中世ヨーロッパを代表する酒といえば、ワインです。それは祝宴や礼拝、日々の食卓など、さまざまな場面で親しまれていました。
ではなぜヨーロッパでは、現代にいたるまでワインが愛されつづけてきたのでしょうか。その背景には、古代から受け継がれた文化や、中世における信仰、王侯貴族の慣習などがあります。
本記事では、ワインが広まった背景を整理し、中世ヨーロッパで特徴的なワインの飲み方についても紹介します。
なぜヨーロッパ人はワインを好むのか

葡萄を原料とするワインは、世界で最も古くから存在する部類の酒の1つです。
ワインづくりは、葡萄の原産地である、コーカサス周辺からはじまったと考えられています1。ワインの記述が見られる最も古い文献は、『ギルガメシュ叙事詩』第11の書版です(紀元前1800年頃)。そこには賢者ウトナピシュティムが、大洪水に備えて船をつくる人たちに、ご馳走とともにワインや、葡萄のしぼり汁を振舞ったことが書かれています。
ジョージアでは、紀元前6000年頃のものとされる、シュラヴェリス・ゴラという遺跡から、ワインづくりの痕跡が見つかっています。その製法は、メソポタミアから古代エジプトに伝わり、紀元前3000年頃には、地中海東部沿岸地域に伝わっていたとされています。

ワインと神話・宗教の関連は、多くの文化圏で見られるけど、世界最古の叙事詩、『ギルガメシュ叙事詩』にも登場するのは、感慨深いねえ。


古代ギリシア:恵みのワイン
ワイン文化をめぐる出来事として、古代ギリシア時代に重要な点が2点あります。それは、①ワイン(葡萄)に対する敬いと、②ワインに対する高尚なイメージは、この時代には出来あがっていた、ということです。
前提として酒は、どの地域でも古くから、神や祭事と深い結びつきがある飲み物です。なぜなら酒は、それを口にした者に「酩酊感」という、他の食べ物にはない、不思議な感覚をもたらすからです。例えば日本においても、「おみき」の文化があり、上質な酒は神々に奉げるものとされてきました。
よってワインも当然、古くからなにかしらの神聖性をもって人びとに認知されていました。ただし、当時の周辺地域と比較して、古代ギリシアにおいて特徴的だったのは、「ワインそのものを司る神」が存在したという点です。


ワインを司る神はギリシア神話ではディオニュソス、ローマ神話ではバッカスと呼ばれ、同時に豊饒も司ります。つまり古代ギリシア人にとってワインとは、ディオニュソス神と自然の恵みを象徴する、畏敬の対象だったのです。
ディオニュソス神の存在は、古代ギリシア人のワインの飲み方にも関わってきます。具体的には、彼らがワインを飲む際には、水やお湯で割る(薄める)のが一般的でした2。というのも神聖な飲み物であるワインを口にするときには、酩酊することなく、厳粛さをもって飲むのがよしとされていたからです(とはいえ、酔っぱらってしまうこともあったが)。



古代ギリシアには、ワインを海水で割る文化があったことも、よく知られているね。


一方で、ワインに対する高尚なイメージ、すなわち高級な飲み物であるというイメージも、古代ギリシア時代にすでに形成されていました。
古代世界において、ワインは誰でもつくれるものではありませんでした。ワインをつくるには、まずもって葡萄が必要ですが、葡萄を栽培できる範囲は限られていました。加えて、長期保存が効くような(=売り物になるような)、上質なワインをつくるには、高度な技術が必要でした。
そのため、周辺民族からするとワインは、ギリシア人から購入するしかない、貴金属に匹敵するような贅沢品でした。ほとんどの場合、ギリシア商人は、ワインの代価として、文明世界のなかで非常に高い価値をもつもの、すなわち「奴隷」を受け取りました3。買い手がワイン好きの場合には、実子が売り渡されることもしばしばでした。
古代ローマ:文明のワイン
古代ローマ人が、ギリシア人に倣って、葡萄の栽培とワインの醸造に力を入れたことは、それがもつ価値を考えれば当然のことでした。ワインは敬いの対象であるとともに、その希少性から、外交や交易にて彼らを優位に立たせてくれるものでした。


その高度な技術力と支配体制から、大国を築きあげたローマ人は、自分たちの国こそ文明国で、周辺地域を「文明化されていない土地」と認識していました。よって支配地域を広げるたびに、ローマ人はその土地の「文明化」に心血を注ぎます。とくに高官にとっては、自らが任地で気持ちよく過ごすためにも、その地にローマ風の文化を根づかせることは急務でした。
そのときローマ人が、文明化に欠かせないと考えていたのが、葡萄とオリーブの農園をつくることでした4。なぜなら、ローマ人の生活を彩り、生きる喜びをもたらす食卓には、ワインとオリーブが必須だったからです。
ワインを帝国内のどこでも飲めるようにしたい、と考えていたローマ人は、寒冷地においても栽培できるよう、葡萄の品種改良に取り組み続けていました。当時のガリア、つまり現フランスで最も重要なボルドー、パリ、モーゼル川といった地域での葡萄栽培は、4世紀頃には根づいたとされ5、その功績は、ローマ人の研究努力に帰するものが大きいとされます。


長距離輸送には、アンフォラ(上)よりも樽(下)が効率的だった。紀元前63年-西暦14年。
葡萄の栽培については、高官のみならず、ローマ皇帝も大きな関心を持っていました。この時代の貴族にとって、葡萄の栽培と収穫は、狩猟と同様の個人的な楽しみ、つまり趣味の一つでした。例えばユリアヌス帝(在位:361-363年)は、自ら栽培した葡萄を、友人である雄弁術教師に与えたとされています6。
中世:権威のワイン
ローマ帝国が衰退したあと、西ヨーロッパではゲルマン人による王国が乱立します。時代区分的には、この頃から「中世」になると解釈するのが一般的で、それはヨーロッパの支配層が、ローマ人からゲルマン人に代わったことを意味します。
ゲルマン人は、ローマ帝国との長い関わりのなかで、その文化水準が高いことを知っていました。それは間違いなく、ローマ人が大国を築きあげることのできた、主な要因の一つでした。よってまだ小国に過ぎないゲルマン人王国は、ローマから学べる点がたくさんあるはずでした。
そこで彼らは、ローマ文化を尊重しながら統治を進め、その結果、彼らの大部分の文化がローマ化されました。北欧を拠点としていたゲルマン人は、もともと、その地で生産しやすい、蜂蜜酒やビールを飲んでいました。ところがローマ化の過程で、まずは上流階級を中心に、ワインを飲む文化が浸透してきました。
さらには、キリスト教でワインが重要な飲み物だったことも、ワインの浸透を後押ししました。かつて迫害されていたキリスト教は、ローマ帝国の末期には、国の主要な宗教の1つとして認められていました。つまり教会の存在と影響力は、国の統治に不可分なほど大きいものになっていました。そこでゲルマン人も、キリスト教を信仰の核として統治を進め、それに伴い、ワインの地位も向上していきました。
まとめると、ワインは社会的な背景と宗教的な背景を主要因として、中世で権威の高い飲み物になっていきました。
ヨーロッパの古代~中世への社会変化の流れは、以下記事で詳しくまとめています。


ワインとキリスト教
葡萄栽培をつないだ司教たち


古代ローマ時代に、苦心して培われた葡萄畑は、帝国の衰退とゲルマン人の移住という社会混迷のなかで、すべて荒廃に帰す可能性もありました。そうはならずに、畑や栽培技法が次の統治者に継承されていった背景には、ローマ・カトリック教会の司教たちの尽力がありました。
ローマ帝国衰退後、統治者に代わって都市機能を引き継いだのは、ローマ・カトリック教会でした。彼らは各都市に司教座(司教の住居)を置いていたため、帝国が衰退してからも、地域における宗教・経済・行政の中心でありつづけます。中世都市の多くは、こうしたローマ帝国時代からの都市を原型として成立しており、詳しくは以下記事で紹介しています。


混迷時代における、各都市の司教は、ローマの慣習にならって葡萄を植え、農園を開拓しつづけました。というのも、葡萄畑はただの畑ではなく、ローマから受け継いだある種の考え方や感じ方によって、都市そのものの威信を表す、都市の象徴のようなものだったからです7。ゆえに葡萄栽培は、都市を統括する立場にあった司教にとって、町の保護や名誉のために必要なことでした。
加えて葡萄栽培は、司教にとってよい財源の一つになったので、経済的利点からも、続けて損にはなりませんでした。
修道院によるワインの生産


司教が葡萄栽培に力を入れたように、修道士たちもまた、それに力を入れていました。その理由としてここでは、2点に着目します。
第一の理由として、ワインは礼拝に欠かせない神聖な飲み物で、自家生産できるなら、それに越したことはなかったからです。修道院では、祈りと労働を中心に生きるという理念上、世俗から離れた土地で、自給自足生活を送ることが推奨されていました。よってワインを自家生産することは、修道生活の理念に沿ったことでした。
第二の理由として、上質なワインを生産できることは、修道院の強みになったからです。中世の修道院は、宿泊所としての役割もあり、都市の宿屋がまだ発展していない時代には、貴賤を問わないあらゆる人が、旅先での滞在に修道院を頼りました。なかには、その修道院の威光や聖遺物による功徳のために、わざわざ遠回りの旅程を取ってでも、修道院での滞在を選ぶ人もいました8。
そのような状況下では、教皇や王族など、高貴な人の滞在先として、修道院が選ばれることもあります。そうした場合には、修道院は失礼のない歓待をしなければなりませんでした。つまり、文化的な格をもつ飲み物である、ワインで彼らをもてなすことは必須で、そのとき自家製の上質なワインでもてなすことができれば、満足度の高い歓待につながりました。言い換えると、その修道院でしか飲めない、おいしいワインでの歓待は、高貴な人を喜ばせました。
加えて、権力者から自家製ワインを気に入ってもらえれば、見返りとして多額の寄進をもらえる場合もありました。ゆえに、修道院が上質なワインを生産することは、修道院の存続と発展、さらには名誉のために重要なことでした。
キリストの血のシンボル


シモン・ウシャコフ 、1685年。
司教や修道士などの聖職者に、葡萄栽培とワイン生産が好まれた背景には、キリスト教でワインが重要な飲み物だったことも大きいです。ワインは古代より、さまざまな地域で神聖な飲み物とされてきましたが、それはキリスト教でも例外ではありませんでした。
ワインに関する記述は、旧約聖書・新約聖書のなかで繰り返し登場します。なかでもローマ・カトリック教会においては、キリストが最後の晩餐の際に、パンを自らの肉の象徴、ワインを自らの血の象徴として、弟子たちに分け与えたエピソードが重要視されます。
その記述を根底として、中世期のローマ・カトリック教会の礼拝では、パンとワインを出席者に配り、人びとがそれらを口にする儀式がありました。このときのワインは、基本的には赤いワインで、なぜなら「赤」が血を象徴する色だったからです。赤は古来、さまざまな地域で呪術的な性格が与えられてきた色であり、ヨーロッパにおけるその伝統については、以下記事で紹介しています。


ローマ・カトリック教会におけるパンとワインの儀式は、現代まで続いており、「聖体拝領」とも呼ばれます。
ワインと王侯貴族
宴会で欠かせない飲み物


Le Livre des conquêtes et faits d’Alexandre, Paris, musée du Petit-Palais, folio 86 recto、15世紀半ば。
ワインを最も権威ある飲み物だと考えていた、古代ギリシア・ローマ文化を受け継いだ中世においても、ワインは当然、権威ある飲み物でした。すなわち中世では、王侯貴族が口にする飲み物として、最もふさわしいのはワインであると考えられていました。
そのため中世後期に盛んに開催された、王侯貴族の宴会では、必ずワイン、それも主催者の権威を示すために、できるだけ上質なワインがふるまわれました。この頃からすでに、「有名なワイン産地」という概念があり――当時においては「有名な葡萄産地」と同義――例えば、オルレアンからシャンパーニュにいたる「フランス」ものは酸味のある軽い白ワイン、「ギリシア」ものは甘口の赤ワイン、といった認識がされていました9。
こうした、産地によって特徴の異なる上質ワインは、王侯貴族の好みに応じて買いつけられました。例えば、イギリス人は甘い料理にあわせて、甘いワインを好む傾向にあったため、地中海沿岸で生産される、甘口ワインを好んで飲みました。フランス人は酸味のある白ワインを好みましたが、中世末にはそれに加えて、濃厚なブルゴーニュの赤ワインも好むようになりました10。
この時代に多様な上質ワインがあったことは、13世紀はじめにアンリ・ダンドリが書いた詩『ワイン戦争 La Bataille des Vins』からも分かります。これはフランス国王フィリップ・オーギュストが主催する、ワイン試飲会の物語です。国王とともにワインを試飲するのはイギリス人司祭で、彼らはヨーロッパ各地から取り寄せた、70種類以上のワインを比較し、等級を決めていきます。この物語で最終的に優勝したのは、キプロスの甘口ワインでした。
館を飾る葡萄畑
古代ローマ時代に、王や高官が葡萄栽培を楽しんだように、中世ヨーロッパの王侯貴族も、葡萄栽培に関心を持っていました。そのことがよく分かる例として、彼らの葡萄畑はたいてい住まいのすぐ近く、言い換えると、いつも目にすることのできる場所に広がっていました11。
そのようすが分かる有名な図版として、下図の『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』の9月の絵があります。この絵では、城に隣り合うようにして葡萄畑が広がっています。


城を葡萄畑で飾ることは、諸侯の権威付けの一環だった。
『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』より、9月の絵、15世紀。
都市や城館のまわりに葡萄畑が広がっている理由は、その所有者が葡萄のようすに気を配り、風景を楽しむためだけにとどまりません。外からの訪問者に、自らの権威の高さを示すものとして、素晴らしい葡萄畑を見せつけるためでもありました。
これまで見てきた通り、中世社会における、葡萄ひいてはワインに対する権威は、社会的にも、文化的(宗教的)にも、経済的にも高いものでした。つまり、管理の行き届いた葡萄畑を所有していることは、その持ち主の社会的・文化的・経済的な地位の高さを、周りに示すことにつながったと考えられます。このような、高貴な人が、住まいの周りを葡萄畑で飾る趣味は、近世に入ってからもしばらく続きました。
ワインと商売
なぜワインは広く流通したのか


中世ヨーロッパにおけるワインの需要は、ヨーロッパ全体で常に高い状態にありました。
なぜなら、これまで見てきた通り、ワインは宗教上の必要のみならず、高貴な人びとにふさわしい飲み物であると考えられていたからです。じっさい上質なワインは、当時の酒としては最も美味な部類に入り、宗教や権威誇示の目的を抜きにしても、経済的に余裕がある人なら――節制が美徳とされる聖職者でさえも――手に入れたい飲み物でした。
ワインが伝来した経路を見ても分かる通り、葡萄の栽培には温暖な気候が適しています。よって中世初期のワインは、主に南ヨーロッパで生産され、その周辺で消費されていました。ところが、ワインの文化的な格が高まるにつれ、葡萄を栽培できない北ヨーロッパの上流階級からの、ワイン需要も高まっていきます。
そうなるとワインは、生産地周辺で消費されるのみならず、葡萄栽培ができない地へと、輸出されるようにもなっていきます。とくに評判のよい上質なワインについては、高くついても購入したいと思う上流階級(≒富裕層)が各地にいたため、そのような需要に応じた、ワインの流通網が整備されていくことになりました。
まとめると、ワインがヨーロッパで広く流通した背景には、葡萄を生産できな地域からの需要や、より美味なワインを飲みたいという、ヨーロッパ各地の富裕層からの需要がありました。
ワイン交易


Simon Bening , Labors of the Months: October, from a Flemish Book of Hours (Bruges)
商品として重量がある上に、嵩張るワインの交易には、河川を使うことが一般的でした12。というのも、河川を使う場合、水の浮力で楽に・早く・大量に運べたからです。加えて陸路を使うよりも、しばしば安全でした。なぜ安全だったのかは、以下記事で詳しく紹介しています。中世ヨーロッパでは、河川の利用場面が現代よりも多く、それは多くの都市が川沿いに成立したことからも裏付けられています。


ワイン輸送に河川を使うことは、古代~中世期まで、最も一般的に取られた方法でした。ところが中世末にかけて、100トンを超えるような大型船が普及していくと、大型船の航行が可能な、海路を使った輸送の比重が大きくなっていきました13。
中世末にかけて、海路での交易が主流になる流れは、北海に面したブリュージュ(現ベルギーの都市)が、ヨーロッパ中の商人が集まる都市として、繁栄したことからも裏づけられています。中世ヨーロッパの主な商業拠点の遷移については、以下記事で紹介しています。


ワインはどう飲まれていたか
庶民による日常の飲み方
本記事では主に、王侯貴族に好まれた上質なワインについて見てきました。しかしワインの質にはピンからキリまであり、葡萄生産可能な地域において、庶民が自家製ワインをつくって飲むことは、ごく一般的なことでした。
簡易的な醸造方法でつくられた、このような自家製ワインは、アルコール含有量が少なく、すぐに劣化してしまいました。よってどこかに売るということはなく、自家消費されていました。
古代ギリシア人がワインを水で割ったように、中世人もそのようにして飲むことをしばしば好みました。庶民が飲んでいたワインは、もともとアルコール含有量が少なかったため、水で割るとジュースのようになり、酒というより、喉の渇きをいやすための飲み物に近かったと考えられます。
ワインの仲間としては、葡萄のしぼりかすに水を加えて発酵させた、「ピケット」も一般的でした。これは高貴な人は飲まない、奉公人の飲み物で、貧しい学生も飲んでいたことから、「質の劣った酒」として認知されていたと考えられます。
白ワイン・スパイス
「中世のワイン」というと、宗教的な背景からも、赤ワインが主流なイメージがあると思います。しかし中世のワインには赤だけでなく白もありました。宴会のパートで紹介した通り、当時のフランスものといえば白ワインで、裏を返せば、名産として普及するくらい、白ワインの需要も高いものでした。
じつは冒頭で紹介した、『ギルガメシュ叙事詩』のワインをふるまう場面では、白ワインも登場します。このことからも、赤や白といった区別は関係なしに、ワインの歴史は長いことが分かります。
中世後期には、ワインに蜂蜜やスパイスを入れて飲むことも主流でした。こうしたワインは、食事と一緒に飲むわけではなく、食前酒や食後酒として飲まれるのが一般的でした。
この時期のスパイスワインとして、最も有名なものが「イポクラテス」です。地域によって使われる材料はさまざまですが、赤ワインに砂糖とスパイスの粉末を入れたものが主流で、そのスパイスはショウガ、シナモン、コショウなどでした14。
おわりに
今回は、中世ヨーロッパにおけるワイン文化をたどりました。
中世のワイン文化は、古代ギリシア・ローマ時代からの慣習を大きく受け継いでいます。とくに、中世のワインに神聖性や権威性が見出されていた背景には、ワインが「恵み」や「文明」の象徴と捉えられていたことが、大きく影響しています。
中世初期に、古代からのワインづくりの伝統をつないだのは聖職者たちでした。ワインがキリストの血を象徴する飲み物だったこともあり、ワインと聖職者との関係は、中世を通じて深いものでした。
ローマ風の文化を受け継いだ、中世の王侯貴族にとって、ワインは権威の飲み物でした。それは宴会で欠かせない飲み物であり、美しい葡萄畑を持っていることは、自らの権威の高さを示すことにつながりました。
宗教的な必要性と、権力者からの需要があったことから、中世を通して、ワインの交易は活発でした。輸送には主に河川が使われましたが、船の大型化に伴い、徐々に海路に移行していきます。
中世におけるワインの飲み方は、現代より多様でした。水で割ったり、スパイスを入れたりする飲み方も一般的でした。
ワインは、喉を潤すためだけの酒ではありませんでした。祈りを支え、権威を示し、商人の手で運ばれ、人びとの食卓にも置かれる、中世ヨーロッパの文化に深く結びついた飲み物だったのです。
中世ヨーロッパでよく飲まれていた、ワイン以外の酒については、以下記事で紹介しています。


酒を含めた、中世ヨーロッパの食生活全般を知りたい方は、入門として以下の本がおすすめです。


参考文献
- 野村啓介『ヨーロッパワイン文化史 名醸地フランスの歴史を中心に』東北大学出版会、2019年、43頁、39頁。 ↩︎
- ジャン=ロベール・ピット『ワインの世界史: 海を渡ったワインの秘密』幸田礼雅訳、原書房、2012年、70頁。 ↩︎
- ロジェ・ディオン『フランスワイン文化史全書 ぶどう畑とワインの歴史』国書刊行会、福田育弘・三宅京子・小倉博行訳、2001年、90頁。 ↩︎
- 前掲書、ディオン、122頁。 ↩︎
- 前掲書、ディオン、117頁。 ↩︎
- 前掲書、ディオン、161頁。 ↩︎
- 前掲書、ディオン、165頁。 ↩︎
- 前掲書、ディオン、170頁。 ↩︎
- リュノ・ロリウー『中世ヨーロッパ 食の生活史』吉田春美訳、原書房、2003年、46-47頁。 ↩︎
- 同書、47-48頁。 ↩︎
- 前掲書、ディオン、177-178頁。 ↩︎
- 西洋中世学会『西洋中世文化事典』「ワインとビール」の項、丸善出版、2024年、208頁。 ↩︎
- 前掲書、野村啓介、72頁。 ↩︎
- ハンネレ・クレメッティラー『図説 食材と調理からたどる 中世ヨーロッパの食生活』龍和子訳、2023年、原書房、162頁。 ↩︎


