はじめに
神話と宗教の機能については、以前から考えていたテーマであり、壮大すぎるので考察の余地がたくさんあります。しかし考えはじめて1年は経ったかと思い、このままでは今まで考えてきたことを忘れそうなので、現段階での考えをまとめておこうと思います。
出発点である問いは、なぜ神話や宗教が存在するのだろう?です。存在する意味がないのであれば、どちらもはるか昔に忘れさられているはずです。しかし人類は神話や宗教と共に生活してきました。ということは、意識的にせよ無意識的にせよ、人々がそれらに何かしらの価値を見出してきたということになります。
それでは、神話や宗教には、人々にとってどのような機能があったのでしょうか。今回はそれについて考えます。現段階では大きく2つ、①不安の解消と②共同体の維持という機能があったと考えています。
なお神話と宗教には大きな違いがあると思いますが、本記事では神々あるいは神にまつわる話、という大きな意味で記載します。
不安の解消
神話や宗教の一機能として、不安の解消が挙げられます。具体的には、一つには世界の秩序維持、もう一つには原因の追究という機能があります。
世界の秩序維持
神話や宗教には、世界の秩序維持を助けるための機能がありました。それには神々(あるいは神)と人間との間の約束事が関係しています。
神々(あるいは神)と人間との間には、人々の生活に対し、「こうすれば悪いこと(例えば干ばつ)は起きない」「こうすれば良いこと(例えば豊作)が起こる」等という、約束事がしばしば存在します。
例として、J.G.フレイザー『金枝篇』における有名なネミの祭司の風習――古代ローマ時代に存在した奇習を紹介しましょう。
古代ローマ時代、ローマ郊におけるのネミ湖の湖畔には、森がありました。その森にはネミの祭司と呼ばれる祭司が暮らしていましたが、祭司は次の祭司候補者に殺されないように、絶えず警戒していなければなりませんでした。
というのも、ネミの祭司になるためには必ず、現在祭司の地位にある者を殺さなければならないからです。つまりその地位に就く者は誰しも、前代の祭司を殺した殺人者ということになります。一度祭司になった者は、自分が前代の祭司を殺してから、次の祭司候補者に殺されるまでの期間、祭司でいることができました。
以上のような奇習が存在した理由は、自然の秩序を維持するためであると考えられています。ネミの祭司の身体は自然と結びついており、その力が衰えた場合には、力のある若い新たな祭司を置かなければ、自然に悪影響をもたらすという考えです。
ネミの祭司の例でいうと、祭司を更新しつづければ(祭司の地位にある者が常に力をもっていれば)、自然の秩序は守られるということになります。
このように、神話や宗教には、世界の秩序維持を助けるための機能がありました。約束事を守る限り世界の安定が保たれるため(あるいは保たれると期待できたため)、人々は不安を一程度、心から追い出すことができました。
原因の追究
神話や宗教は、人々が世界の仕組みを理解しようと努めた結果の産物、原因譚とも言うことができます。魔法から科学への移行で説明した通り、自然科学技術が発達する前の時代の人々は、物事の原因を超自然的な存在・力に求めていました。
例えば前近代の人々が、川が氾濫したとか、干ばつが起きたとか、雷が落ちたとか、何かしらの自然災害に直面したとします。すると彼らは「神々が怒っているのだ」とか「神が我々に試練を与えているのだ」などと解釈し、神話や宗教に答えを求めていました。物事の原因が分からないまま、辛い状況にさらされるのはやるせないからです。
神学研究を専門とする小原克博は、キリスト教の聖書に見られる原因譚の例として、以下3つを挙げています[1]。
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兄弟の間になぜ殺人が起きるのか(カインによるアベルの殺害、「創世記」第4章)
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人や動物を滅ぼすような大規模な自然災害はなぜ起こるのか(ノアの洪水、「創世記」第6-9章)
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人の言葉はなぜこれほどまでに多様なのか(バベルの塔、「創世記」第11章)
このように、神話や宗教には、物事の原因を追究するための機能がありました。それによって人々は混沌とした世界を秩序立てて理解することができ、原因の分からない不安から解放されていました。
共同体の維持
前章では、神話や宗教には人々の不安を解消する機能があると説明しました。
もう一つ個人的に重要だと考えている機能は、共同体を維持する機能です。具体的には、一つには犯罪の抑止、もう一つには連帯意識の形成という機能です。
犯罪の抑止
神話や宗教には、犯罪を抑止する機能があったと考えられます。
犯罪の抑止といえば、現代人のわれわれが思いつくものは法律です。たしかにハンムラビ法典やローマ法など、古くから人類は共同体の平和を維持するための法律を考えてきました。しかし当時の法律が現代の法律と同程度に充分な整備が行き届いていたとは言えず(さらには現代の法律が充分なのか?という問題あり)、法律が存在しない地域も多々あったと考えられます。そこで、法の代わりに人々が「善良」にふるまうように促したのが、神話や宗教でした。
道徳上、悪い事をすれば地獄行きである、という観念は多くの神話や宗教で見受けられます。例えばキリスト教では、人を殺したことのある者や盗みを働いたことのある者は、(告解して赦しをえない限りは)天国へは行けません。ケン・フォレットの中世英国を舞台にした小説、『大聖堂』に登場するウィリアムは、数々の悪事を働いてきたために、地獄に落ちることを恐れています。
背景:伯爵であるウィリアムは憎き修道院長、フィリップの治める土地に言いがかりをつけ、国王に摘発すると脅す。ウィリアムに対し、フィリップは果敢に立ち向かう。
「あれほどの悪逆非道のあと、あなたのいうべきことは『ファーザー、私は罪を犯しました』、その一言だけのはず!修道院に入ってきたのなら、ひざまずきなさい。地獄の業火に焼かれたくなくば、いますぐ赦しを乞うのだ!」
ウィリアムは蒼白になった。「地獄」ということばを聞くと、どうにもならぬ恐怖に打たれる。なんとかフィリップの弁舌を押しとどめようと、「市場のことをどう弁明するのだ?市場のことは?」と、くりかえすばかりである。
が、フィリップの耳にはとどかない。その憤怒は火を吐くがごとく、「おのれの犯した大罪の赦しを乞うのだ!」と、怒鳴る。「ひざまずけ!さもなくば、地獄で苦しむことになるぞ!」
ウィリアムは、いますぐフィリップの前にひざまずいて祈らなければ地獄に落ちる、と信じ込みそうになった。告解せねばならないことは前からわかっていた。伯領巡回中に犯した罪もさることながら、戦さで多くの人を殺している。告解する前に死んだら、どうなる?地獄に永遠に燃えつづける焔と、鋭い剣を持つ悪魔のことを考え、震えだしそうになった。
ケン・フォレット『大聖堂(中)』矢野浩三郎訳、SB文庫、2011年、249-250頁。
火を神聖視するゾロアスター教においては、次のような教えがあります。すなわち、アフラ・マズダーの創造物である人間は、自分自身の肉体的、道徳的な健全さに配慮しなければならない、そして他の6柱の神々が創造した6つの創造物(動物や植物など)の世話をする義務がある、という教えです。この教義は人間に対し道徳性を目覚めさせる意味がありました[2]。
上記で紹介したキリスト教やゾロアスター教の例のように、神話や宗教が人間に道徳心を持つように促す例は、枚挙にいとまがありません。それではなぜ、神話や宗教がそのような機能を持つようになったのでしょうか。
個人的には、人間が社会的な動物であり、他者と協力し合わなければ、種として存続できないからだと考えています。群れをなして行動しない動物であれば、他者と協力する必要はなく、道徳心も必要ありません。しかし人間にとっては、他者と協力し合うことがメリットとなり、ひいては種としての存続と繁栄に繋がります。そのため人々の共通思想として根付いた神話や宗教には、道徳心を持つ大切さを説く教えが含まれることになったのでしょう。それは法律が整備される前の、法律代わりとなりました。
このように、神話や宗教には、人々に道徳心を持たせ、犯罪を抑止する機能があったと考えられます。その機能が結果として共同体の維持につながりました。
連帯意識の形成
神話や宗教には、人々の連帯意識の形成を助ける機能があります。つまり現代における国家の機能を、神話と宗教が果たしていたと言えます。
個人的な経験として、誰かに歴史を学んでいたと話すと、よく「どこの国の歴史を専門にしていたの?」と尋ねられます。難しい質問です。なぜなら、私が専門としていた西洋の中世期には、現在のような強力な「国家」の概念がありません。
西洋中世期の国は現在よりもずっとゆるやかな連帯であり、その国に属する多くの人々にとっては、自分がどこの国に帰属しているかは問題になりませんでした。人々にとって国王や領主が変わることはよくあることで、自分たちの小さな共同体での生活が平和であれば、誰が主であろうがどうでもよいのです。
ただし、国への帰属がゆるやかな西洋中世人にも注文はありました。それは、支配者はキリスト教徒である必要がある、という注文です。つまり、当時の西洋人を団結させていたのは、「キリスト教徒である」という仲間意識でした。言い換えると、当時の人々の連帯意識を生むものは国家・民族ではなく、宗教でした。そのため「異教徒」に支配されることは、彼らにとって耐えがたい屈辱でした。
実際に、西洋中世期の多くの期間は国王よりも、ローマ・カトリック教会の最高位聖職者である、教皇が権力を持っていました。当時、国同士でもめごとが起こると、不利に立たされた国が教皇に訴えて助けを求める、という事態がよく起こりました。教皇はローマ・カトリック教会における最高権力者であり、彼の言うことは絶対でした。従わなければ、破門と地獄行きという罰が待っていました。
西洋中世期の例で分かる通り、人は現代的な国家ができる前は、同じ神話や宗教を信仰している人と仲間意識を持っていました。神話や宗教が人々の連帯意識を生んだことは、聖戦の例で考えると分かりやすいです。聖戦は異教徒を改宗させるための戦いであり、キリスト教徒対イスラム教徒の聖戦は歴史上、数多くなされました。それは異なる宗教を信仰する人たちによる対立であり、国同士の対立ではありません(むしろ同じ宗教を信仰している国同士は仲間になる)。
このように、神話や宗教には、人々の連帯意識の形成を助ける機能がありました。その機能は大人数が助け合うことにつながり、共同体の維持をもたらします。
おわりに
今回は人類にとっての神話と宗教の機能を考えました。それらが存在してきたということは、人々が神話と宗教に何らかの価値を見出したということです。では、具体的にどのように役立っていたのか?という問いから考察をはじめました。
現段階では、神話と宗教の機能は大きく分けて2つあると考えています。すなわち、①不安の解消と②共同体の維持です。
1つ目の不安の解消について具体的には、以下2つの機能を挙げました。
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世界の秩序維持
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原因の追究
世界の秩序維持とは、神々(あるいは神)と結んだ約束事を人間が守ることによって、この世の秩序が保たれることを意味しています。つまり人間は約束事を守る限り、自然災害等の危険は起きないと安心することができます。よって神話や宗教の一機能として、そのような約束事を提示し、人間に安心をもたらすことがあったと考えられます。
原因の追究とは、前近代の人とっては原因の特定が困難な物事に対する原因を、神話や宗教に求めることを意味しています。自然科学技術がない時代、人々は物事の原因を超自然的な力や存在に紐づけることで、原因を知ったような気になり、安心することができました。よって神話や宗教の一機能として、物事の原因を提示することで人間に安心をもたらすことがあったと考えられます。
2つ目の共同体の維持について具体的には、以下2つの機能を挙げました。
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犯罪の抑止
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連帯意識の形成
犯罪の抑止とは、神話や宗教が人々に道徳心をもつことを促すことを意味しています。それらは法律が整備される以前の時代に、法律の代わりとなり、犯罪を抑止する機能をもっていました。道徳心をもって他者と協力し合うことは、結果的に共同体の維持につながります。よって神話や宗教の一機能として、共同体の維持があったと考えられます。
連帯意識の形成とは、神話や宗教が人々の団結をもたらしていたことを意味します。それらは現代的な国家が形成される以前の時代に、人々による仲間意識の形成を助けていました。大人数が協力し合うには共通する思想が必要です。神話や宗教が人々にとって共通の思想となり、結果的に彼らの共同体の維持につながりました。よって神話や宗教の一機能として、共同体の維持があったと考えられます。
以上、神話と宗教の機能についての考察でした。現時点での私の考えであり、これから変化したり新しく加えたいことがでてくるかもしれません。そのときにはまた新しい記事を書こうと思います。
ちょっと長かったですね!それでは。
参考文献
[1] 小原克博『一神教とは何か』平凡社、2018年、74頁。
[2] メアリー・ボイス『ゾロアスター教 三五〇〇年の歴史』山本由美子訳、講談社学術文庫、2018年、66頁。