はじめに
ブログ記事を書く人なら誰しも、ブログタイトルには細心の注意を払います。なぜなら、記事タイトルに含まれている単語が、検索エンジンでヒットする確率が高ければ高いほど、ユーザーのサイト訪問数があがるからです。しかし、どこの誰が「水滴」「音」「アンソロジー」で検索するというのでしょうか。検索エンジンから本記事に辿りついた方、おめでとうございます!
それでも私がこの記事を書きたいのは、数々の文学作品を読む中で、水滴が落ちる音にセンシティブな主人公を何人か発見し、非常にどうでもよいがゆえに面白く、それを記録しておきたいからです。さあ、水滴のしたたる音が気になって眠れない主人公たちを見ていきましょう!
砦で眠る最初の夜。そのまま何十年もそこで過ごすことになるとはつゆ知らず….…
最初に紹介する主人公は、ブッツァーティ『タタール人の砂漠』より、ドローゴです。物語は、ドローゴが将校に任官し、最初の任地バスティアーニ砦に向けて出立するところから始まります。それは味気なく厳しい士官学校時代を経たドローゴにとって、本物の人生が始まる日でした。
もう書物に悩まされることも、軍曹の声に縮みあがることもない、そうしたことはもうみんな過ぎ去ったことなのだ。呪わしく思えたあの日々は、二度と繰り返されることのない過去の歳月となって、もう永久に消え去ったのだ。そう、いまでは彼は将校なのだ、金も入るし、美しい女たちも振り向くことだろう。
ブッツァーティ『タタール人の砂漠』脇功訳、岩波文庫、2016年、 7-8頁。
しかし人生のいちばんいい時期、青春の盛りはすでに終わってしまったのだ、とドローゴは考えます。そして二度と戻ることのない旅に出立しようとしているような不吉な予感を感じながら、生まれ育った家を後にします。
砦へ向かう途中で、ドローゴはオルティスという名の、バスティアーニ砦に赴任中の大佐に出会います。共に歩を進めながら、ドローゴは大佐から砦のことを聞きます。大佐の話によると、砦は気にする必要もない国境線にあり、前には大きな砂漠があるだけであり、周囲には町はおろか村すらないとのことでした。砂漠は「タタール人の砂漠」と呼ばれていますが、タタール人がいたというのはいわば伝説で、これまで砦は一度も敵から攻められたことはありません。いよいよ砦を目にした瞬間、ドローゴは以下の通り感じます。
彼は不意におのれの孤独を感じた。そして、快適な宿舎があり、いつも陽気な友だちがそばにいて、夜の公園ではちょっとした冒険も楽しめるような、そんな平穏な駐屯隊暮らしを想像していた間は、なんの屈託もなく抱いていた軍人としての自信、自分に対するあらゆる自信がだしぬけに消えていった。
同上、32-33頁。
すぐにでも異動希望を出して、違う土地へ赴任すればよい、とドローゴは考えます。そして実際、到着の挨拶のため少佐の元へ出向くと、この砦への赴任は志願していなかったことを伝え、町の近くにある拠点へ可能な限り早く移りたい、と希望を伝えます。しかし少佐にうまく言いくるめられてしまったドローゴは、ひとまず1日考えてみようと、砦で一晩過ごします。その最初の夜に気づいたのが、水滴の落ちる音でした。
限りない静寂に圧倒されて、さっきよりもいっそう目が覚めてしまった。ごく遠くで咳払いするのが聞こえた。だが、本当に聞こえたのだろうか? それから、近くで、かすかに、ぽとん、と滴が垂れる音がして、それが壁に響いた。緑色をした小さな星がひとつ(彼はじっと眺めていたのだが)、夜空を旅して、窓枠の上端に届こうとしていた。間もなく姿を消すことだろう、そして、一瞬、窓の黒々としたふちのところで明るく輝いたかと思うと、見えなくなった。ドローゴはなおしばらくその星を追って、頭の位置を前に動かした。そのとき、二度目の、ぽとん、という音が聞こえた、なにか物でも水に落ちるのに似た音だった。また繰り返し聞こえるのだろうか?
(中略)
ぽとん、とまたあのいまいましい音。ドローゴはベッドの上で身を起こして、座りなおした。では、あの音は繰り返し聞こえてくるのだろうか? それに、いまの水音はその前のとおなじ大きさだったことをみれば、次第に途絶えてゆく滴の音ではなさそうだ。眠れたものではない。
同上、51-52頁。
ドローゴは呼び鈴で人を呼び、水滴の音をどうにかするよう、指示します。しかし呼ばれてきた兵隊は、先刻承知とばかりに、水槽が原因のためどうしようもないのです、と答えます。水滴の音が聞こえるのはドローゴの部屋だけではなく、どの将校たちも同様の愚痴をこぼしているとのことなのです。ドローゴは諦めると、自分をここに引き止めようとする目に見えぬ罠が、周りにはりめぐらされているように感じながら、やがて眠りに落ちてゆきます。
インドの神秘と幻想に取り巻かれる夜
次に紹介する、水滴のしたたる音が気になって眠れない人は、アントニオ・タブッキ『インド夜想曲』の主人公です。主人公の「僕」は、失踪した親友を探すためにインドを訪れます。信頼できるガイドブック1冊と、小さなスーツケース1つを携え、親友の手がかりを求めて町から町へ移動します。
5つ目のエピソードにて、「僕」はマドラスを訪れます。「僕」のガイドブックによると、マドラス随一のレストランはホテル・コロマンデルの中にある《マイソール》であると断言されていました。そこで「僕」は好奇心をそそられ、本当かどうか試してみるために、ホテル・コロマンデルに泊まることにします。
「僕」は夕食を楽しんだあと、部屋へあがります。歯をみがいていると、部屋の電話が鳴りました。
一瞬、いずれ電話ではっきりした返事をすると言っていた神智学会(註:主人公が親友と関わりがあると睨んでいる学会)からかと思ったが、電話まで行きながら時間を見て、そんなはずはない、と考えた。つぎに、僕は部屋の水道の栓のぐあいがよくないとフロントに言ったのを思い出した。やっぱりフロントからだった。
アントニオ・タブッキ『インド夜想曲』須賀敦子訳、白水社、2020年、59頁
ところが、「僕」のあては外れ、フロントからの要件は、お客様とお話になりたいとおっしゃっているご婦人がいる、というものでした。「僕」はその婦人に心当たりがありました。部屋のライティング・デスクの右側の一番下の引き出しに、前泊した人のものと思われる書類があったためです。しかもその書類は、金持ちの夫だと思われる男に婦人が仕返しするための、大金にまつわる重要な書類でした。婦人は、ホテルのバーで話そうという「僕」の提案を却下し、部屋まで訪ねてきます。書類があまりにも重要なものだからでした。
部屋で対面したとき、「僕」が書類のことをほのめかすと、婦人は明らかに動揺しました。
二人のあいだに沈黙がひろがり、僕はゆるくなった水道の蛇口から水滴の落ちる音にいらいらしていた。「食事のまえにも電話をかけたのです」と僕は言った。「すぐに修繕すると言ったのに。この音は我慢できない。今夜はねむれないかもしれない」
彼女はほほえんだ。籐のたんすにもたれて、ひどく疲れたように、片方の腕をだらりとさげていた。「慣れてしまえば大丈夫ですわ」
彼女は言った。「この部屋に一週間泊まって、何度も何度も修繕するように言ったのですけれど、わたくしはとうとうあきらめました」
同上、62頁。
「これからどうするつもり?」と尋ねる「僕」に対し、女性は「わからない」と答えます。そして、明日コロンボ(スリランカの都市)の銀行に行かなかったら、何もかも失敗に終わると言います。「僕」は明日の朝、マドラスからコロンボ行きの飛行機がある、と伝えます。
彼女はよくわからないというように、僕を見た。ながいこと、じっと、僕を調べるような目つきで見ていた。
「僕にとっては、あなたはもうここにいない人だ(註:このホテルからチェックアウトした人という意味)。でも、この部屋には寝心地のいいベッドが二つある」
彼女はほっとした様子だった。脚を組むと、すこしわらった。「どうしてなの?」
「わからない」と僕は言った。「追われている人間が好きなのかもしれない。それに、僕だってきみのものを盗んだ(註:彼女の書類と一緒にあった、手紙の一部をネタとして書き写したという意味)」
「フロントにスーツケースを置いてきたわ」
彼女は言った。
「ほうっておいたほうが安全だろうな。明日の朝、とりに行けばいい。パジャマを貸そう。僕たちはほとんど同じ背丈みたいだ」
彼女はわらって言った。「あと心配なのは水道の栓だけよね」
僕もわらった。「でもあなたはもうあの音に慣れたんでしょう。困るのは僕だけだ」
同上、66-67頁。
このエピソードは上記で引用した最後の文章で終わります。そのため、「僕」が実際に水滴の音に困ったかどうかは分かりません。しかし、目が覚めている状態でも水滴の音にいらいらする「僕」の描写があるので、ベッドに入ればなおさら水滴の音が気になって仕方ないだろう、ということが想像できます。
ところで、「追われている人間が好きなのかもしれない」という台詞には、主人公が探している親友、つまり主人公に追われている親友が暗喩されていると思われます。
家に不法侵入し、止水栓を閉めたのは誰か
最後に紹介する、水滴のしたたる音が気になって眠れない主人公は、ウンベルト・エーコ『ヌメロ・ゼロ』より、コロンナです。コロンナは50代の売れないライターで、食べていくために、公では口を大にして言えないような仕事もしてきました。そんな彼の元に、とあるセレブが特定のサロンの仲間入りをするために、サロンメンバーに脅しをかけるための新聞を創刊するフリをしてほしい、という依頼が舞い込みます。コロンナは報酬を聞くと、リスクと天秤にかけて、その依頼を受け入れます。
そんな物語の冒頭で、不法侵入の可能性に怯えるコロンナの描写が出てきます。冒頭の場面は、物語の終盤の時間軸に設定されており、すでに彼の悪事が何者かにバレたと確信できる出来事が起きた後に設定されています。
今朝は蛇口から水が出なかった。
グロ、グロ。赤ん坊のげっぷみたいなのが二度出ただけで、それきりだ。
隣家のドアをノックした。彼らのところでは別に問題はない。止水栓のハンドルを閉めたんじゃないですか、と隣家の奥さん。私が? 止水栓なんて、どこにあるかもしらないんですよ。ここにきて間もないし家に戻るのは夜だし。まあ、でも一週間家を空けるときも水道もガスも閉めないんですか。ええ、閉めません。なんて不用心な。ちょっとお宅にあがらせてください、私が教えますから。
彼女は流しの下の戸棚を開けると、何やら動かした。すると水が出て来た。ほらね、お閉めになったんですよ。いやあ、すみませんでした。ぼんやりで。ほんとに、あなたがたシングルは! こう言って、隣家の奥さんは出て行った。今や奥さんも英語を使うのだ(註:イタリアが舞台なので、奥さんはイタリア人)。
神経よ、落ち着け。ポルターガイストなんて存在しないのだ。映画の中だけの話だ。それに、夢遊病でもない。無意識に夜中に歩いたにせよ、止水栓のありかなど知らなかった。知っていたら、目が覚めているときに閉めていた。シャワーの水がしっかり止まらず、ポタポタ落ちる水音のおかげで眠れぬ夜をすごす羽目になることもあるのだ。まるでヴァルデモッサにいるみたいだ(註: ショパンが「雨だれの前奏曲」を作曲したマヨルカ島の村)。実際、夜中によく目を覚ましては起き上がり、あの呪わしい滴の音が聞こえないように、バスルームと寝室のドアを閉めに行く。
ウンベルト・エーコ『ヌメロ・ゼロ』中山エツコ訳、河出文庫、2018年、9-10頁。
コロンナは隣家の奥さんの前では平然を装ったものの、自分が止水栓を閉めていないと分かっているので、不法侵入の可能性を考え、動揺し怯えています。この日の前日には、コロンナの身に危険が及ぶような出来事が起きたばかりでした。誰かが調査のために自室に入ってきて、今までの自分の悪事の証拠となるようなフロッピー・デスクを持ち出したに違いない、とコロンナは考えたのです。
ウンベルト・エーコは代表作の『薔薇の名前』で有名な作家で、私の大好きな作家の一人です。調べてみると、このブログでは、すでに10記事に「ウンベルト・エーコ」というワードを使用していました。なので、この作品も期待して読んだのですが、物足りない感じが残りました。
イタリアの現代史(ムッソリーニ関連)を知っている前提で話が進むので、私が理解できていない部分が多いという理由もあるのですが、物語のスケールが『薔薇の名前』や『バウドリーノ』より小さく感じました。とはいえ、陰謀論やメディアの印象操作について考えさせられる物語でした。
おわりに
今回は、水滴が落ちる音にセンシティブな主人公をテーマに、3つの物語を紹介しました。なんと、この3つの物語には共通点があります。それは、作者が全員イタリア出身ということです!
そのため、イタリア人は水滴にセンシティブなのか、あるいはイタリア文学界ではそのような表現が有名なのかもしれません(例えば紹介した中で最も古い物語である、『タタール人の砂漠』を踏襲しているとか)。これからも、水滴が落ちる音にセンシティブな主人公を集めていきたいと思います。
以上、水滴が落ちる音にセンシティブな主人公アンソロジーでした。