西洋における青の歴史 – 人気の色になるまで

人の好みというのは、文化的背景に左右されます。たとえば日本人は紅葉を楽しむのが好きですが、外国人からすると「なぜ枯れた葉を見にでかけるのか理解できない…」と思うことがあるようです。

色の好みについても同じです。「この色は良い色だ」と私たちが思うとき、その色がもつ文化的背景に影響されていることがあります。

たとえば西洋では、古くから紫が高貴な色とされていました(日本文化でも高貴な色です)。なぜなら、紫の染料は特殊な貝のみから取れる、希少なものだったからです。

今回は、現在西洋で最も人気といわれる青色について、人気になるまでの過程を歴史的にご紹介します。というのも青はかつて、西洋で嫌われた色でした。

【フェニキア人について】
紫の染料が取れる貝を特産品として、フェニキア人という民族が紀元前12世紀ごろに地中海貿易を独占していました。フェニキア人の文明は、ギリシア人の文明の前に栄えました。それは、彼らの発明した文字、フェニキア文字がギリシア文字の元になったことからも分かります。

文字の影響は、フェニキア文字→ギリシア文字→ローマ字(ラテン語)の順です。ローマ字がアルファベットですから、フェニキア文字はアルファベットの起源ということですね。

目次

嫌われる青

エドワード・バーン=ジョーンズ《プシュケーの結婚》1895年、ベルギー王立美術館

青という色はかつて、西洋で評価されていませんでした。その理由は三点あります。

まず、西洋古代期に大帝国を築いたローマ帝国にとって、青は労働階級の色、蛮族の色でした。ローマ帝国の民は基本的にラテン人という民族です。それに対し、青は異民族である、ケルト人とゲルマン人の色でした。ローマ帝国の将軍、カエサルは青が蛮族の色であることを繰り返し述べています。ケルト人とゲルマン人の詳細については、イギリスにおける魔法の歴史を参照してください。

次に、青は現在の黒のイメージと同様に、死と地獄と結びつけられることが多い色でした [1]。カエサルが述べたように、青がゲルマン人の色であるならば、ローマ帝国衰退後、帝国に置き換わったゲルマン人の諸国家が青を好んでもおかしくありません。が、そうではなかったようです。中世期(ローマ帝国衰退後)の長い間、青い服を着るのは喪のしるしでした。

最後に、西洋で取れる青の染料は、発色が良くありませんでした。西洋原産の青色染料はタイセイ(大青)というものです。それに対し、インド原産のインド藍(のちに西洋でインディゴと呼ばれる)は、染料としてタイセイより10倍も強力でした [2]。じつは、インド藍はペルシア人商人によって、ローマ帝国時代にすでにもたらされていました。ただし海を渡ってきたため価格が高かったのと、染料ではなく鉱物と信じ込まれていたことで、染料として使われることはありませんでした。

まとめると、第一と第二の理由は文化的理由で、第三の理由は物質的理由です。かつて西洋で青が評価されなかったのは、文化的に青が好ましくない色であったのと、そもそも青の良い染料が手に入らなかったためです。

好まれる青

レオナルド・ダ・ヴィンチ《受胎告知》1472年 – 1475年頃、ウフィツィ美術館、フィレンツェ
レオナルド・ダ・ヴィンチ《受胎告知》1472年 – 1475年頃、ウフィツィ美術館、フィレンツェ

では、嫌われ者の青が、どのようにして人気になったのでしょうか。それは、青が評価されなかった理由の裏返しをすれば、明らかにできそうです。つまり、青が人気になるには、青の文化的評価があがることと、青の良質な染料が安価に手に入るようになることが必要です。

まず、青の文化的な評価はどのようにあがったのでしょうか。要因の一つとして、絵画に描かれる聖母マリアの服に、青が使われるようになったことがあります。

西洋絵画では、伝説上の人物(神)、歴史上の人物を描く際に、その人物が描かれていることを鑑賞者に知らせるために、その人物ならではの持ち物を持たせます。美術用語で「アトリビュート」と呼ばれるものです。

アトリビュートとは簡単に言えば、その人物であることの目印です。たとえば、目隠しされて弓矢を持った少年が描かれていれば、私たちは彼をキューピッドだと知ることができます。

サンドロ・ボッティチェリ《書物の聖母》1482-1483年頃、ポルディ・ペッツォーリ美術館美術館、ミラノ
サンドロ・ボッティチェリ《書物の聖母》1482-1483年頃、ポルディ・ペッツォーリ美術館美術館、ミラノ

青の衣は聖母マリアのアトリビュートです。中世期の宗教画を見ると、青の衣につつまれたマリアの絵がいくつかあります。それらは中世後期(15,16世紀)に多い印象です。過去の記事、遠景は空の色を映すにも2枚、マリアの絵を載せているので確認してみてください。

このとき顔料として使用されたのは、アフガニスタンから輸入されたラピスラズリでした。当時はラピスラズリが金よりも価値をもっていたため、そのような高価なものを絵画に使用することで、聖母マリアへの賛美の意味を込めたのです。それまで、聖母マリアの衣の色は、イエスの死を嘆く喪の色として、黒でもすみれ色でも緑でも、暗い色であれば何でもよかたのですが、12世紀にほぼ青色に定着しました。

ラピスラズリは石なので染料には使用できません。ですが、鮮やかな青の衣をまとう聖母マリアを見ることによって、貴族たちが青の服を着てみたいと思ったとしてもおかしくありません。実際、中世後期には青いラシャと服が貴族の間で流行しました。

ブルボン王・ジャン1世。きらびやかな装飾がほどこされたフープランドを着ている。1450年。

青の評価があがった要因のもう一つに、染料としてタイセイより優れているインド藍が、安価に手に入るようになったことがあります。

先ほど、ローマ帝国時代にインド藍が、染料ではなく鉱物と信じ込まれていたと紹介しました。これは輸送に便利なように、インド藍が固形にされて輸出されていたからです。鉱物であるなら、染料として使おうという発想にいたりません。

その認識はマルコ・ポーロ(1254-1324年)によって覆されました。彼は、中国まで旅して書いた著作『東方見聞録』にて、インド藍の製法を紹介することで、インド藍が植物であることを実証しました。

インド藍が植物で、染料に使用できると知られると、西洋でインド藍の輸入が増え始めます。つづく近世期、大航海時代にはポルトガル人によって直接、インド藍が西洋に運ばれるようになりました。さらに、「新大陸(現在のアメリカ大陸)」で奴隷を使ったインド藍の栽培も始まりました。

こうして、インド藍の価格は時代を下るに従い下がり、青を好む人が誰でも、青を身にまとえるようになったのです。

おわりに

西洋の古代から中世にかけて、青は好まれない色でした。理由として第一に、それが蛮族の色であったこと、第二に、青に付随するイメージが死を連想させたこと、第三に、西洋に鮮やかな発色をする青の染料がなかったことを挙げました。

ですが、中世期の間に青の評価があがりました。理由として第一に、聖母マリアの衣に青が使われるようになったこと、第二に、鮮やかな発色をする外国の染料が安価に手に入るようになったことを挙げました。

現在では、青には平和・友好などのイメージが加わり、西洋で最も人気の色となっています。

以上、青が西洋で人気の色になるまでの過程を、歴史的にご紹介しました。

参考文献

『青の歴史』は西洋の青色の評価の変遷について述べた、非常に面白い本です。

西洋中世の服や色についてもっと知りたいという方は、服飾史の研究で有名な徳井淑子さんの本がおすすめです。

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[1] [2] ミシェル・パストゥロー著、松村恵理・松村剛訳『青の歴史』筑摩書房、2005年

竹内淳子『藍〈1〉風土が生んだ色』法政大学出版局、1991年

竹内淳子『藍〈2〉暮らしが育てた色』法政大学出版局、1991年

村上道太郎『藍が来た道』新潮選書、1989年

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