ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ《夢》1883年、オルセー美術館

創作物語

文献学者にして作家、J.R.R.トールキンの夢

はじめに

アントニオ・タブッキによる『夢のなかの夢』は、20人の歴史上の人物(うち一人は架空の人物)が見たかもしれない夢について書かれた短編集だ。以前読んだ『インド夜想曲』も夢とうつつをさまようような世界観でよかったが、今回読んだ作品も負けないくらい傑作だった。なお『インド夜想曲』については過去記事を参照していただきたい。

感動しすぎて、私も誰かが見たかもしれない夢を空想で書きたくなった。そこで私の好きな作家の一人であるJ.R.R.トールキンが見たかもしれない夢を、以下に書いてみた。

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文献学者にして作家、J.R.R.トールキンの夢

1926年のある夜、文献学者にして作家、J.R.R.トールキンは、子供たちに読み聞かせる物語の構想を練っている間にうたた寝し、ある夢を見た。夢の中のかれは、ひどく悲しい気持ちで、森をさまよっていた。かれの進む道は長いあいだ使われていないようで、雑草がおいしげり、湿った落ち葉が累積していた。それらを苦労してかき分けながら進んでいると、はるか遠くで雷が落ちるような音が聞こえた。

よろめいたかれが、手をついた幹に視線をやると、そこには木の皮を熱心に食べるカミキリムシがいた。かれは不安のために、誰かと話したい気分だったので、カミキリムシに尋ねた。いまの音はなんだい? カミキリムシは口に含んだ木の皮を呑み込むと、応えた。ドラゴンが暴れているのさ。トールキンは曖昧な記憶を懸命にたぐりよせながら言った。でも、ドラゴンはベーオウルフが倒したはずだけれど。カミキリムシは触角を機敏に動かすと、ふたたび食事に集中しはじめた。それでトールキンは、もう魔法は解けて、この虫はただのカミキリムシに戻ってしまったのだ、と思った。

陰鬱な道はかれをどこへも運びたくないようだったが、やがてかれは日当たりの良い、ヘムロックの花畑に辿りついた。かれは木漏れ日の下で、ショールをまとった娘が立ち上がったことに気がついた。微笑みを浮かべた娘は、白い花を一本摘むと、かれの元へ近づいてきた。かれは娘の背後から差す陽光のまぶしさに目を細めて、尋ねた。きみはエディスかい?

いいえ、と娘が応えた。わたくしはルーシエンです。おお、エルフの乙女ルーシエンよ、そう言ってトールキンは挨拶した。あなたは遠くでとどろくあの音の正体を知っていますか? いいえ、とルーシエンは応えた。ですが、代わりにわたくしのお気に入りの本を差しあげましょう。きっとあなたも気に入るはずですわ。トールキンは礼を言って、金の装飾が施された、緋色の本を受け取った。しかし、とかれは言った。わたしにはあなたの本は読めません。読める自信がないのです、あなたたちが書いた言葉を。

娘は笑みを深め、小鳥の歌に合わせて踊りだした。きみはエディスかい? 陽光に透けて揺れるショールを見つめながら、トールキンは尋ねた。いいえ、と娘が応えた。わたくしはアルウェンです。かれの耳にふたたび、あの恐ろしげな音が届いた。もう行かなくては、とかれは言った。

トールキンは森を後にし、荒涼とした大地を歩いた。空に浮かぶ巨大な太陽は紫色だった。それは酒場にいる酔っ払いのように、気だるげな目で地上を見下ろしていた。耳に届く例の音が、徐々に大きくなっていた。

では、あれは新兵器のドラゴンなのかね? 風に乗って、誰かの声が聞こえた。トールキンが振り返ってみると、いかめしい顔つきをした将校と、肩を負傷した従卒が、向かい合って話し込んでいた。トールキンは衝撃で固まった。自分がどこにいるかを、思い出したのだ。震えながら足元に視線を落とすと、そこにはいくつもの銃弾が転がっていた。

ジェフリー、とかれはつぶやいた。どこにいるんだ、ジェフリー! かれは叫びながら、戦場をやみくもに駆けた。銃撃の音が何度もかれの呼び声を遮った。撃て! との大声がした。かれは土塁に背をつけ、銃撃をやり過ごした。嗚咽がもれ、涙が頬を伝った。翼をもつナズグルの使いが、上空であざけるように鳴いた。

そのとき、ルーシエンからもらった緋色の本が地にずり落ちた。汚臭のするおぞましい強風によって頁がめくられ、一頁目が開かれた。トールキンは、そこにエルフの言葉で、こう書かれていることを読み取った。

地面の穴のなかに、ひとりのホビットが住んでいました。

おわりに

J.R.R.トールキン(1892-1973年)はイギリスの文献学者であり、その仕事の傍らで『ホビットの冒険』や『指輪物語』などのファンタジー小説を書いた人物である。彼は古英語文学である『ベーオウルフ』の研究で功績を残している。『ナルニア国物語』の作者であるC.S.ルイスとは同僚だった。詳しくは過去記事おとぎ話とファンタジーの違いも参照。

トールキンは研究の成果を活かし、エルフ語という独自の言語を開発した。『指輪物語』を執筆した理由の一つは、自分が開発した言語を物語世界において使いたかったからだという。

上記で登場する「エディス」はトールキンの初恋の相手であり妻である。また「ジェフリー」はキング・エドワード校時代からの親友である。彼は第一次世界大戦で命を落とした。

トールキンの伝記として、『J.R.R.トールキン―或る伝記』がよく知られているので、興味をもった方はぜひ。

以上です。お読みいただきありがとうございました。

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