「中世ヨーロッパの食事」というと、パンと肉ばかりの、質素で単調な食卓を思い浮かべるかもしれません。しかし実際には、その食事はもっと多様で、工夫に満ちたものでした。
この記事では、「イメージ」と「実際の姿」を並べながら、中世ヨーロッパの食文化の基本を整理していきます。
※本記事でターゲットとする時代は、中世後期(1300年~1500年頃)です。この間は、研究者の間でも、食に関する史料が豊富なことで知られています。
中世ヨーロッパでは何を食べていたのか
中世の主食はパンだけではない

中世ヨーロッパの人びとが、最も多く口にしていた食べ物は、穀物だったと考えられています。
具体的には、一日に消費されていたパンの量は、ひとり当たり400-500g以上が一般的で、1kgを越えることも、たびたびありました1。つまり、一度の食事で摂取するカロリーのうち、穀物の占める割合は現代よりずっと高いものでした。

多忙な現代人にも、中世人の気持ちが分かるんじゃないかな。短時間で手っ取り早くエネルギーを摂取するとなると、コンビニのおにぎりやパンだけで食事を済ませちゃうよね。
中世ヨーロッパで主流だった主食は、高温の窯で焼いた発酵パンです。発酵パンは、高温で焼けばドーム型の膨らんだ形に、そこまで温度を高くできない場合には、膨らみが少ない平たい形になります。中世で主流だったパンは前者の、よく膨らんだパンでした。


ところが、口にできる主食の種類は、地域によってさまざまでした。具体的には、その地で栽培しやすい穀物や、共同パン窯へのアクセスのしやすさ、発酵させる時間があるか等で、口にできる主食が左右されました。
例えば、ヨーロッパ北部や北西部では、蕎麦からつくられたブイイ(粥/オートミール)も、パンと同じくらい主流な主食でした2。美食の観点でも、パン以外の主食が研究され、現代のピザやパスタの原型になるような料理がありました。中世期に存在した主食には、以下のようなものがあります。
| 名称 | 詳細 |
|---|---|
| ブイイ | 粥/オートミール |
| トゥルト | 無発酵の平パン。旅人が野営地にて、粉から発酵なしですぐに作れたという。おそらく蕎麦のガレットか? |
| ピタ | ピザに近い平パン。近東やバルカン半島で今も一般的 |
| ラガナ | 古代ローマ時代から存在する、薄い帯状の生パスタ。ラザニアのように、生地と刻んだ肉・野菜を交互の重ねて、層にしてして食べる |
| トリア | マカロニ状の乾燥パスタ。当時は高級食材 |
| パテ | パイ皮包みの料理。15世紀には「パテ職人」が存在し、それが現代の菓子職人「パティシエ」という名称につながる |
まとめると、中世ヨーロッパの主食で主流だったのは、よく膨らんだ発酵パンでしたが、場所や状況によって、他にもさまざまな穀物料理が食べられていました。
なぜ肉のみならず、魚も食べられたのか


中世料理のメインというと、「肉」のイメージがあると思います。
実際に中世人は、味の点からも、それが強いエネルギー源となる点からも、肉を好んでいました。それは肉の消費量にも明確に表れており、例えば14-15世紀のドイツの都市にて、「肉食日」一日つき消費されていた肉の量は、ひとり当たり400-500gでした3。
ところが、中世人は肉のみならず、魚も高頻度で食べていました。なぜなら、キリスト教で定められた精進の期間が、どの地域でも年間140-160日ほどあったからです4。これらの期間には、食事を節制すること、具体的には肉を食べないことが定められていました。よって人びとは、精進期間には、もっぱら魚を食べていました。
食事の節制が定められた期間は、四句節、四季の祭日、祝日の前日、六番目の週日(金曜日)などです。地域によっては金曜に加えて、土曜と水曜が定められていました。言い換えると、多い地域では週の半分ほど、一年のうち半分以上を、精進にあてていたことになります。
食事の節制には段階があり、中世で一般的だった節制の仕方は、以下の通りです5。
| 節制の度合い | 該当する精進期間 | 禁止された食べ物 |
|---|---|---|
| 最も軽い | 普段の週の精進日 | 肉のみ |
| 最も厳しい | 四句節 | 肉と、肉を持つ動物から作られるものすべて(脂、ミルク、乳製品、卵など) |
中世ヨーロッパの人びとにとって「魚」は、精進期間を象徴する食べ物でした。そして、精進期間が一年の1/3にも及んだことから、中世の食文化の1つを形づくるほど、魚は重要な食材になっていきました。
中世人は野菜を食べていなかったのか


中世ヨーロッパの食事は、パンと肉だけではありません。当然ながら、野菜も重要な栄養源でした。
中世の食文化を語る上で、非常に重要な野菜に「豆」があります。豆は、パンのように腹を満たし、肉のように力が湧いてくる食材ーーのみならず、両者に含まれない、ビタミン等の栄養素が豊富な、バランスのとれた万能食材です。
よって豆は、肉を節制したい聖職者や、手軽にエネルギーを得たい農民にとっての、お決まりの食べ物でした。中世期によく食べられていた豆は、ソラ豆、エンドウ豆、レンズ豆などでした6。
加えて、季節に応じた野菜も、中世の食卓に欠かせないものでした。中世人は、野菜を生で食べることはめったになく、たいていは煮込み料理にして食べました。この「ポレ」とも呼ばれる料理は、鍋にさまざまな野菜を入れて、じっくり煮込んだスープを指し、今でいうポトフのイメージに近いです。
中世期に食べられていた野菜は、アメリカ大陸由来のものを除けば、現代とほぼ変わりません。具体例を挙げると、年間を通してよく食べられた野菜は玉ねぎ、カブ、ニンジンで、冬によく食べられた野菜はキャベツやほうれん草、夏によく食べられたのはキュウリ、カボチャ、各種ハーブなどでした。
野菜は基本的に、誰もが自給する食材でした。
野菜というと、農村、あるいは都市の郊外耕作地で育てられるイメージが強いかもしれません。しかし都市の市壁内には、ちょっとした野菜を作るための菜園が、いたるところにありました。そのため、店で調達することが主流なパンや肉(魚)と違って、市民も野菜を自給することができました。庭をかねたこのような菜園については、以下記事で紹介しています。


中世の食事はどのようなものだったのか
中世の味つけはエキゾチック


中世料理というと、とにかく「塩」を大量に使う、シンプルな味つけのイメージがあると思います。
たしかに塩は、冷凍庫のない中世においては、肉や魚を長期保存するために、欠かせないものでした。よって当時は塩をつくるための塩田がヨーロッパ各地にあり、ヴェネツィアが塩の製造と販売で巨額の富を築いたことは、よく知られています7。
しかし塩は、保存のために必要な「添加物」のようなものであって、味つけの主体ではありません。中世料理の味つけの主体は、多種多様なスパイスをブレンドした、地域によって好みの異なるソースでした。
当時の社会では、キリスト教上の観念(エデンの園、プレスタ―ジョンの王国など)をいち背景として、「東方」に対する憧れが強まっていました。言い換えると、東方からもたらされたスパイスを食べることが、よきキリスト教徒であることや、社会的権威の表明につながりました。よって中世料理の味つけは、国産調味料に回帰した、現代のヨーロッパ料理よりも、ずっとエキゾチックだったと考えられています8。
中世料理の味の基本は、辛味、甘味、酸味の3つです。そのうち辛味の大半と、蜂蜜・砂糖以外の甘味は、スパイスによって表現されていました。具体的には、以下のようなスパイスや食材がよく使われました。
| 味の分類 | スパイスや食材 |
|---|---|
| 辛味 | コショウ、クローブ、ショウガ、マスタード |
| 甘味 | シナモン、サフラン、ドライフルーツ、蜂蜜、砂糖 ※砂糖は15世紀頃から。それまでは蜂蜜が砂糖代わり |
| 酸味 | 酢、弱いワイン、レモン |
中世人にソースの味つけが好まれていたことは、都市でできあいソースが販売されていたことからも分かります。これは現代でいうケチャップやマヨネーズのもので、地域によって味が違いました。
中世の料理はカラフル


中世料理というと、肉の茶色が中心といった、地味なイメージがあると思います。
もちろん、庶民の日常の食事に関しては、そうだった可能性は高いです。しかしそれは、現代人の私たちが、普段食べる食事について、彩りよりも栄養を重視するのと同じです。中世人も現代人も、毎日が毎日、お正月やクリスマスのような、趣向を凝らした、きらびやかなメニューというわけにはいきません。
じつは、中世ヨーロッパの人びとが好んだのは、色鮮やかで彩り豊かな料理でした。なぜなら、中世人の美的感覚では、「鮮やか」であることや、「カラフル」であることは、「美しい」ことと同義だからです。その思想の根底には、宗教的な背景があり、詳しくは以下記事で解説しています。


当時、料理の彩りを豊かにするために、便利だった食材には、以下のようなものがありました。
- 【赤】苺やさくらんぼのピュレ
- 【緑】パセリ
- 【黄】サフラン
彩りを豊かにするためには、食材そのものの色だけでなく、着色料も使われました。例えば、「アルカンナ」と呼ばれるひまわりの根は、紅色染料が取れることで知られていました。
旅人や独身者のための「できあい料理」


中世ヨーロッパにおいて、ごはんにありつくには、手作りするしかなかったのでしょうか。じつは、そうとも限りませんでした。
中世期にも、お金を払えばごはんにありつける、レストランのような場所が存在しました。それは主に、居酒屋か宿屋でした。都市の場合は、人口が多いうえに、旅の訪問者も多かったため、それらの数は数十軒にものぼりました。とはいえ農村にも、最低一軒は居酒屋が存在したと思われ、その居酒屋が宿屋を兼ねていました。
居酒屋や宿屋の様子については、以下記事で詳しく紹介しています。とりわけ村の居酒屋は、交流や買い物の場としても重要でした。


農村と異なり、職人や学生などの、独身者の滞在が多い都市においては、できあい料理が提供される屋台や、立ち売り屋もありました。具体的には、パテ、揚げパイ、タルト、串焼きなどの手軽なものから、肉や魚のローストなどの豪華なものまで買うことができました。
壁に囲まれ、居住空間が限られた中世都市では、台所(≒火を熾せる囲炉裏)のない物件も多くありました。そのような部屋は、独身の労働者や、都市に住んで間もない労働者に利用されました9。つまり、彼らが食事をするとしたら、家以外にならざるをえず、外食産業はそのような需要の一つに応じて発展していきました。
外食はまた、恋人たちのデートや、子供のおやつ、大学の歓迎会などにも利用されていました。
なぜその食文化だったのか
なぜ中世の食事は一日2回だったのか──大食は「罪」


中世ヨーロッパの食事の回数は、一日2回が基本でした。すなわち、正午(六時課)に取る正式な食事(※)と、15時頃(九時課)に取る夕食です10。
※ヨーロッパにおける正餐(ディナー)は、今でこそ夜だが、20世紀になるまでは昼だった。その理由については、西洋における光の文化史を参照。
現代人からすると少なく思える、一日二食の背景には、大食は罪であるという、宗教上の解釈があります。
例えば、『パリの家長 Le Ménagier de Paris』(14世紀末)を書いた、中世ブルジョワ階級の男性は、当時有名だった言い回しを引用しながら、食べ物の取りすぎを非難しています。「一日に一度食べるのは天使の生活、二度食べるのは人間の生活。しかし一日に三度か四度、あるいはそれ以上食べるのは動物の生活であって、人間の生活ではない。」11
大食はラテン語で「グラ(Gula)」と呼ばれ、七つの大罪の一つでした。とりわけ、肉をたくさん食べることは、人を興奮させ、淫欲をかきたてると考えられていたため、肉の食べ過ぎは「グラ」の最たるしるしでした。その考え方は、精進期間に肉を食べない慣習とつながっています。
中世ヨーロッパでは、一日二食が推奨されてはいたものの、この食事サイクルのモデルになっていたのは、「肉体労働をしない人」、すなわち貴族などでした。ゆえに生活上の必要があれば、三食取ることも許容されていました。例えば、修道院に暮らす者のうちでも、栄養が必要な子供や老人、きつい農作業を行う助修士などは、午前中に軽食を取ることができました12。
当然ながら、重労働の多い、農村や都市においては、「朝食」を取る者はもっと多くいました。とくに力が必要な仕事に従事している者は、作業効率のために、三食のみならず、間食を何度かするのも当然で、それは必要に迫られたことなので問題ありませんでした。
貴族と農民の食事の違い
「中世ヨーロッパの食事」とひとことで言っても、身分による食文化の違いは、当然あります。
基本的には、金持ちほど使える食材、調理道具、調理環境などに恵まれ、趣向を凝らした、バリエーション豊かな食事をとることができました。以下に、貴族と庶民(≒農民)の代表的な食事の差異を紹介します。
まず、食材についてです。貴族と庶民では、中世の味つけの基本だったスパイスについて、使用できる種類が大きく異なりました。具体的には、貴族は「味つけ」の章で紹介したような、スパイスや食材を日常的に使うことができました。しかし庶民は、比較的安価で、入手しやすいスパイスしか使用できませんでした。具体的には、庶民にポピュラーなスパイスに、コショウがありました。
東方から輸入された「香辛料」の代表格といえば、コショウです。よって当時のコショウに、高級で手が届かないイメージを持っている人も多いでしょう。ところが実際には、コショウはいち早く大衆化され、庶民の間で最もよく使われたスパイスの一つでした。
例えば、13世紀のニュルンベルクの施療院では、コショウはスパイスのなかで唯一、貧民の食事に使われています13。つまり、コショウが中世における香辛料の代表格になったのは、庶民を含めて需要が大きく、たくさん必要とされたからでした。
とはいえコショウは、生きていくための、必需品というわけではありません。よってスパイスを入手できない、貧しい庶民の間では、スパイスに代わる味つけとして、ニンニクやタマネギが使われました。よって、ニンニクやタマネギは「農民」の代表的な食べ物として、中世期の文学で登場します14。


次に、調理道具と環境についてです。焼き串や焼き網の有無など、細かい違いは色々とありますが、貴族と庶民の調理道具・環境における最大の違いは、個人所有の窯があるかないかだと考えます。
高温で焼きあげる窯が、各家庭にあることは、火事のリスクを高める原因となるので、多くの都市では個人窯を持つことが制限されました。そもそも費用面からしても、窯の設置やメンテナンスの費用が高いために、庶民が個人窯を持つことは困難でした。
よって、高温で焼きあげる必要がある料理――肉の丸焼きやパイなど――は、庶民は食べられませんでした。唯一、よく膨らんだパンだけは食べれましたが、それはパン焼きのみが許可されている、共同窯があったからでした。
庶民の調理場は、居間の中央にある囲炉裏でした。彼らが主に使っていたのは、サイズのことなる金属製の鍋で、大きな鍋では、先に紹介したような野菜のポレが作られました。そしておそらく、常に囲炉裏にかけられたまま、温めなおして、一日に何度も食べられていました15。じつは「ポレ(仏)」という名称そのものが、「ポ」=鍋(pot)に由来しています。
居間の中央にある囲炉裏は、明かりも兼ねたものでした。詳しくは以下記事で紹介しています。


おわりに
今回は、中世ヨーロッパにおける食文化の基本を見てきました。
中世の食事は、パンや肉だけの単調なものではありませんでした。麦粥や魚、野菜が日常的に食べられ、スパイスの効いた料理や、彩りを意識した食卓が広がっていました。さらに都市では、すでに「できあい料理」と呼べるものも存在しました。
その一方で、食事の回数は一日二回が基本でした。大食は罪――そうしたキリスト教の価値観や、身分による調理環境の違いが、食文化のあり方を大きくかたちづくっていました。
まとめると、中世ヨーロッパの食事は、質素で単調なものではなく、多様で工夫に満ちたものでした。そうした食卓のあり方は、当時の人びとの価値観や暮らしを、今に伝えてくれます。
この記事では全体像を整理しましたが、例えばパンやワイン、スパイスの使い方などは、それぞれに興味深い背景があります。今後、それぞれのテーマについても詳しく紹介していく予定です。
この時代の食文化は、人びとの暮らしそのものと深く結びついていました。食べることは、生きることの一部であり、仕事や時間の感覚とも切り離されていなかったのです。そうした「暮らしと仕事が分かれていない感覚」については、こちらの記事でも触れています。


参考文献
- ブリュノ・ロリウー『中世ヨーロッパ 食の生活史』吉田春美訳、原書房、2003年、56頁。 ↩︎
- 同書、62-63頁。 ↩︎
- 同書、80頁。 ↩︎
- 西洋中世学会『西洋中世文化事典』丸善出版、2024年、「食のリズム」山辺規子執筆、262頁。 ↩︎
- 前掲書、ロリウー、123頁。 ↩︎
- ハンネレ・クレメッティラー『図説 食材と調理からたどる 中世ヨーロッパの食生活』龍和子訳、2023年、原書房、66頁。 ↩︎
- 前掲書、ロリウー、91-92頁。 ↩︎
- 前掲書、ロリウー、18頁。 ↩︎
- 前掲書、ロリウー、183頁。 ↩︎
- 前掲書、西洋中世学会、「食のリズム」山辺規子執筆、263頁。 ↩︎
- 前掲書、ロリウー、141頁。 ↩︎
- 前掲書、ロリウー、188頁。 ↩︎
- 前掲書、ロリウー、39頁。 ↩︎
- 前掲書、ロリウー、178頁。 ↩︎
- 前掲書、ロリウー、180頁。 ↩︎

