MENU

なぜ今、「タワマン文学」が支持されているのか

目次

タワマン文学とは

「東京というゲームが存在する」。都内のタワーマンションに暮らす人びとを主人公にした物語、『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』(麻布競馬場)の書評で小川哲が書いた一文だ。

「タワマン文学」という言葉より、一般的にはこの一節の認知のほうが高いだろう。私は知らなかったが、2024年にこの書評の切り抜きがXで拡散され、大炎上したらしい。そのときに「東京というゲーム」について、さまざまな議論が交わされたようだ。

東京というゲームが存在する。ルールはシンプルだ。有名大学を出て、一流企業に就職すること。ブランド物の服を着て、東京タワーを望む港区のタワマンに住むこと。見た目の良い異性と交際すること。それらを積み重ねた者がこのゲームに勝利し、勝者は他の参加者たちの羨望を得ることができる。

小川哲『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』の書評より、全文はこちら→(https://www.yomiuri.co.jp/culture/book/review/20221004-OYT8T50004/)

タワマン文学とは、首都圏のタワーマンションに暮らす人びとによる、競争や挫折、その背景にある人間らしい感情が描かれた物語だ。その物語の主軸には、東京(とその近郊)に暮らす人びとの価値基準による、社会的成功と失敗がある。

どの人も「成功」を目指して頑張るが、実際に「成功」の部類に入れるのはほんの一部の人間だけである。多くの人は「失敗」側に落ち着くし、周囲から見ると「成功」側にいると思われる人も、どこかむなしさを感じ、決して幸せではない。

どちらかといえば、そんなマイナス要素ばかりの生活なのに、なぜ私たちは東京の生活にしがみつくのだろう? この熾烈な競争社会のなかで、私たちはどうしたら幸せを実感できるのだろう?――タワマン文学は、そのような問いを読者に投げかける。

タワマン文学は、コロナ禍の2020年頃から、SNSで支持を得て広く認知されるようになった。

昭和には「花の都、東京」などと歌われ、地方に暮らす日本人の憧れの的となった「東京」だが、令和の今に、その評価が疑問視されている。これは時代を象徴する社会変化であり、その岐路に立つ私たちが、タワマン文学について考えることは、これからの自分の生き方や、これからの日本社会を考える上で、意味のあることだと思う。

「タワマン文学」を代表する作品の一つが、冒頭でも紹介した『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』(麻布競馬場)だ。本記事では、この作品をもとに、タワマン文学をめぐる現代社会を考察したい。

なお著者は平成生まれで、この作品に登場する主人公たちと同世代である。二年ほど前に地方移住するまで、ずっと首都圏で暮らしていた。

「分かりやすい幸せ」が社会から喪失した先に

なぜ今、タワマン文学が支持されているのだろう。そのヒントが『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』にはある。この本は短編集であり、全部で21編の物語が収録されている。「ショート・ショート」という用語を知っている人は、短編よりそれと認識するだろう。つまり一つ一つの語りの分量はかなり短い。

それぞれの物語には主人公がいるのだが、主人公として現れる人には、ある共通する属性を持っている。それは以下のような点だ。

  1. 年齢はアラサーである(20代後半~30代前半)
  2. 学歴至上主義をもち、ときに自分に学歴コンプレックスを持っている。
  3. 自らの学歴は一般的にいえばよいほう。たいてい早稲田大か慶応大のどちらかの出身
  4. 無職ではなく正社員として安定した収入がある。たいてい大企業務め
  5. 独身である

このリストを見ただけで、「あるある」あるいは自分の周りに「いるいる」すぎて具合の悪くなる人もいるかもしれない。それはともかく、ここで注目したいのは「独身」という主人公の属性だ。つまり主人公には配偶者が不在で、家庭がない。

結婚するかしないか、家庭をもつかもたないかは、その人の自由である。言い換えると「自由」と言えるようになったのが現代だ。

ひと昔前まで、例えば主人公たちの親世代のころには、適齢期になれば結婚して家庭をもつという生き方が、今よりずっと一般的だった。そして子供が生まれることなどをきっかけに、東京の近郊に「マイホーム」を持ち、彼らの親世代らしい、毎朝電車に乗って東京の会社に通勤するお父さん、近場のパート仕事と家事を両立するお母さん、という像が生まれていく。

もちろん当時にも、「結婚して自分の家庭を持つ」生き方に批判的だった人はいたし、そのような生き方をしなかった人もいた。しかしひと昔前には、多くの人が、そのような生き方を選んだ。家族を持つことに代表される、信頼できる仲間と支え合う生き方は、人類が誕生して以降何千年、何万年と、繰り返しつむがれてきた。

そうした生き方が長い間、当然だった背景の一つには、ヒトという種の存続本能がある。しかしそれだけではないように思う。ヒトは社会的動物なので、一般的には独りで生きるよりは、信頼できる仲間(家族)と共に助け合い、支え合いながら生きるほうが、精神的に安定する。つまり親が構成した仲間集団(家庭)から自立したときに、今度は自分自身の仲間集団(家庭)をつくることは、意識的にせよ無意識的にせよ、精神的な安定や幸福につながるものだったのだと思う。

すなわち、この背景を踏まえた上での「結婚して自分の家庭を持つ」ことは、「分かりやすい幸せ」を得る方法だった。ところが現代では、「結婚して自分の家庭を持つ」ことに対する価値観がゆらいでおり、かといってそれに代わる「分かりやすい幸せ」はまだ見つかっていないように思える。したがって、ひと昔前までの「分かりやすい幸せ」に頼らない(頼れない)主人公たちは、それに代わる幸せのかたちを見つけられずに、思い悩んでいるのだと思う。

一人一人の事例を見れば、個人の話に思えるかもしれない。しかしこれは社会全体の課題でもあるから、作品に登場する主人公たちが、今の時代に独身のまま生きて、幸せを簡単には見いだせていないのは、ある意味では自然であるといえるかもしれない。

幸も不幸も「自分」で見出すものである

この物語を読んで改めて思ったのは、自分の人生を幸せに捉えるのも、不幸に捉えるのも、自分しだいということだ。

現代は以前よりも、人びとの「競争」が可視化されているように思う。具体的には、企業における終身雇用の慣行は崩壊し、実力主義の社会になりつつある。そのような流れのなかで、自分の能力やスキルを、他者のそれを比べてしまう機会は多くなりつつあるように思う。それに応じて自分や他者を「勝ち」「負け」のどちらかに振り分ける、二元論的な思考も強まっているように思う。

ゆえに、あらゆる物事の価値を、他者との比較によって見出そうとする動きは、避けられないともいえる。しかも、日本の一流企業や一流大学が集中する東京近郊にて生活するならなおさらである。それをしないためには、強靭な精神力をもつか、比較せずに済む環境に、自分の身を置くしかないだろう。

そのような社会だからこそ、こと「幸せ」については、他者との比較では決して得られないと、肝に銘じておきたい。

この物語の主人公たちは、「学歴」「キャリア」「年収」「フォロワー数」「居住地」といった、分かりやすい指標に「幸せ」を見出そうとする。幸せのかたちが不確かな時代にて、それらを得れば、周囲からの羨望を得られ、「幸せ」になったように感じられるからだ。しかしそれらを手に入れたとしても、どこかむなしさを感じてしまう点で、それは自分にとっての「幸せ」ではないことに、彼らは気づけない(気づきたくない)。

ここで注目したいのは、自分の幸せを目指して歩んだ先に、結果として「学歴」「キャリア」「年収」…などが付随してくるなら、それは健全だというだ。

多くの人は、せっかくこの世に生を受けたのなら、幸せになりたいと願う。そうして自分なりの幸せを目指す過程で、ときに他者からの評価を得る。このとき、他者からの評価は「副産物」であって「幸せそのもの」ではない。言い換えると、幸せそうに見える人は、「学歴」「キャリア」「年収」…を持っているから幸せなのではない。「自分なりの幸せ」を明確にして、「足るを知る」の状態になるから、幸せなそうに見えるのだ。

ところが主人公たちは、他者からの評価という「副産物」を、「幸せそのもの」と勘違いして、かき集めようとする。しかし、自分なりの幸せを明確にしていないから、幸せの幻想を掴むばかりで、いつまでも幸せになれない。

メタ視点:「他人の不幸」をどこか楽しむ読者

この物語を読んで興味深いと思ったのは、今の時代に、このような物語が人びとから賛同を得て、求められている点だ。

すでに紹介した通り、タワマン文学というジャンルは、SNSを発祥とする。そして、この物語がSNSで話題になったのは、SNSという媒体で失敗談や不幸話に、関心が集まりやすい側面と、無関係ではないと思う。

この物語で登場する主人公たちは、一流大学を出て、一流会社に勤めているので、客観的には「エリート」だ。ところが彼らは、さまざまな理由で幸せとはほど遠い状況にある。そして物語の最後まで希望を見出せずに、それでもなんとか生きていくしかないという諦めの境地にいる。

このような物語が賛同を得る背景には、どこか他者の不幸を楽しむ読者がいるのではないか。つまり私たちは今、こういった「成功」の部類に入る人たちが、じつは不幸な状況にいる……という話が、ちょっと楽しいのではないだろうか? 少なくとも私は、「まったく楽しくない」と言ったら、嘘をつくことになる。

「競争」が劇化している現代において人は、「成功」している人物と自分を比較して、羨望を抱きがちだ。それと同時に、不遇な状況にある人物と自分を比較して、「あの人よりは『成功』している」と思うことで安心を抱きがちだ。タワマン文学が流行している背景には、こうした、他者との比較によって自分の価値を見出そうとする社会情勢があるとも考えられる。

おわりに

今回の記事では、今、タワマン文学が支持されている理由を考えた。

タワマン文学には、今日の若者たちを取り巻く、将来への不安や生きづらさが描かれている。「東京」という、日本じゅうのエリートが集う街で、競争にしのぎを削る若者たち。自らの家庭を持つという、ひと昔前までの分かりやすい幸せが、もはや確かとはいえない社会で、私たちはどうやって幸せになればいいのか。

のちの時代になって、今の時代がどう評価されるのかは分からない。しかし私たちは、確実に時代の岐路に立っていると言えよう。

◎新しい記事や短い考察はXで発信しています。よろしければフォローしてください。

ブルースカイにもいます。

https://bsky.app/profile/sousou55.bsky.social

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
目次