はじめに
ローマ・カトリック教会の施設は中世期を通じて大きく2つに分けられます。1つが町に必ず1つある教会堂(聖堂)であり、もう1つが世俗から離れた場所に建設された修道院です。
教会堂とはその大小を問わず、王権と結びついた施設です。西洋になぜキリスト教が浸透したのかで説明した通り、ローマ・カトリック教会は王権と結びつくことによって西洋に浸透しました。各教会堂は階級組織のどこかの層に属しており、教区に属するすべての教会堂を統括する司教は、国王と強い政治的な結びつきがありました。
一方で修道院とは、世俗権力と離れキリスト教本来の教えを守ることを目的とする施設です。ローマ・カトリック教会は西洋での布教を成功させた代償として、その世俗化に悩まされました。例えば聖職の売買、聖職者の結婚などが横行しました。その道とは反対を進むために設立された施設が修道院です。修道院に属する修道士たちは、敷地内から出ることなく、祈りと労働の日々を送り精神を研磨しました。
修道院は神の教えの忠実な実行を目的とする施設ですが、副次的に様々な機能を保持していました。今回はその1つとして、写本制作所の機能を紹介します。
なぜ写本をするのか
修道院は世俗から離れることを目的をしているため、その敷地内で自給自足が行えるようになっていました。例えば院内には農作物や薬草を育てる畑があり、道具を創る鍛冶場があり、「キリストの血」である葡萄酒をつくる醸造所がありました。そのため修道士が従事する労働は人によって様々でした。そのなかの重要な労働の1つに、写本という作業がありました。
西洋では15世紀にグーテンベルクによって活版印刷が広められるまで、印刷本は存在しませんでした。つまりある本と同じ内容を持つ本が欲しい場合には、手で写すことが唯一の複写方法でした。このような本の内容を書写する行為を「写本」と呼びます(本自体のことも「写本」と呼ぶ)。
現代では本屋に行けば簡単に本が手に入りますが、12世紀時点では本を「買う」ことは珍しかったとハスキンスは述べます。「というのは、パリとボローニャがすでに本を売買する場所として登場してはいるものの、筆写を職業とする人も、本を取引する市場もまだなかったからである」[1]。中世初期には、本を欲しい場合には基本的に、自らつくるしか方法はありませんでした。
ちなみにボローニャには11世紀に西洋で最古の大学が設立されており、パリにも12世紀に大学が設立されています(ボローニャ大学とパリ大学)。その2都市は大学があるため、早くから本の市場が設立されたと考えられます。
ではなぜ修道士たちは本をつくる必要があったのでしょうか。本の制作は修道院の目的と合致していました。すなわち、キリストの教えを守るために本は制作されました。
修道院では聖書をはじめとして、様々な神学書、修練者のための教科書などを備えている必要がありました。修道会の一つであるカルトゥジオ会の規則には「書記とは手による説教」という文言があり、これは書かれた言葉が話された言葉同様にキリストの教えを伝え広めるということを意味しました [2]。よって写本制作は修道院にとって重要な仕事の1つでした。
写本に伴う苦労
写本という行為は神への奉仕であり、その仕事をする写字生(写本をする修道士のことをそう呼ぶ)は、キリストの教えを伝え広めることに寄与したために、神の恩寵を期待できました。そして自らの死後、後世まで残る本をつくることは彼らにとっての名誉と誇りにもなりました。
しかし写本においては多くの苦労がつきまといました。羊皮紙が痛むことを防ぐために写字室には暖房を入れられず、長時間椅子に座ることは身体の不調をもたらし、年をとれば老眼で文字が読みにくくなりました。このような写字生の苦労を、14世紀のとある修道院を舞台としたウンベルト・エーコの小説『薔薇の名前』から抜き出してみます。
当時の私は、まだ人生のわずかな部分しか写字室で過ごしたことがなかったけれども、その後になって多くの時を過ごして写字室の事情に通じるようになったいまでは、かじかんだ指先にペンを握りしめながら冬の長い時間を机に向かって過ごすことが、どれほどの苦痛を写字生や写本装飾家や学僧たちに強いるものであるかと、充分に熟知している。だからこそ、写本の余白などに、写字生が忍耐(および焦燥)の証に記した落書をしばしば見出すことがある。<ありがたや、もうすぐ暗くなる>とか、<おお、せめて一杯の葡萄酒があったならば!>とか、さらには<今日は底冷えする、明かりが乏しい、この羊皮紙は毛が多くて、どうもうまく書けない>とか。
ウンベルト・エーコ『薔薇の名前〈上〉』河島英昭訳、東京創元社、1990年、204-205頁。
このような本制作における苦労から、写本の労働については「指三本で書き、身体全体を痛める」という言い回しがありました。
写本の商業化
写本制作における修道院写字室の独占的地位は、12世紀以降揺らいでいきました [3]。まず公文書や法律文書の制作のために宮廷や都市で写本が行われはじめ、13世紀には世俗文学の需要の高まりから書記工房が現れはじめました。つまり写本制作は、修道士から都市の職人によるものへと、変化していきました。
さらに、時代が下るにつれて存続が危ぶまれた修道院は、資金繰りのために次々に本を手放していきました(印刷本が登場するまで本は非常に高価なものだった)。ハスキンスは慎重この上ない修道院でも、14世紀、15世紀には重複した本を売却していたと述べます [4]。
14世紀の修道院を舞台としたエーコの小説『薔薇の名前』でも、主人公の師であるフランチェスコ修道士ウィリアムが、訪問先の院長にこう言う場面があります。
「(前略)さらにまた、ムルバッハのごとき誉れ高い僧院にすら末世の昨今ではもはや一名の写字生もいないことをわたしは知っています。さらにザンクト・ガレンには筆写のできる修道僧がほとんどいないことも、それに代わっていまでは各地の年で大学に働く世俗の人間たちが組合やギルドを構成しつつあることも(後略)」
ウンベルト・エーコ『薔薇の名前〈上〉』河島英昭訳、東京創元社、61頁。
こうして修道院は写本制作機能を喪失し、さらに本を手放すことで知的中心地としての機能まで喪失しました。それは同時に修道院そのものの衰退をも意味していました。
おわりに
今回は修道院における写本制作所としての機能を紹介しました。
写本は修道院にとって重要な仕事の1つでした。なぜならキリストの教えに関する本をつくることは、そのままキリストの教えを伝え、広めることを意味したからです。
写本は大変な労力を伴う作業であり、その例として写字生が冬の寒さや灯りの乏しさに不満を持っていたことを挙げました。
後世になると修道院は写本制作所としての地位を失いました。都市に写本を専門とする職人が登場したためです。時代の変化による修道院の衰退に伴い、修道院は本を保持することすら放棄せざるをえませんでした。そして修道院は知的中心地としての機能も喪失しました。
以上、写本制作所としての修道院でした。
◎写本がどのようなものか映像で知りたい方には、エーコ『薔薇の名前』の映画版がおすすめです。イタリアのとある修道院を訪れた師弟が、その修道院で起こる奇怪な死亡事件の謎を解いていく物語です。
◎写本について基本的な知識を得たい方は、クラウディア・ブリンカー・フォン・デア・ハイデ『写本の文化誌:ヨーロッパ中世の文学とメディア』がおすすめです。一章が非常に参考になります。
◎修道院について知りたい方は、以前マウルブロン修道院へ旅したときの記事があるため、ご参照ください→ハイデルベルク→シュトゥットガルト【ドイツ2019-③】。修道院の内観も載せています。
参考文献
[1] C.H.ハスキンス『十二世紀ルネサンス』別宮貞徳、朝倉文市訳、みすず書房、2007年、54 頁。
[2] クラウディア・ブリンカー・フォン・デア・ハイデ『写本の文化誌:ヨーロッパ中世の文学とメディア』一條麻美子訳、白水社、2017年、57頁。
[3] 同上、49頁。
[4] C.H.ハスキンス『十二世紀ルネサンス』別宮貞徳、朝倉文市訳、みすず書房、2007年、67頁。