はじめに
8/12(土)に4回目の読書会を開催しました。今回は課題本型で、課題本はアントニオ・タブッツキの『インド夜想曲』でした。当日は著者や本のあらすじをおさらいした後、物語内容について考察しました。その記録を本記事に記載します。お盆休み中だったので更新が遅くなりスミマセン。
- 読書会はTwitter上で参加者を募り、オンラインで開催しています。
- 今回参加いただいた方は5名でした。
今回は、読書会を始めてからはじめての満員の回となりました。そのうち2名ははじめて参加いただく方でした。読書会をきっかけにはじめて『インド夜想曲』を読むという方もいらっしゃり、読書会が役立っているようで嬉しく思いました。
『インド夜想曲』は、ネタバレしないほうが楽しめるタイプの小説なので、未読の方はネタバレを了承のうえ本記事をお読みください。過去にネタバレなしの紹介記事も書いているため、気になる方は以下をどうぞ。
アントニオ・タブッツキについて
アントニオ・タブッツキは、1943年にイタリアのピサで生まれ、ピサ近郊の村、ヴェッキアーノで育ちました。ピサには、ガリレオ・ガリレイが物体の落下速度をはかる実験をしたことで有名なピサの斜塔があります。
タブッキは大学生の頃、ヨーロッパを旅するなかで、フランスのリヨンを訪れました。彼はリヨン駅近くの書籍売り場で、その後の人生を左右する詩集に出会います。その詩集は、ポルトガルの詩人、フェルナンド・ペソアによって書かれたものでした。
タブッキは、ポルトガルの首都リスボンを訪れることで、ポルトガルへの愛着をもちました。そして、ポルトガル文学を専門に研究しはじめます。のちにタブツキが結婚した女性も、リスボン出身の方でした。
大学卒業後はポルトガル文学の学者となり、イタリア各地の大学で教鞭をとりました。そのかたわらで、小説執筆もはじめ、32歳の頃、最初の小説を出版します。
『インド夜想曲』は5作目の小説で、フランスで最も権威ある文学賞・メディシス賞の「外国小説部門」を受賞しました。メディシス賞は、デビューしたばかりの作家、まだ才能に見合った評価を得ていない作家、「比類ない」作家の小説に対して贈られる賞です。他にも例として、以下の小説が「外国小説部門」を受賞しています。
個人的にどれもお気に入りの小説なので、メディシス賞のセンスのよさがうかがえます。
『インド夜想曲』は1989年に映画化もされています。独特な物語展開のため、映画化は不可能と言われていましたが、アラン・コルノー監督によって、原作が忠実に再現されました。私はわざわざ中古のDVDを購入して映画を観ましたが、そこまでする価値が充分にある名作でした。場面の切り取り方が非常にうまく、詩的で、原作のイメージをさらに膨らませてくれる映画でした。
タブッキは、1年の半分を妻の故郷であるリスボンで、残りの半分を自身の職場であるシエナ大学周辺で過ごしていました。2012年、リスボンにて68歳で死去しました。
『インド夜想曲』について
作中に出てくる場所の紹介
『インド夜想曲』は、インドで失踪した友人を探して、主人公がボンベイ、マドラス、ゴアの3都市を旅する物語です。彼が探していた友人は、実は彼自身(もう一人の自分)だったことが最後に明かされます。
ボンベイとマドラスはイギリスがインド支配の3拠点としたうちの2都市で、とくにマドラスにはかの有名な東インド会社が置かれました。今はそれぞれ、ムンバイとチェンナイに改名されていますが、作中の時代にあわせて地図上はボンベイとマドラスと記載します。
一方でゴアは、ポルトガルがインド支配の拠点とした都市です。西洋人の大航海時代には、アジアの特産品である香辛料を求めて、数々の国が航路の開拓に挑みました。そのなかで、ポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマがはじめてインド航路を開拓し(1498年)、ゴアの最初の総督に就任しています。
『インド夜想曲』は紀行としても楽しめるので、各都市の写真を以下に紹介します。
ボンベイ
マドラス
ゴア
ゴアの修道院にて、老人が「わしはハーメルンの笛吹きだぞ!」と叫ぶ場面があります。ハーメルンの笛吹きについては、西洋中世期のアウトサイダーを参照ください。
物語の解釈
作中に登場する主人公は、シャヴィエル(主人公が探している人)の「影」であると考えられます。ユング心理学によると「影」とは、その人によって生きられなかった半面で、普段は無意識の領域に沈んでいます。図にすると、主人公とシャヴィエルの関係は以下の通りです。
人間の意識と無意識の間には、夢として現れるイメージの世界があります。私たちは通常、意識の領域しか認知できませんが、夢を通じて無意識の領域を垣間見ることができます。また、夢は自らの「影」に出会える場所でもあります。例えば、とても真面目な性格の人は、夢のなかで自分とは真反対の、奔放な性格をした「影」に出会うことがあり得ます。
『インド夜想曲』が人の心の中に存在する分身(ダブル)をテーマにしていることは、物語の諸所から読み取れます。例えば、根拠として以下の文章を挙げることができます。
《影》の探究であるこの《夜想曲》
アントニオ・タブッキ『インド夜想曲』須賀敦子訳、白水社、2020年、「はじめに」より。
人間のからだは、もしかすると、ただの見せかけかもしれない。それは、われわれの実質を隠し、われわれの光、あるいは影を厚く覆っている
同上、68頁。「光」が意識(自我)を、「影」が無意識を意味していると読み取れます。
『インド夜想曲』では物語が支離滅裂、混沌としていることから、主人公が夢のなかを旅していることが予想できます。主人公が自我と影のどちらなのかは、バス停留所で出会った占い師の言葉で明らかになります。
- 主人公はもうひとりの人、「マーヤー」で、幻影である。
- 主人公が探しているのは「アトマン」で、個人のたましいである。
インド哲学において、アトマンは意識の最も深い内側にある個の根源(真我)を意味します。一方で、マーヤーは幻影(古くは神の力・神秘的な力とも)を意味します。よって、主人公が「影」で、主人公が探している人物が「自我」であることが分かります。
最終章にて、もう一人の自分を見つけた「影」は満足して、物語の幕が閉じます。
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私たちと影との関係は、表と裏、意識と無意識、日常と異世界、昼と夜、村と森、王と愚者などで表すことができ、様々な文学作品でこのモチーフが使用されています。例えば、シェイクスピアの『リア王』にも王と道化(愚者)が登場します。ユングの孫弟子の河合隼雄によると、私たちは影とうまく付き合っていくことで、創造性を発揮し、二者択一ではない第三の道をつくりだしていきます。
影について興味をもった方には、河合隼雄の『影の現象学』がおすすめです。講談社学術文庫のなかで一推しの本です。専門知識がない人にも分かりやすく書かれています。
フリートーク
ここからは参加者の皆さんとお話したことを紹介します。記事に書く都合上、一程度のまとまりに分けて記載します。
全体的な感想
全体を通じて、以下のような感想がありました。
- 現実では人はきれいなものばかり見せたがるが、この物語では、きれいなものも、きたないものも、どちらも描写しているのがよい。占い師の場面においてそれが顕著。
- タブツキの別の小説、『供述によるとペレイラは…』(ポルトガルのリスボンが舞台)では食事がおいしそうだが、この物語ではあまりおいしくなさそう。インドは食事はおいしくないのだろうか……
- 「この肉体の中で、われわれはいったいなにをしているのですか」と問われる場面が好き。その答えとして、主人公が「肉体は鞄のようなもの。われわれは自分で自分を運んでいる」と言うのもよい。
- 非現実世界を旅したようで楽しかった。占い師とその弟の話が好き。
- 現在地点を見失う小説だと思った。幻想文学を読んだことがあまりないので新鮮。
私が好きな場面は、病院の場面で、医者が「時計はずっと止まったまま。いずれにせよもう真夜中だ」と言う場面です。時計が止まっているという状態が、時間を超越した夢のなかのカオスをよく表しています。
西洋人はなぜインドを目指す?
イタリア人はインドが好きである、という話が出ました。例として、アルヴェルト・モラヴィアというイタリア人作家も、インドが好きだそうです。そこから、そもそも西洋人がインドを目指す習性があるのではないかという話になりました。なぜなら、世界征服を視野にいれていたマケドニアのアレクサンドロス大王は、ペルシア征服後、インド北西に流れるインダス川の手前までしか進軍できなかったからです。
「アレキサンダー」とか「アレクサンドル」とか「アレキサンドラ」とか「アレックス」とかいう西洋名が多いことから分かる通り、アレクサンドロス大王は西洋の歴史上の人物のなかでも高い人気を誇ります(不人気ならば名前に採用されないはずなので)。そのアレキサンドロス大王ですら辿りつくことのできなかったインド……という想いが、西洋人のなかで強いのかもしれません。
また、西洋人に限らず、インドは何かを探すために行く場所なイメージ、という意見もありました。そう言われてみれば、自分探しのためにインドを旅するバックパッカーの日本人も多いような気がします。『インド夜想曲』も、個人的には影が自我を探す旅、と解釈しましたが、もう一人の自分を見つける旅=自分探しの旅とも捉えられます。
インド哲学について
作中の占い師との場面で、「マーヤー」「アトマン」というインド哲学の用語がでてきました。私は「インド哲学」という用語があることすら知らなかったので、西洋哲学とはどう異なるのか、とても気になります。インド哲学はどうやら、宗教と深く結びついた考え方のようです。参加者の方から、気になっているというインド哲学の本を紹介していただいたので、共有します。ロイ・W・ペレット『インド哲学入門』
ミネルヴァ書房によると「インド哲学の教科書はこれまで、インドにおこった思想を通時的に紹介するものがほとんどであったが、本書はインド哲学を7つのトピックごとに紹介する画期的な概説書である。
長年、比較思想の観点からインド哲学の諸問題を論じてきた著者が、西洋哲学の伝統を十分に踏まえた上で概説する本書は、これからインド哲学を専攻しようとする学生にとって、基礎から学ぶための好書である。」とのことです。目次を見ても興味を持てますし、発売されたら実物を見て買ってみようかと思います。
ペソアとの関連
タブッキはすでに紹介した通り、ポルトガル詩人のフェルナンド・ペソアに強い影響を受けています。ペソアの傑作といわれている『不安の書』にも、分身(ダブル)の観念が出てくるそうです。もしかするとタブッキはそこからも影響を受けて『インド夜想曲』を書いたのかもしれません。ちなみに『不安の書』はなかなか難解な本だそうです。
幻想文学について
『インド夜想曲』は幻想文学のジャンルに入れることができる、という話から、幻想文学とはなんぞや?という話になりました。幻想文学好きな参加者さんによると、非現実的なことが起こる物語が、幻想文学だそうです。幻想文学の代表的な作家には、ホルヘ・ルイス・ボルヘスがいます。
ボルヘスの代表作は『伝奇集』と呼ばれる短編集で、これらの短編はさまざまな物語に影響を与えています。例えば、「バベルの図書館」はウンベルト・エーコの『薔薇の名前』に影響を与えていますし、「円環の廃墟」はクリストファー・ノーランが監督の映画『インセプション』に影響を与えています。
幻想文学に分類できる小説として、他に以下の小説が挙げられました。
個人的にスティーブン・ミルハウザーは、『イン・ザ・ペニー・アーケード』に収録されているからくり人形の話、『アウグスト・エッシェンブルク』に震撼させられました。その物語は、大衆に理解されないが真に美しい芸術と、大衆に理解されるが美しさで劣る芸術とでは、どちらにより価値があるのか?という問題を提示しているため、あらゆる芸術家に読んでほしいです。
今後の読書会の課題本にどう?
参加者の方に今後、どんな本を課題本にしたいか尋ねてみました。山尾裕子の『ラピスラズリ』とウンベルト・エーコの『薔薇の名前』が挙がりました。私は山尾裕子の小説は読んだことがないですが、『ラピスラズリ』はよく耳にする人気作なので、読んでみたいです。長さも1カ月程度で余裕をもって読めそうで、課題本にいいかもしれません。
問題は単行本で上下巻ある、『薔薇の名前』ですよね……。エーコは個人的にもお気に入りの作家ですし、エーコの代表作といえば『薔薇の名前』なので、しっかり準備していつか行いたいです。○○修道会がたくさんでてくるので、歴史の勉強としてもよさそうですね。その場合、読む時間をかんがみて、最短でも半年前から告知が必要かもしれません。
おわりに
今回は8月読書会の記録を書きました。
今回は満員だったこともあって、5名全員に話が回るよう意識する必要があったので、けっこう緊張しました……!それぞれの話を深掘りできなかったため、皆さん、話たりなかったのではないかな?と心配でしたが、楽しかったと言っていただいてほっとしました。今後も試行錯誤しながらよりよい会にしていきたいです。
次回の読書会は9/9(土)を予定しています。次回のテーマは、「月が美しい小説/エッセイ」です。次回もすでに満員です。ありがとうございます。その次の回はサマセット・モームの『月と六ペンス』を課題本にする予定なので、興味のある方は読み進めていただければと思います。
以上です。またよろしくお願いいたします。