点にあります。
物語世界の人びとは、時代が進むにつれて、より速いもの、無駄がないもの、楽なものを好むようになりました。例えば、より速く移動するために、人びとは馬車ではなく車を使うようになりました。また、長い文章を読むのが面倒なので、情報取得手段として新聞を読むよりTVを観るようになりました。そうして過剰な簡略化が進んだ結果、読むという行為が廃れ、人びとは深く思考することを習わず、怠惰で受け身な娯楽にまみれて過ごすようになったのです。
ファイアマンとして過ごす主人公モンターグは、自らの仕事内容に疑問を持ちはじめます。しかし思考するという行為を習っていないため、これからどうすればよいか、自分では考えることができず、かつて英文学者だった老人・フェーバーに助言を求めました。ところが、本を所持し読んだことが上司にバレたモンターグは、国民への見せしめとして命を狙われます。
逃避行のすえ、モンターグは都市部を脱出し、敵をまくことに成功しました。都市部の外では、おたずね者になったかつての学者などが放浪しており、モンターグは彼らの仲間に加わります。一方で、敵国から宣戦布告された都市部は、空爆によって炎上しました。モンターグたちが都市部の人びとを助けにむかうところで、物語の幕が閉じます。
フリートーク
ここからは参加者の皆さんとお話したことを紹介します。記事に書く都合上、一程度のまとまりに分けて記載します。
全体的な感想
★今回は再読だったが、コロナ禍のときの、マスクをつけていることを国民が監視し合う状況(一種の監視社会)を経験したことで、より理解が深まった。我々は戦争を経験していないため、思想統制・言論統制される状況が実感としてイメージしづらい。しかしコロナ禍のときの状況を思い返すことで、少しはその状況を想像することができる。
★世界の本屋を紹介する本で、北朝鮮の本屋について書かれていた。その本屋は、同国為政者の歴史の本がたくさん並んでいるらしい。そのような状況下では、現状を変えるという思想が育たない。その状況が『華氏451度』に似ていると感じた。
★まずは物語としてすごく面白かった。思考統制という点で、ジョージ・オーウェルの『1984年』に設定が似ている。
★主人公に気づきを与えた大きな存在が、少女クラリスである。子供(クラリス)が語りかけることで、大人(モンターグ)が気づきを得ていく展開は、サン=テグジュペリの『星の王子さま』の展開に似ていると感じた。同書でも、子供(王子さま)が語りかけることで、大人(砂漠に不時着した飛行士)が気づきを得ていく。
★主人公の妻はTV依存症で、四六時中TVを観ている(物語世界では「ラウンジ」と呼ばれ、部屋の壁全体が映像になっている)。TVばかり観て過ごすことは、自分の頭で考える作業をしないため、脳によくないことが分かっている。仕事で高齢者と関わる機会があるのだが、実際に、TVばかり観ている高齢者は認知症が進んでいく(加えて身体を動かさないため歩けなくなってしまう)。そのため、TV依存症になっている物語世界の住人は、とても危険だと思った。
★自分も『1984年』に設定が似ていると思ったが、大きく異なるのは、為政者が思想を統制しようとしたというよりは、国民が進んでこの状況をつくってしまった点である。よく独裁者による支配について「その者を選んでしまった国民にも問題がある」というような意見を聞くが、この物語を読んでいると、その意見にも一理あると思える。いくら為政者がわめいても、マジョリティである国民が賛同しなければ国政が進まないため、国民に自分を選択させる状況をつくることが、独裁のための秘訣なのかもしれない。
思考の訓練を怠るとどうなるか
ここまで読んだ皆さんはお気づきの通り、『華氏451度』は、より速いもの、無駄がないもの、楽なものを好む現代人に、「自分で思考する訓練を積まなければ、そのうちこんな未来が訪れますよ」と警鐘を鳴らしているように思います。具体的にどんな未来かというと、独裁者により思想が統制されたり、戦争によって他国に侵略されたりする未来です(※)。
※『華氏451度』の世界の住人は、日常的に戦闘機が上空を通過する音を聞いており、自国が他国と緊張状態にあることを知っている(もちろんブラッドベリはソ連を意識している)。しかしそこから目を背けて、自国が強く経済的にも潤っていることに安心しきり、何も考えずにダラダラとTVを観る生活をしていたため、実際に都市が空爆されるまで、自分事とは思えなかった。(もしかすると、空爆されたあとも自分事と捉えていないかもしれない。それについては言及されていないため、読者の想像にゆだねられている)
繰り返すと、現代人は、より速いもの、無駄がないもの、楽なものを好みます。例えば読書よりも、動画配信サービスでアニメを観たり、YouTubeで解説動画を観たり、TVを観たりするほうを好みます。そのほうが頭を使わなくてすむからです。前提として、読書は自分から文章を読み、行間や情景を想像する点で能動的な行為に相当し、映像を観る行為は、何も考えずにイメージを浴びられる点で、受動的な行為に相当します。
ここでの論点は、動画配信サービスが悪だ、ということではありません。私も、今回の読書会のメンバーの方々も、アニメやYouTubeを日常的に見ており、それらの効用(癒し効果?)や楽しさは分かっています。大事なのは、飲酒と同じで、依存症にならずに適度に楽しむことです。
また、思考の訓練をするために読書は有効ですが、読書のみが善だ、と言うつもりもありません。作中で英文学者のフェーバーが言うとおり「書物は、われわれが忘れるのではないかと危惧する大量のものを蓄えておく容器のひとつのかたち」にすぎません。つまり書物は単なる容器なのです。本なしに、例えば人と議論することによって、思考の訓練ができるのなら、読書をしなくてもいいのです(そもそも書物を読むとは、作者の意見を聞く行為に同じなので、有識者と議論することでも同様の効果はある)。
ただし、フェーバーはこうも言っています。
われわれは、そう走りまわってばかりはいられないし、あらゆる人間と話ができるわけでなければ、世界じゅうの都市のことを知っているわけでもない。時間もなければ金もないし、そう多くの友人がいるわけでもないのだからして。モンターグ君、きみがさがしているものは、この世界のどこかにある。しかし、ふつうの人間がさがしものの九十九パーセントを見いだすのは本のなかだ。
レイ・ブラッドベリ『華氏451度』早川書房、2019年、144頁。
つまり、読書は家にいながら、さほど時間とお金をかけずに思考の訓練を積める手段として、有効ということです。このあたりは、人はなぜ読書をするのか?という読書論になってきます。過去に私も考察しているため、興味のある方は参照ください→人が小説を読む理由
さて、『華氏451度』で描かれた、「独裁者により思想が統制されたり、戦争によって他国に侵略されたりする未来」に、日本がいつなってもおかしくない、という意見がありました。例えば下図の衆参選挙の投票率の遷移を見ると、ここ最近は5割程度にとどまっています。ということは、単純に考えて5割の国民は政治に関心がないということになります。
しかも、衆議院議員選挙を例にとって、年代別に投票率を見てみると(下図)、年代が若いほど投票率が低いことが分かります。例えば、令和3年の選挙において、20歳代の投票率は36.50%、30歳第の投票率は47.13%です。
このような、全体投票率が5割だったり、とくに若者の投票率がそれ以下だったりする状況は、『華氏451度』の世界と同様に、国民が進んで今の状況を選んでいることと同義です。そのため、自分たちの未来をよりよいものへ変えていくために、思考の訓練を重ねて、自分で為政者を選ぶことが大切です。(ちなみに私もまだ20歳代なので、「俺たちの気も知らずに好き勝手言って~」とか思わず、同年代のみんな、選挙にいこうね!)
とはいえ、上記のグラフを見ると、一時期より若者の投票率が上がってきていることが分かり、希望をもてます。しかも、10歳代の投票率は20歳代より高いですね!えらい! 『華氏451度』のような未来にならないよう、みんなで日本を改善していきましょう。
ラノベでも読まないよりはまし
最近SNSで話題になっていた本に、飯田一史『「若者の読書離れ」というウソ: 中高生はどのくらい、どんな本を読んでいるのか』(平凡社)があります。
本の主旨としては、若者の読書量は以前に比べて回復して増えており、以前に比べればはるかにまし。ただし主な読書対象となるのが大人にとっては「本ではない」と感じるラノベなどだから、実際には本を読んでいるにもかかわらず「読書離れ」していると思われている……とのことです。
そこで、参加者の方とラノベの効用について話しました。結論としては、普通の小説を読むよりは学びにかけるが、TV(や動画)を観るよりは学びになるだろう、となりました。なぜなら、文章を読むということは、先述した通り、能動的な行為であり、想像したり考えたりする訓練になるためです。
具体的には、ラノベとはいっても、セリフから登場人物の表情を想像したり、行間から心情を考えたりしますよね。動画の場合は、想像する余地がなく、出されたイメージを観るだけなので、ラノベはそれよりははるかに訓練になると思います。おそらく漫画よりも訓練になります。
私は、中高生の頃は読書にまったく興味がなく、大学生になってから読書をしはじめた人間です。そのような私からすると、学校で実施される、10分間の「朝読書」の時間は、非常に貴重な読書の時間でした。もしそれがなかったら、子供の頃の読書歴はほぼゼロだったと思います。
自分が中高生だった頃を振りかえると、部活動や塾や宿題などで、遊ぶ暇もなく毎日大忙しでした(強いていえば部活動が遊びもかねていたのかな?)。朝6時に起きて、部活の朝練に出かけて、授業を受けて、放課後には日暮れまで部活動をして、夜ご飯を食べたら塾に出かけて、家に帰るのは22時ごろで、空き時間には学校や塾の宿題をして…という感じでした。自分で読書をするような時間はつくらなかったし、多分つくれなかったため、「朝読書」は本に唯一ふれることができる、本当に貴重な時間でした。
そのような、自分で時間をつくれない中高生は多いと思うので、今後も「朝読書」の文化が続いてほしいと思いました。子供の頃に少しでも文章に触れる時間をつくると、少なからず読解基礎が身につき、その後の人生がかなり楽になると思います。
ユニークな文章表現
私が『華氏451度』を読みはじめたとき、いちばん惹かれたのが、ユニークな文章表現でした。地の文は語り手と、主人公モンターグの思考が入り混じっています。そのうち、モンターグの思考描写と思われる部分が、変わった書き方なのです。例えば、以下のような文章です。
一、二、三、四、五、六、七日、毎日といっていいほど決まって彼が自宅を出ると、世界のどこかにクラリスがいた。あるときには胡桃の樹をゆさぶっていた。あるときは芝生にすわり、紺のセーターを編んでいた。
同上、49頁
冒頭の文章は、単純に「毎日といっていいほど」から始めればいいのに、わざわざ「一、二、三、四、五、六、七日」という言葉がついています。この言い回しに込められた意味として、以下2つを考えました。
- 単語のぶつ切りを羅列することで、モンターグの思考能力が低く、読者にうまく説明できないことを示している(なぜならこの世界では読書が禁じられており、思考の仕方を習う機会がないから)
- モンターグの日々は退屈であり、とりたてて語ることはないが、クラリスに会ったときは世界が彩りをもつ。ゆえに彼は日々のなかで、彼女に会ったことだけを記憶しており、その回数を数えている。他のことは全部忘れている。
一つ目の点がさらに如実に表れているのが、モンターグの妻の友人の言葉でした。彼女がもつ語彙はとぼしく、他に伝えたいことがあっても、簡単な言葉をぶつ切りにして、ロボットのように繰り返すことしかできません(読んだときに怖すぎて蒼白になっちゃった……)。
「出たりはいったり、フィネガンの歌みたい。ピートはきのう陸軍に召集されて。来週、帰ってきます。陸軍がそういってましたから。短期戦でしょ。四十八時間で、みんな家に帰れるって、そういってましたもの。陸軍がいってるんですよ。短期戦だって。ピートはきのう招集されたけれど、来週には帰れるって、陸軍の人が。短期……」
同上、159頁。
一方で、他の参加者の方からは、地の文に詩的な表現が多いとの意見がありました。例えば、以下の文です。
室内には蚊の羽音のようなものがたゆたっていた。特別あつらえの温かいピンクの巣におさまり、スズメバチが電気的な鼻歌をうたっているのだ。かろうじて耳に届くボリュームなので、メロディを追うことはできた。
同上、24頁。
「スズメバチが電気的な鼻歌をうたう」という表現は、「鼻歌」に「電気的な」という形容詞をかけることもユニークだし、スズメバチが鼻歌をうたうということもユニークです。おそらくブラッドベリがもともと詩的な言い回しを好む人なのでしょう。
脳を衰えさせないためには?
TVばかり観て過ごしている老人はボケてしまう、という話に関連して、年老いても脳を衰えさせないためにはどうしたらよいか? という話になりました(自分たちの将来というよりは、直近で訪れる親世代に対する心配)。
定説ですが、やはり定年退職して働かなくなったときに、趣味ややりたいことがないと、脳がどんどん衰えていくようです。女性が比較的お喋り好きであるのに対し、男性は一人でいることを好むため、特に定年退職後の男性が危ないみたいです。
それまで趣味がなかったのに、いきなり趣味を見つけることは、なかなか難しいので、「好奇心」をもつことが大事なのではないか、という意見がありました。つまり、何事も面白そう!と思ったことは、とりあえずやってみることです。やってみた結果、新しいことを学ぶと刺激になりますし、それが新たな趣味になるかもしれません。
年老いてくると、体力や気力がなくなるため、何事も(食べることさえ)「面倒くさい」となりがちです。だから、自分に身近な高齢者が、何かに興味をもったのなら、「やってみたら?」を背中を後押ししてあげるとよいかもしれませんね。好奇心が健康の秘訣になりそうです。
おわりに
今回はレイ・ブラッドベリの『華氏451度』の読書会記録を書きました。
個人的には、この物語で最も恐ろしいのは、為政者から押しつけられたのではなく、国民が自ら破滅への道を選択してしまっていることです。私たちも、常にそうなる可能性をはらんでいるため、日ごろから自分が暮らす国の将来についてよく考え、将来の国民にとってよい道を選択しなければならないと思いました。
今回も参加者の皆さんと、課題本から派生して、さまざまな話ができて楽しかったです。次回はフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』が課題本です。まだ参加枠に空きがありますので、参加希望の方は連絡ください。お楽しみに!
- フェルディナンド・バエス『書物の破壊の世界史』八重樫克彦、八重樫由貴子訳、紀伊国屋書店、2019年、107-109頁。 ↩︎