はじめに
創作物語の回です。月に1回を目標に投稿していく予定です。お楽しみください。
レア・オルバ姫の夢
殿方にとって結婚とは、財産のおまけに姫君がついてくるという程度のものなのである。まさに殿方に嫁ぐために船旅の途上にある、十四歳のレア・オルバ姫は、母上からそのように教わっていた。
ずっしりと重たい衣装に身をつつんだ姫は、甲板に立ち、何羽もの海鳥が上空を旋回する様子を眺めていた。陽光のまぶしさに目を細めると、顔にさっと影が差した。房がいくつも垂れ下がった、豪奢な日傘が視界に入る。姫は傘を支える手元を見た。
「ノラ。鳥が増えたようだけど」
「ええ、姫さま。陸が近いのです。明日にはシル河に入るそうですよ」
そう、と姫は答えた。
「姉妹のなかでは私が一番遠い国。つまり、父上にとっては一番どうでもいい国ね。もう二度と、父上と母上には会えないのかも」
「恋しいですか?」
「そうね、少しは」
海鳥が一羽おりてきて、甲板の手すりに止まった。そのまま羽づくろいをしはじめる。姫はゆっくりと歩を進め、手すりに手をかけた。ノラが日傘を掲げてつづいた。
「アラハマ王国は温暖で美しい国だと聞きます。エストラントでは見られない花々や果物もたくさんあるそうで……。きっと姫さまも気に入りますよ」
「そう。温かいのはいいことだわ」
羽づくろいをしていた海鳥が動きを止め、姫を見た。黒だと思った瞳は、黄金だった。鳥は自由だ、と姫は思った。どこへでも好きな場所へ飛んでいける。姫がそっと手を伸ばすと、鳥は弾かれたように飛び去った。その軌跡をしばし追った姫は、視線を戻した。甲板に一本の羽根が落ちていた。姫はその羽根を拾い、外套の隠しにしまった。
ノラが言っていた通り、翌日には、船はシル河の河口を通過した。腕まくりをした屈強な男たちが、かけ声を上げながら櫂を漕いでいる。船は河の流れに逆らい、のろのろと進んでいく。レア・オルバ姫は船室にて、アラハマ王国に着いてからまとう衣装や装身具の確認を行った。婚礼の衣装に合わせる宝飾品を選ぶときに、ノラが言った。
「サファイアで統一するのはいかがでしょうか。王子の瞳は青でしたよね」
「そうだっけ?」
困ったような表情になったノラが、木箱をあさり、王子の肖像画を取り出した。
「姫さまが嫁がれる殿方です。よく覚えておいてください」
姫は肖像画を受け取って眺めた。描かれた人物は青の目に、黒の髪をしていた。絵から読み取れる情報はそれだけだった。「そうね、サファイアでいいわ」と言って、姫は肖像画を返した。ノラがもの言いたげに口を開いたが、何も言わなかった。
夜半に姫は、寝台で目を覚ました。櫂で水をかく、リズミカルな音の合間に、女性の歌声が聞こえたような気がした。寝巻きの上に、つづれ織りの外套をはおった姫は、部屋の扉を開けた。隣の部屋ではノラが眠っていたが、彼女を起こさないように忍び足で歩き、甲板へ至る扉を開けた。海風がびゅっと吹き、髪を背後にさらっていった。
月が夜空に煌々と輝いていた。月光を反射する甲板を歩き、姫は歌声が聞こえるほうの船べりへ寄った。そういえば、と姫は思った。ノラが言っていたっけ。シル河には美しい歌声をもつ妖精が住んでいるのだと。手すりに手をつき、身をのりだすと、川面に船の影が映っていた。その影のなかに姫は、自分のものとおぼしき影を見つけた。その影がこちらへ向かって、手を振っていた。
「え?」
と言った瞬間、手が滑り、均衡を崩した。気づいたときには、姫の身体は川面に向かって落下していた。悲鳴を上げる間もなく、水に叩きつけられた。外套を脱いで軽くならなきゃ、と頭の片隅で思ったが、身体が思うように動かなかった。息が苦しく、だんだんと意識が遠のいてきた。
そしてレア・オルバ姫は、薄暗い一室で目を覚ました。
寝台から身を起こした姫は、部屋に唯一あった、小窓をのぞいてみた。窓の外には城があり、その背後には森が広がっていた。姫は自分が、高い塔の上の一室にいることを理解した。アラハマ王国に着いたのかしら、と思ったが、見渡す限り人影がないことについて、不審に思った。アラハマ王国はエストラントと同等の財力を持っていると聞いている。城に衛兵が一人も見当たらないなど、あり得なかった。
疑念がますます深まったのは、寝台の下に揃えられている室内履きを見たときだった。それは姫がエストラントで五年以上愛用していた、羊皮の靴だった。くたびれてみすぼらしいからと、船旅の出発前に処分されたはずだった。
姫は塔の一室から出ると、窮屈な螺旋階段を下りていった。草に覆われた中庭を横切り、一番手近にあった、城の扉を開けた。季節は初夏だというのに、その部屋では暖房がついていた。暖炉のそばには、安楽椅子に腰かけた老婆がいた。姫は目を見開いた。
「キーラ?」
キーラは姫が十歳の頃に亡くなったはずだった。彼女はエストラント専属の産婆で、まじない師だった。老婆は姫に視線を向けた。
「王さまは二人の奥さまを迎えました。レアさまのごきょうだいは十四人。まあ、私がとりあげた御子はもっと多かったのですが、今もご存命のごきょうだいの話ですよ。そのうちレアさまは末娘です」
「だからなに?」
老婆は微笑むと、暖炉にかけてあった鍋を火から下ろした。
「温かい果実酒でもいかがですか。お身体によい薬草が入っています」
姫は戸口から離れて、室内へ入った。老婆の隣の椅子に腰かけ、湯気のたつ杯を受け取った。中身を一口飲むと、じんわりと身体が温かくなった。
「わたし、結婚するのよ」
「さようですか」
「王位継承権が三番目の王子とね。たぶん一生、継承権は回ってこないと思う」
「レアさまは王妃になることに興味がおありで?」
「べつに。王妃どころか、へたしたらすぐに未亡人になるかもしれないし」
「さようですか。では、何を気にされているのですか」
姫は炎に赤く照らされる杯を見つめたまま、黙していた。ぱちぱちと薪のはぜる音が室内に響きわたる。そのうち、杯の中身が空になった。「ところで」と老婆が言った。
「外套の隠しに何を持っていらっしゃるのですか」
姫は言われるままに、外套の隠しを探った。中から出てきたのは、海鳥の白い羽根だった。
「ああ。これはね……」
言いかけるうちに、羽根がみるみる変形して、一本の鍵になった。姫が目を丸くしていると、「鍵ですか」と老婆が言った。
「もしかすると、この城のどこかに、その鍵に合う部屋があるかもしれません」
老婆に促されて、姫は立ち上がった。姫が入ってきた扉とは反対側に、扉があった。その取手に手をかけようとして、振り返った。
「キーラ。あなたは死んだのよね?」
老婆はすでに、安楽椅子に戻っていた。暖炉の炎を見つめたまま、彼女は答えた。
「そうとも言えますし、そうでないとも言えます」
姫は取手を押して、部屋を後にした。
レア・オルバ姫は薄暗い廊下を歩いていた。廊下にはところどころに、松明がしつらえてあったが、奥に進むにつれて、炎が弱くなっていくようだった。姫は廊下に扉を見つけるたびに、それを開けていった。どの部屋にも鍵はかかっていなかった。
ある部屋には玩具が溢れていた。その中には姫が幼い頃に一緒に眠っていた、人形がまぎれていた。ある部屋には衣装がかけられていた。それは母上が気に入ってよく着ていた、月の刺繍がほどこされた衣だった。ある部屋には血にまみれた羊の死骸があった。それは姫が初めて動物の死骸を見たときと同じ体勢をしていた。
松明の明かりがほとんど意味を成さなくなると、姫は扉があるかどうか、手探りで探らなければならなかった。あまりにも暗いので、床が抜けているのではないかと不安に思って、四つん這いになり、床を触って確かめていた。すると、伸ばした手が壁に阻まれた。ついに、廊下の突き当りに着いたらしかった。
姫は扉の取手を探しあてると、それを引いた。しかし扉は開かなかった。取手付近を触ると、鍵穴らしきものの感触がした。手汗で滑り落としそうになりながら、隠しから鍵を取り出し、それを穴に差し込んだ。最初、鍵は開かないと思われた。だが錆びついていただけのようで、力を込めると、重々しい金属音が鳴りひびいた。
戸を引いた瞬間、姫はまぶしさに睫毛を伏せた。そよ風が頬をかすめた。視線を上げると、そこは庭園のようだった。なんだ、外に戻ってきてしまったのね、と姫は思った。自分がいる位置を確認しようと、歩を進めて振り返った。しかし、通ってきたはずの扉も、城自体も消えてしまっていた。
姫は視線を前に戻した。庭園の中心に水盤があり、そこに何者かがうつ伏せに倒れていた。近づいてみると、その人物が幼い少女であることが分かった。姫は彼女の髪癖や、紅色の衣に見覚えがあるような気がした。腰を落として、少女をそっと抱き起した。彼女は目に見えて衰弱していた。少女が薄く目を開くと、かぼそい声で言った。
「お祭りに行きたい……」
姫は思い出した。幼い頃に、王国で開催される収穫祭に行きたいと、母上に駄々をこねたことがあった。母上は言った、「あれは庶民のためのお祭りです。レア・オルバ姫が行ってよいお祭りではありません」。思えば姫がわがままを言ったのは、それが最後だった。以降は、姫としての自覚を持ち、父上と母上が望む通りの娘として行動してきた。そうすれば二人は自分を認めてくれ、愛してくれるだろうと思ったからだ。だが結局、自分を大切にできる者は自分しかいなかったのだ。姫は少女を抱きしめると、ごめんね、と言った。
レア・オルバ姫が目を覚ますと、視線の先には青空が広がっていた。「姫さま」と呼びかけるノラの声がした。
「お加減はいかがですか。苦しいところや、痛いところはございませんか」
姫が起き上がろうとすると、ノラが身体を支えた。姫の身体には何枚もの毛布がかけられており、隣には大きなかがり火が焚かれていた。彼女がいるのは船室ではなく、陸の上だった。
「何が起きたの、ノラ?」
「シル河に落ちなさったのですよ、姫さま。一晩中目覚められなかったので、心配いたしました。さあ、気つけ薬を飲んでください」
姫は差し出された液体を飲みほした。吐き出しそうなほどまずかったので、キーラの果実酒が恋しかった。姫は火のそばにかけられた外套に気づくと、立ち上がって隠しを探った。しかしそこには何もなかった。「出発できそうですか」とノラが尋ねた。
「問題ないわ」
やがて召使の者たちが、毛布を片づけはじめた。陸で休憩を取っていた男たちが、ぞろぞろと船内へ戻っていく。
「そうだ、婚礼衣装に合わせる宝飾品のことだけど」
レア・オルバ姫は、思い出したように言った。
「サファイアはやめて、ルビーにしたいわ」
ひととき呆気にとられたノラが、理解したように微笑んだ。
「もちろんです。ご自身が好きなものを身につけるのが一番ですからね」
おわりに
徳井淑子の『中世ヨーロッパの色彩世界』を読んでいたときに、「(西洋中世期の)男性にとって結婚とは、財産にたまたま女性がついてくるという程度のものなのである」という文章が印象的でした。父系社会であればどの地域でもそうですが、かつて女性は男性の所有物であり、道具にすぎなかったんだな……と考えると、そのように扱われた女性たちがどんなことを思ったのかが気になってきました。そうして生まれたのが今回の物語です。
ついでに、「小説家になろう」の2023年「冬の童話祭」のテーマが「ゆめのなか」で、今回の物語では夢の描写を出す予定だったので、ちょうどいいと思って企画の時期に創作を合わせました。
今回いちばん意識したのは、主人公の心情を書き過ぎない、ということです。最初に書いたときは、冒頭から「~と姫は思った」など、レア・オルバ姫の心情がせきららに書かれていたのですが、最初から姫の感情が分かってしまったら面白くないな、と思い、後半に向けて徐々に出していくスタイルに変更しました。そうすることで、「この子は何を考えているんだろう?」と興味を持ちながら読んでもらえるかなと思いました。
「姫」が主人公の物語は初めて書いたと思います。ファンタジーらしくてテンションが上がりました。
以上です。お読みいただきありがとうございました。前回の物語はこちら→『どんぐりを集める女の子』