西洋絵画の楽しみ方を解説する連載、第2回です(全4回)。本連載では、絵を観ただけで、その絵が描かれた時代をおおまかに判別するヒントを紹介しています。時代背景を知ると、絵の見方のバリエーションが広がり、絵画鑑賞が楽しくなります。
今回は、中世期から画風が劇的に変貌した、ルネサンス期(15-16世紀)の絵画の特徴を紹介します。
前回のふりかえり









前回の記事では、中世期(5-15世紀)の絵画の特徴と楽しみ方を紹介しました。中世期の絵画の特徴として、最も押さえておきたい点は、その多くがキリスト教に関係する絵である点でした。
そのほかの特徴も含めて、以下4点を挙げました。それぞれの点について、簡単にふりかえりをしていきます。
- キリスト教に関係する絵がほとんど
- 人物画の主体は貴族
- カラフル
- キャンバスは存在しない
あらゆる芸術は元来、神々に捧げるために存在し、何らかの信仰と結びついて発展しました。よって、キリスト教信仰が人びとの生活に根差していた中世期には、その神性を賛美する絵画がたくさんつくられました。そのような絵画は、祈りを捧げる場所である聖堂や、教えを後世に受け継いでいくために書かれた写本につどっていました。
キリスト教絵画の多くは、中世期の富裕層=貴族たちの資金提供によって制作されました。当時の絵画制作には莫大な費用がかかったため、絵画を制作できるのは、基本的に貴族のみでした。よって、人物画に登場するのは、資金を提供した本人=貴族ばかりになります。
キリスト教においては、光が神の象徴とされます。当時の絵がカラフルなのは、絵そのものが光輝いている=見る人が神性を感じられるようにするためでした。絵をカラフルにする傾向は、写本の挿絵に顕著に表れています。
中世期の絵画の多くは、宗教的建造物に集まっていました。よって絵のスタイルとしては、壁に直接描く「壁画」が主流でした。私たちが美術館でよく目にする、キャンバス(帆布)自体は中世期末期には発明されていましたが、それを支持体とする絵が普及するのは、近世期以降です。
連載2回目の今回は、ルネサンス期の絵画の特徴を紹介します。
※本記事ではおまけ話を多々はさんでいますが、読まなくても本筋は理解できるようになっているので、急いでいる方は飛ばしていただいても問題ありません。キャプションボックスに囲われている文章がおまけ話です。
ルネサンス期の絵画:15-16世紀











ルネサンスとは、古代ギリシア・ローマの文化を模範に、神ではなく人間中心的な世界観への転換を模索した、芸術・思想上の動きのことです。その文化運動は14世紀にイタリアではじまり、16世紀にかけてヨーロッパ各地に広まっていきました。この運動が活発だった14-16世紀を、「ルネサンス期」と呼ぶことがあります。
ルネサンス期の基本的な思想は、ヒューマニズム(人文主義)という、キリスト教的な禁欲主義から脱して、人間のありのままの姿を肯定するものでした。この立場にたって活躍した、芸術家も含めた知識人を、ヒューマニスト(人文主義者)と呼びます。
私は本連載にて、中世期の時代区分を5-15世紀、近世期の時代区分を15-18世紀としています。その前提において、ルネサンスは中世末期からはじまり、近世初期まで盛んだった運動です。しかし初学者の方には分かりにくいので、ルネサンスは近世期のはじめに盛んだった文化運動と覚えればよいと思います。本記事でも、ルネサンス期を14-16世紀ではなく、近世の時代区分になる15-16世紀とします。

分かりにくくてごめんね~!
ルネサンス期の絵画の特徴として、一番に押さえておきたい点は、「異教」の神々を描いた絵が社会で許容された点です。
冒頭で記載した通り、中世期には、絵画といえば、まずもってキリスト教信仰のために製作されました。なぜなら、自分が幸福な生活を送るために(あるいは幸福な死後のために)最重要な宗教以外に、絵画制作コストをさきたいと考える人や、経済的な余裕がある人はほぼいなかったからです。
ところがルネサンス期になると、当時のキリスト教とは真逆の概念にあたる、「異教」の神々の絵が製作されるようになりました。言い換えると、そのような絵の需要が社会的に高まったということになります。
当時において、絵を描く行為は、画家の独力でできるものではありませんでした。中世期編でも説明した通り、科学技術が発展していない時代の絵画制作には、莫大な費用がかかります。よって、画家が絵を描くためは基本的に、資金援助をしてくれるパトロン(※)が必要でした。そのため、絵の題材はパトロンの好みに大きく左右され、異教の神々を描いた絵が許容された背景には、パトロンを含めた利害関係者(ステークホルダー)が、そのような題材を好んだからともいえます。



パトロンとは、芸術家の活動を資金面や人脈面などで支えてくれる人のことだよ。近世以前にもそのような人は存在したけれど、画家の母数が増えるルネサンス期から、パトロンの存在が特に重要になっていくんだ。
なお、この時期のパトロンは貴族に限らず、商売で成功して金持ちになった庶民も多いよ。ルネサンス期には、パトロンの母数が増えたから、才能のある画家の発掘と育成が進んだんだね。
中世ヨーロッパの人たちは、キリスト教という同じ宗教を信仰する人同士で、仲間意識を持っていました。それは現代でいう祖国愛と似ています。
彼らは世の中の人を、ざっくり「キリスト教徒」か「異教徒」の2つで分類し、異教徒については、神に従っていないことから「悪魔の手先」だと考えていました。
もちろん、異教徒には異教徒の「神」が存在します。しかし当時の人は、「自分たちの神によって世界がつくられた」と信じていたので、それ以外の神が存在するなど、想像もできませんでした。
現代人と同じレベルでの「人によって信仰する神は異なる」という思考は、彼らの精神的土壌や世界観を根本からひっくり返すことになります。よって多くの人にとって受け入れ難く、その考えが浸透していくのは、中世以降、何百年もかかりました。この精神状態は、天動説から地動説への宇宙観の移行に、何百年もかかったことにも表れています。
中世人の宗教観について詳しくは、以下の記事を参照ください。


繰り返すと、異教の神々を描いた絵が社会で許容された点は、中世期からルネサンス期への最も大きな絵画の変化といえます。そのほかの特徴も含めた、中世期の絵画の特徴を、以下に列挙します。次の章から、順番に説明していきます。
- 「異教」を描いた絵が許容される
- 写実性に重きが置かれる
- 商人の肖像画が誕生
- 農民を題材にした絵が誕生
- テンペラ画や油彩が普及
特徴① 「異教」を描いた絵が許容される




ルネサンス期の絵画の最たる特徴が、「異教」を描いた絵が許容された点です。
ルネサンスは、古代ギリシア・ローマの文化を模範とした文化運動でした。具体的にいうと、当時の人びとは、自分たちが住む地域(ヨーロッパ)の、古代期における文化の美点を再認識し、それに対し大きな憧れをもつようになっていました。その文化を踏襲しつつ、より高次元の文化をつくっていこうとしたのが、ルネサンスです。
ルネサンス期には、「異教」を描いた絵が許容されました。この場合の「異教」は、何でもよいわけではなく、古代ギリシア・ローマの神々に限定されていました。なぜなら当時の人びとは、自分たちの根底にある文化として、古代ギリシア・ローマ文化を模範としていたからです。
繰り返すと「異教」といっても、当時の社会で許されたのは古代期の「異教」のみでした。言い換えると、ルネサンス期の人びとは、中世期から引き続き、キリスト教が世界で唯一存在すべき宗教であると考え、キリスト教以外の信仰を認めませんでした。とはいえ、人びとがキリスト教ではない神話に関心を持ちはじめ、それを絵で表現できるようになった点は、あまりにも大きな中世期からの変化でした。
ルネサンス期に古代ギリシア・ローマの神々を絵に描いた、最も有名な画家はボッティチェッリです。彼はフィレンツェ(現イタリアの都市)生まれで、その都市の大富豪の支援を受けて、画家として生計を立てました。上に挙げた2枚の絵は、現代においても、フィレンツェにあるウフィツィ美術館のいちばんの目玉として、たいへん有名です。
ボッティチェリといえば、これらの絵画の印象が強い方が多いと思うので、別の絵画も紹介しておきます。ボッティチェリは「異教」の絵画のみならず、キリスト教絵画もたくさん残しました。











sousouの推し画家なので、たくさん紹介してしまった…!
ボッティチェリのパトロン(支援者)は、メディチ家という、大商人の一族です。メディチ家については、商人に関する章で後述します。
高校世界史を学んでいると、ルネサンス期に突然、人びとが古代への憧れを抱いたような印象を受けるでしょう。しかし古代への憧れーーつまりローマ人の高度で洗練された文化を真似しようとする姿勢ーーは、中世の初期から存在しました。そして、ローマ人の文化はギリシア人の文化影響なしには語れません。
前提として、西洋の古代期と中世期では、支配者層にあたる民族が異なります。古代の末期には、ローマ帝国におけるラテン人がヨーロッパの覇権を握っていましたが、ゲルマン人の大移動によりはじまった中世期には、ゲルマン人に覇権が移りました。
ヨーロッパのはるか北からやってきたゲルマン人は、ローマ人(ラテン人)の高度で洗練された文化に憧れを抱いてました。その結果、彼らの大部分の文化がローマ化されました。その傾向はゲルマン人の服飾の変化にも表れており、以下の記事で詳しく紹介しています。


この時代に古典文化の再生が流行した背景には、以下をはじめとするさまざまな事象があります。
- 都市の発展と財産をもつ庶民(商人)の台頭
- イスラーム文化との接触
- ビザンツ帝国(※)の滅亡による古典学者の亡命
これらに加えて、「中世初期のローマ(ギリシア)文化への憧れが、ルネサンス期に改めて再燃した」と捉えると、ルネサンスへの理解がまた一歩ふかまると思います。
※ビザンツ帝国は、ローマ帝国が東西に分裂してできた東側の国。よってローマ時代から受け継いできた文化がたくさんある。ビザンツ帝国は1453年まで存続するが、西ローマ帝国はゲルマン人の侵攻によって、早々に滅亡してしまう(476年)。
古代ギリシア・ローマの文化は、現代にいたるまでヨーロッパ人のお手本とルーツになるほどで、その文化水準の高さに驚くばかりです。



ヨーロッパ人の古代ギリシア・ローマに対する憧れは、文明崩壊を経験した世界が、過去の文明の水準を再び取り戻そうと奮闘するのに似ているな、とsousouはよく思うよ。
実際、古代期の建造物のなかには、現代技術をもってしても、どのように作られたのか謎のものがたくさんあるから、ローマ帝国の衰退と滅亡は、西洋におけるちょっとした文明の崩壊だったのかもね。
特徴② 写実性に重きが置かれる










ルネサンス期の絵画の特徴・2つ目は、絵の写実性に重きが置かれた点です。
古代ギリシア・ローマ時代に製作された芸術作品を見ると分かる通り、古典時代には、作品の写実性に重きが置かれていました。例えば、以下のラオコーン像を見ると、筋肉の動きや、蛇のからまり、布のひだ、人物の表情、髪の一本一本までが、現代人が顔負けするほど、写実的につくられています。


ルネサンス期には、このような古典時代の芸術を模倣として、絵の写実性が重視されました。
例えば、バチカンのシスティーナ礼拝堂における《最後の審判》の壁画を描いたことで有名な、ミケランジェロは、筋肉の写実性に重きを置いたことで知られています。具体的には、ミケランジェロが描いた人物は、女性(例えばイヴに注目)も含めて、だれしもが筋肉隆々です。とくに、世界各地のキリストの肖像のなかでも、《最後の審判》に描かれているほど体躯のよいキリストは、珍しいとされています。
一説によると、ミケランジェロは上図のラオコーン像の発掘に立ち会ったことで、その筋肉描写に大きく影響を受けました。ミケランジェロはお得意の筋肉表現から、画家というよりは彫刻家としての活躍が目覚ましく、おそらく誰もが写真で一度は見たことがある、ピエタ(※)やダヴィデ像の製作者でもあります。




※「ピエタ」とは聖母子像のテーマの一種のこと。磔刑にされたイエス・キリストの亡骸を腕に抱く、聖母マリアをモチーフとしている。世界中のピエタ像のなかでも、ミケランジェロ作の《サン・ピエトロのピエタ》がおそらく最も有名。


ヤン・ファン・エイクも、その写実性でルネサンス期を代表する画家です。例えば、《受胎告知》の細部を高解像度版で見ると分かる通り、衣服のひだ、布地や宝玉の質感などが、驚くほど写実的に描かれています。日本のメディアで取り上げられることがほぼないので、日本人からの知名度は低いですが、緻密で素晴らしい絵をたくさん残しているため、ぜひ覚えておきたい画家です。
ヤン・ファン・エイクは、中世編の記事で紹介した装飾写本、『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』の挿絵制作にも関わっているという説が有力です。言われてみればたしかに、この写本の絵は、同時期の他の写本と比べてかなり写実的に描かれています。




オランダの歴史家・ホイジンガは、自身の最大の関心事の1つとしてヤン・ファン・エイクを挙げ、その名著『中世の秋』※において、彼を「とことんまで仕上げなければ気がすまないという気質」の持ち主と表現しています。その性質が現れた絵の例として、ホイジンガは《受胎告知》と《官房長ロランの聖母》を挙げています。
※1919年出版。中世末期~ルネサンス期の人びとの生活と思考を研究した本で、その後の中世史研究に大きく影響を与えた。
とくに『中世の秋』の下巻は、ヤン・ファン・エイクを中心に、当時の芸術(詩や絵)の話が紹介され、「言葉」と「絵」は芸術としてどちらが優れているかという、面白い論も展開されます。興味のある方はぜひ読んでみてください。
ルネサンス期に、このような写実的な表現ができた背景には、遠近法の発展や、解剖学の発展などがありました。
遠近法とは、2次元の空間(紙など)に3次元の空間を表現する手法のことです。2次元の空間には、本来奥行は存在しませんが、遠くにある物体を小さく描くなどの手法を取ることで、奥行きがあるように見せることができます。
中世末期~ルネサンス期には、日本人の多くが美術の授業で習うであろう、「線遠近法」が完成しました。なじみのある言葉だと、「一点透視図法」「二点透視図法」などが線遠近法の一種に含まれます。
例えば、ラファエロの最も有名な壁画、《アテネの学堂》では遠近法が効果的に使われ、建物の奥行が感じられるようになっています。



遠近法は、イラストをうまく描けるようになりたい人が、習熟に苦労する分野でもあるね。人物絵単体は描けるけれど、背景が描けないという人は、たいてい遠近法(「パース」という言葉がよく使われる)の練習が不足しているんだ。


解剖学の知見を活用した画家として有名なのは、レオナルド・ダ・ヴィンチです。彼は「万能の天才」と称され、芸術面にとどまらず、自然科学の面でも活躍し、医者としての側面も持っていました。彼は人体解剖の研究をしていたことで知られ、その知見が《モナ・リザ》のような人物画における繊細な表情の表現に活かされています。



後世で最も評価されているのが、芸術家としてのダ・ヴィンチというだけなんだね。
私は中世編の記事で、「中世期の絵は壁画が中心なので(壁画は場所を移動できないので)日本で鑑賞できる機会は少ない」と説明しました。すでに紹介したミケランジェロやラファエロの絵も含めて、ルネサンス期の絵画もまだまだ壁画が多く、レオナルド・ダ・ヴィンチの代表作の1つである、《最後の晩餐》は修道院の食堂に描かれた絵です。そのため、この絵はミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院に行かないと観れません。



「食堂」と「晩餐」を食事という行為でかけているんだよ~!
画家がキリスト教絵画を描くときに、絵を置く場所から題材を選んでいたという観点は面白いよね。


なお、《最後の晩餐》はフレスコ画ではなく、近世期になって発明されたテンペラ画の技法で描かれています。顔料に卵を混ぜて描く画法です。
特徴③ 商人の肖像画が誕生




ルネサンス期の絵画の特徴・3つ目は、商人の肖像画が複数誕生した点です。
肖像画とは、ある特定の人物を主体に描いた絵のことです。肖像画は写真技術が発明される前まで、写真の代わりに用いられていました。例えば貴族の結婚相手選びに、候補者たちの肖像画が参考にされることがありました。また特定の一族の歴史を記録するために、代々の当主の肖像画が飾られることがありました。
自分の肖像画制作を画家に依頼する際には、もちろんお金がかかります。よって、長らく肖像画を残す行為は王侯貴族(=金持ち)の特権でしたが、ルネサンス期になると、肖像画を残す商人がでてきます。これは、肖像画の製作を依頼できるほど、商人が財産を持つようになったことを意味します。
すなわり、商人が肖像画を制作できるようになったことは、貴族の権力が相対的に弱まったことを意味します。この変化は、その後何百年もかけて、身分制社会が崩れていく系譜上にあるのです。
章の冒頭で紹介した2枚の絵は、どちらも商人の肖像画です。《ゲオルク・ギーゼの肖像》は、ハンザ同盟の富裕商8人を描いた、一連画のうちの1作です。ハンザ同盟とは、海洋交易で栄えた、バルト海沿岸地域で商人が結んでいた同盟を指します。その同盟に加入していた都市の数は、中世期の時点で100を超えていました。
《ゲオルク・ギーゼの肖像》を描いたホルバインは、イングランド王国での宮廷画家としての経歴もあり、ヘンリー8世の肖像画も描いています(下図)。


《アルノルフィーニ夫妻像》は、ルッカ(イタリアの都市)の商人、ジョヴァンニ・ディ・ニコラ・アルノルフィーニと、その妻の婚姻契約の場面を描いた絵です。作者は前章でも紹介した、ヤン・ファン・エイクで、絵には緻密な描きこみがうかがえます。
この絵は前回の記事でおすすめした、『モチーフで読む美術史』の表紙にもなっています。
ここで中世期後半からの、商人の台頭について簡単に紹介します。
西洋史において商人は、(商売が成功したあかつきには)庶民でありながら貴族と同等かそれ以上の財産を持つようになる、はじめての庶民でした。中世期において、社会における人の価値は、貴族出身であるか否かで評価されていました。しかし近世期になると、商売の成功などによって、貴族以上に財産をもつ商人が多々登場し、貴族の力が相対的に弱まっていきます。
商人の活躍が目立ってくるのは、商業の場としての、中世都市の発展が頂点に達した、13世紀頃からです。先に触れた、ボッティチェリのパトロンだったメディチ家も、もともとは庶民の出自でした。ところが銀行業が成功したことで、財産をたくわえ、フィレンツェの政治家として台頭していきます。そしてのちには、一族から教皇や王妃となる者を輩出するようになりました。
この点でメディチ家は、中世期後半から活動をはじめた商人として、最も成功した部類に入ります。アメリカン・ドリームならぬ、「商人ドリーム」を体現した、時代を象徴する一家といえるでしょう。中世期の商人について詳しくは、以下の記事も参照ください。




近世期の商人を描いた絵が、ほとんど黒っぽいのは、この時期から服の色として「黒」が流行し、とくに商人に好んで着用されるようになったからです。つまり現代における、ビジネスシーンに無難な色としての「黒」の服飾文化は、この時期からはじまりました。
黒の服飾文化については、服飾史を専門とする徳井淑子氏の、ドンピシャな本『黒の服飾史』があります。
なお、中世期の商人の服の色は、この傾向とは反対に鮮やかです。中世人にとって、服の色が鮮やかであることは、それだけのお金を服にかけられる=身分が高いということになるので、金持ちの商人ほど、鮮やかな服を着たかったのかもしれません。


特徴④ 農民を題材にした絵が誕生




ルネサンス期の絵画の特徴・4つ目は、農民を題材にした絵が誕生した点です。
すでに何度か説明している通り、科学技術が発展していない時代の絵画制作には、お金がかかります。ゆえに、お金をかけて絵を描くのだから、絵の題材にする価値があるものを厳選して描こう、という思考になります。そのため中世期には、まずもってキリスト教絵画が制作され、次に王侯貴族を主体とした絵画が制作されたのでした。
つまり中世期には、相対的に絵に描く価値の低い、庶民を主体とした絵はほとんど描かれませんでした。だって、想像してみてください。中世期の貴族が自腹を切って、自分より身分の低い者を描いた絵の製作を、わざわざ依頼するでしょうか? そのような行為は、貴族視点でいえば「お金の無駄づかい」という思考になるでしょう。
ところが、ルネサンス期には農民の生活を題材にした絵が、複数うまれました。とくにこの時期に活躍した、画家のブリューゲルは、農民の生活を生き生きと描いた絵を、好んでたくさん描きました。気をつけたいのは、前章で紹介した商人の肖像画と異なり、これらの絵は農民が資金提供したわけではないということです(そもそもこの時代の農民にそのような経済的余裕はありません)。
つまり、ブリューゲルは農民に依頼されてもいないのに、自ら好んで農民を題材にした、ということになります。この行動には、ルネサンスに代表的なヒューマニズムの思想、すなわち「人間のありのままの姿を肯定する」という動きがよく表れています。同時代の知識人の多くが、農民を取るに足らない存在だと捉えていたなかで、その生活を鮮やかに描きだしたブリューゲルは、時代を先取りしていたともいえるでしょう。




ブリューゲルは、《バベルの塔》の絵を3作描いたことでも知られています。《バベルの塔》は一種のキリスト教絵画で、旧約聖書の内容に由来しています。
旧約聖書によると、元来、人類が話す言語は一つでした。ところがあるとき、人類が高い塔(バベルの塔)を建設して天に到達しようとしたので、神がその建設にたずさわる人びとの言葉を、互いに通じなくしました(複数言語が誕生)。すると人びとは混乱に陥り、建設をそれ以上進められなくなってしまいました。こうしてバベルの塔は未完成のまま放棄され、人類はちりぢりになったといいます。
余談ですが、『チ。-地球の運動について-』のアニメED曲に採用された、ヨルシカの曲「アポリア」にはブリューゲルの《バベルの塔》をモデルとしたと思われる建造物が、何度も登場します。バベルの塔のエピソードは、「人類の神に対する挑戦」とも捉えれれるので、教会の教えに逆らい、地動説の研究を続ける人が主人公である、『チ。』にぴったりだと思います。
特徴⑤ テンペラ画や油彩が普及
ルネサンス期の絵画の特徴・5つ目は、テンペラ画や油彩が普及した点です。
ルネサンス期は、絵の写実性を追求するために、新しい画法が研究されました。その結果、顔料に卵を混ぜて描くテンペラ画や、顔料に油を混ぜて描く油彩が好んで用いられるようになりました。どちらの画法も、絵具が乾けば上から重ね塗りができるため、修正などが容易で、その結果、繊細な人物描写が可能になりました。




テンペラの技法は主に、壁や板(パネル)に対し使われました。例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》やボッティチェリの《プリマヴェーラ》はテンペラ画で、支持体はそれぞれ、壁と板(パネル)です。
テンペラ画の黄金期はルネサンス期で、以降は絵画といえば油彩が主流になっていきます。逆にいえば、美術館で観る絵画のキャンプションに「テンペラ」と記載があれば、ルネサンス期の絵画である可能性が高いです。
油彩の技法は、ルネサンス期には板(パネル)に対し使われることが多いです。例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチの《モナ・リザ》やヤン・ファン・エイクの紹介した絵すべては、板(パネル)に対し油彩で描いたものになります。その後は油彩を使う際の支持体として、キャンバス(帆布)の人気が高まっていきます。
絵にあまり詳しくない方にとって、テンペラ画と油彩を見分けることは難しいかもしれません。しかし、絵にたくさん触れるようになると、どちらの技法で描かれたか、絵を見ただけでなんとなく分かるようになっていくと思います。また、「板」と「キャンバス」どちらに対し描かれているのかも、見分けられるようになります。
今度、美術館へ行くときにはその絵が何の画材で描かれているのか、何を支持体として描かれているのかにも、注目してみると面白いですよ。
コラム:中世ヨーロッパの絵はへた?
すでに説明した通り、絵の写実性に重きが置かれた点は、ルネサンス期の絵画の特徴の1つです。
しかしながら、それ以前の絵に写実性に重視されなかった背景を、単に技巧が不足していたから、と捉えるのは誤解にあたります。中世期の絵画は主に、キリスト教の信仰のために製作されました。そのような、信仰と絵画が深く結びついている状況下では、神性をもつ存在を、どの程度まで写実的に描くことが許されるのか、という問題が常につきまといます。
そもそも宗教や宗派によっては、神をかたどった何か(偶像)をつくること自体を、禁止していることもあります。例えばイスラームにおいては偶像崇拝が厳格に禁じられており、それゆえに宗教美術に代わって、モスクを壮麗に見せる「アラベスク」の技術が発展したことは、有名な話です。


そのため中世期には、ビザンツ帝国などの一部地域で、あえて自然のままの姿から離れて、定型的な絵を描く傾向が、装飾写本の分野で顕著に現れました。というのも、信仰すべき対象は「神」であって、「神をかたどった絵」ではないわけです。ゆえに「絵」そのものが神そであると、見る人に捉えられてしまっては駄目で、あえて単純な絵にすることで、見る人に想像の余地を与え、目ではなく心によって神を感じ取ってもらえるようにしたかったのです。
まとめると、中世期の絵師たちは、あえて写実的ではない絵を描くようにしていた面があり、それゆえに現代人から見るとつたない技巧の絵が多い、とも捉えることができます。もちろん、全員が全員、あえてそのような絵を描くようにしていたわけではないし、題材によってはそのような思考とは無関係なので、技巧が不足していたのも事実です。その背景には、古典時代の「写実性の高いお手本絵」が失わてしまったことがあると思います。
あえて写実的に描かない、このあたりの感覚を想像することは、現代人には少し難しいかもしれません。理解の助けとなる本として、オルハン・パムクの『わたしの名は赤』を紹介します。
この小説の舞台は16世紀のオスマン帝国(現トルコの前身)で、主人公は装飾写本の絵師たちです。絵師たちは皇帝から命じられて、ある写本に絵を描いていくのですが、その過程で読者は、「なぜ写実的ではない描き方をあえてするのか」という感覚を、登場人物に没入しながら知ることができます。
例えば、登場人物は「遠近法」について知っていますが、遠くにいる高貴な人物を小さく描くことはしません。なぜなら高貴な者を、手前の者より小さく描くことは、不敬にあたるからです。
この描写を読んだとき、私は目からうろこが落ちました。オルハン・パムクは今のところトルコで唯一のノーベル文学賞受賞作家で、どの小説からもトルコおよびイスラームの歴史文化に対する深い洞察が得られます。個人的にとても好きな作家です。
おわりに
今回は、ルネサンス期(15-16世紀)の絵画の特徴を紹介しました。
ルネサンス期の絵画の特徴として、本記事では以下5点を挙げました。
- 「異教」を描いた絵が許容される
- 写実性に重きが置かれる
- 商人の肖像画が誕生
- 農民を題材にした絵が誕生
- テンペラ画や油彩が普及
言い換えると、美術館で西洋絵画を鑑賞するとき、以下のような特徴があれば、それはルネサンス期の絵画である可能性が高いです。
- 古代ギリシア・ローマの神々が描かれている
- 写実性に重きが置かれている(★)
- 商人の肖像が描かれている(★)
- 農民を題材にしている(★)
- テンペラの技法で描かれている
ただし、★をつけた点は、ルネサンス以降の近世期にも共通しているので、ざっくり近世期と捉えるとよいかもしれません。
さらに詳しく西洋美術史の流れを理解したい方は、以下の本がおすすめです。高校生でも気軽に読めるくらい、やさしく面白い内容なので、入門にぴったりです。
シリーズ【西洋絵画の楽しみ方】はつづきます。次回は近世期(17-18世紀)編です。お楽しみに!