中世ヨーロッパの都市は、川の恵みを享受しながら発展しました。今回は、都市の発展に寄与した川の機能を3つ紹介します。
川が人にもたらす恵み
人類の文明発展の礎となった四大文明は、川を中心として発展しました。四大文明とは、メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、黄河文明の四つの文明を指します。それぞれ、以下の表に記載された川を中心に発展しました。
文明 | 川 | 現在の国 |
---|---|---|
メソポタミア文明 | ティグリス川、ユーフラテス川 | イラク |
エジプト文明 | ナイル川 | エジプト |
インダス文明 | インダス川 | インド |
黄河文明 | 黄河 | 中国 |
人間にとって、川は生きる上で必須のものです。川は飲み水を提供するだけでなく、森林の養分を豊富に含んでいるため沿岸の土地を肥沃にします。それは結果的に、農耕の発展と食物の確保につながりました。人々は川を巡って争うため、ラテン語のrivus(小川)は英語のrival(ライバル)の語源となりました。
このような基本的な機能の他にも、川が人にもたらす恵みはたくさんあります。西洋中世期の都市の発展についても、川の存在を抜きには語れません。次章から、都市の発展に寄与した川の機能を3つ紹介します。
職業のための川
第一に、川は水を使う職業の発展に寄与しました。
日本人の誰もが知っている昔話、『桃太郎』ではおばあさんは「川」へ洗濯に行きます。西洋においても、晴れた日に川辺に女たちがずらりと並び、洗濯に勤しむ様子は日常的な光景でした。
水を使う仕事は、洗濯だけではありません。中世期の都市において、特に大量の水を必要とした職業は、羊毛・亜麻・麻などの繊維づくり、皮なめし、染色といった職業でした[1]。これらの職業は、大量の水資源を得られる都市で発展しました。
ただし、これらの職業はどれも、川を汚染させます。そのため都市に沿って流れる川は、基本的に飲用に利用できませんでした。
(都市の)飲み水としては、川、泉、井戸、雨水などがありえたが、井戸、泉、雨、川の順に清潔度が下がっていき、また雪水は危険だという考えが広まっていた。
池上俊一『森と川―歴史を潤す自然の恵み』刀水書房、2010年、95頁。
汚染問題を解決するため、都市によっては、水を汚染させる職業者に専用の水槽を提供しました[2]。水質汚染が人々の関心を引いた例として、1471年のアミアン(現フランス北部の都市)における告発で、小川の水の利用を禁止する告発があります。
……役人たちはパン屋、ビール醸造人およびグダール(ビールの一種)製造人に対して、「町を流れる多くの小川の」水の使用を禁止した。というのも「何人かの人と馬が溺れ死んでいるのが発見され、その死体によって水が汚染され腐っている」からである。
フランソワーズ・デポルト著、見崎恵子訳『中世のパン』白水社、2006年、179頁。
このように、都市は川を利用して水を大量に利用する職業を発展させましたが、弊害として、水質汚染という問題に悩まされました。
交易のための川
第二に、川は都市の商業の発展に寄与しました。
交易路というと道のイメージがあるかもしれませんが、川も立派な交易路です。むしろ、川を利用すれば陸路を利用するより安全な旅ができました。盗賊に襲われる心配や、道に迷う危険、狼に襲われる危険などがないからです。道の交易路については、道の歴史的な役割を参照してください。
ヨーロッパの商業は船の通れる河川のおかげで栄えた。(中略)あまり深くなくても、コルマール=シュトラスブルク間のイル川のような、今日では取るに足らぬ観のある河でも、旅人には有用だった。ヨーロッパでも、二十世紀になってもまだ作られていたような檞(註:くぬぎ)や松の幹製の丸太船、ボート、伝馬船(註:小型の船)といかだは、ほんのわずかな喫水(註:船の最下面から水面までの距離)でよかった。それに応じて積荷の容量も四分の三トン以下のこともしばしばで――それは牛車といい勝負だった。
ノルベルト・オーラ―著、藤代孝一訳『中世の旅』、法政大学出版局、1989年、49頁。
川を利用して人びとは何を運んだのでしょうか。
古来川を利用して運搬されてきたものに、材木があります。みなさんは「いかだ」と聞くと、丸太を平行につないで水に浮かべる乗り物をイメージするかもしれません。しかし、いかだは単純な構造のため重量のあるものを運ぶには適していませんでした。
いかだは乗り物というよりは、材木を運ぶ用途で利用されてきました。つまり「いかだ」そのものが売却できる材木なのです。日本でも古くから筏師(いかだし)と呼ばれる職業の人がいました。
筏師は伐採された木をまとめ、川に浮かべて自分もその材木の上に乗り、下流の都市に売りに行きました。
筏流しは大昔からありましたが、しかし、16世紀以降に目覚ましい飛躍を遂げました。その頃、自然本来からすると筏流しや管流しに適していないことから、まずは整備を要した水路にまで、筏流しや管流しは拡大していきました。ザクセン(註:現ドイツの州)では1587年にエルスター運河の建設が始まりましたが、この運河は、終着地となるライプツィヒまで83キロメートルをつなぐもので、その地に木材を供給しました。
ヨアヒム・ラートカウ著、山縣光晶訳『木材と文明』築地書館、2014年、114頁。
このように、川は物の運搬を楽に、また安全にし、交易を活発させました。結果として、川に接する都市は商業を発展させることができました。
防衛のための川
第三に、川は都市の防衛強化に寄与しました。
都市は基本的に、川を挟んで形成されることはありません。川の片岸に形成されます。例として、以下の1300年頃のロンドンの地図をご覧ください(画像はクリックで拡大できます)。都市はテムズ川の北岸に形成されています。
都市が川の片岸に形成される理由は、川が堀や城壁代わりとなり、防衛に有利だからです。ロンドンの例でいうと、川に接した部分以外は、すべて城壁で囲まれています。茶色の線で描かれたものが城壁、所々半円状に突き出たものが見張り塔です。川岸に城壁をつくらないのは、川が壁の代わりをするからです。
南岸から町に入る唯一の方法は、「ロンドン橋落ちた」の歌で有名な、ロンドン橋を渡ることです。不便ですが、あえてそうしているのです。もしロンドン橋以外に橋があると、そちらにも監視の人員を割かなければなりません。1750年にウェストミンスター・ブリッジが架けられるまで、ロンドン橋は市内に至るためにテムズ川にかかる唯一の橋でした。
余談ですが、都市の対岸はしばしば、都市から排除された者たちの住処になります。例えばロンドンでは、都市の城壁内に娼婦が住むことを禁じていました。それはロンドン市当局が娼館のあるところには犯罪者が集まると考えたから[3]であり、キリスト教徒としての道徳的な配慮をしたからでした(と言いつつ、聖職者も頻繁に娼館の顧客となっています。建前と本音は違うのです)。
都市から排除された娼婦たちは、ロンドン橋を南へ渡った場所(サザク Southwark)に住みました。サザク地区には多くの娼館が集まり、ロンドンの男たちは夜に船で渡って遊びにいくのでした。サザク地区は娼婦以外にも、様々なアウトローが集まる場所でした。アウトローについては西洋におけるアジール(例)を参照してください。
このように、川は堀や城壁の代わりとなり、都市の防衛強化に寄与しました。防衛力の高い都市は、町の存続可能性を高め、また安全面で都市に訪れる人びと(商人など)の信頼を得、さらなる発展を促進することができました。
おわりに
今回は、西洋中世期における川の機能を、都市の発展と関連づけて3つ紹介しました。
川は3つの点で都市の発展に寄与しました。第一に、川は水資源として、水を大量に使用する職業の発展に寄与しました。第二に、川は交易路として、商業の発展に寄与しました。第三に、川は堀や城壁として、防衛の強化に寄与しました。
川は都市の発展に必要な一要素だったのです。
以上、西洋中世の川と都市の発展でした。
参考文献
[1][2]池上俊一『森と川―歴史を潤す自然の恵み』刀水書房、2010年、98頁
[3]田中きく代、 朝治啓三、 高橋秀寿、 中井義明著『境界域からみる西洋世界―文化的ボーダーランドとマージナリティ』ミネルヴァ書房、119頁