はじめに
キリスト教における旧約聖書の冒頭には、光と闇に関する象徴的な記述があります。
初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。
「光あれ。」
こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
『聖書 - 新共同訳』創世記1章1節、日本聖書協会
この場面では、光が差すことによって闇が生まれました。光の届かない部分は必然的に闇になるからです。こうして、キリスト教の考えでは、最初に光と闇が創造されたとされます。そして西洋人にとって、光は神の象徴として、闇は悪魔の象徴として捉えられるようになります。
今回は、西洋人が光に対して抱いてきた想いをを明らかにしていきます。
夜の恐怖
夜は人類にとって最初の必要悪であり、最も古くて最も日常的な恐怖だった。迫り来る闇と寒さの中で、有史以前の我が先祖たちは深い恐れを感じたに違いない。とりわけ、いつか太陽が昇らない日が来るのではないかという恐れを。
ロジャー・イーカーチ『失われた夜の歴史』樋口幸子、片柳佐智子、三宅真砂子訳、インターシフト、2015年、20頁。
人間は古くから夜を恐れてきました。その主な理由の一つとして、光の欠如が、ヒトの最も優れた感覚器官である視覚を奪うことが挙げられます。
動物には必ず、自らが得意とする感覚器官があります。例えばイヌは嗅覚に優れており、コウモリは聴覚に優れています。ヒトにとってそれは視覚です。そのためヒトは光がなくなる状態、つまり最も得意とする感覚器官を使えない状態に本能的な危険を感じます。いっぽう暗闇で生きるコウモリは、視覚ではなく聴覚(超音波)に頼っているため、暗闇には恐怖を感じません。
昼に見える世界が見えない状態は人々の不安を掻き立て、不安から生まれる空想が闊歩する領域となりました。日本では幽霊や妖怪で、キリスト教文化圏では、それは光である神と対極に位置する存在、悪魔でした。そして「異教」の神々、妖精たちでした。なぜならキリスト教では神(と聖人)以外に超自然的な力を使える者を認めません。よって魔法を使う「異教」の神々、妖精たちは悪魔と同義でした(※1)。
キリスト教文化圏にある西洋において光と闇は、神と悪魔の対立構造と同じでした。そのため彼らににとって闇への恐怖は単なる本能上のものだけではなく、宗教的な教義にも基づいてたことが分かります。
次章からは、西洋人が光に対しどのような想いを抱いていたかを紹介していきます。
※1. キリスト教と魔法の関係については、イギリスにおける魔法の歴史を、キリスト教と魔女の関係については西洋史における「魔女」とは何かを参照。
光の賛美
西洋人の光を求める想いは、他の民族と比較して強いものがあります。理由として一つには、彼らが民族的宗教として採用した、キリスト教に光を神の象徴と見なす考えがあることが挙げられます(キリスト教は現在の中東地域で生まれた宗教)。もう一つには、日本などヨーロッパ大陸より緯度の低い地域から見て高緯度にあるため、冬の夜が長いことが挙げられます。
西洋人による光の賛美は、生活の様々な面に表れています。
例えばイルミネーションの文化は、その想いがよく表れています。クリスマスに木や屋台をいくつもの光で飾ることは、キリストに対する敬いと、やがて来る光の季節への期待が込められています(※2)。
※2. クリスマスはローマ帝国における冬至祭を踏襲している。冬至は日照時間が最短になる日であるため、冬至を過ぎれば徐々に日照時間が長くなる。そのためイルミネーションには光の季節への期待も込められていると考えられる。クリスマスと冬至祭については、西洋になぜキリスト教が浸透したのかを参照。
1年の半ば以上を長い夜と暗い冬空の下に生きるヨーロッパ人は、たしかに夜のうちから昼を、長く暗い冬から短く明るいひとときの夏を、厳しい今日の現実から快適な明日のあるべき理念を、総じて暗闇のなかから光明を恋いこがれ、待ち望みつづけてきた人であるといえよう。
木村尚三郎、堀越孝一、渡辺昌美『生活の世界歴史〈6〉中世の森の中で』河出文庫、1991年、51頁。
また西洋人の光に対する賛美は、彼らの美的観点にも表れています。オランダの中世史学者ホイジンガは、その名著『中世の秋』19章「美の感覚」で、中世人が「輝き」を好んでいたことを述べています。
(前略)美しいと感じての喜ばしい心の動きが、自然に言葉となってあらわれたところに、この時代の美に対する感覚の正体をさぐるとき、このこと(美をどう定義したか)は、いっそうはっきりする。人びとの口から自然にもれでる言葉は、ほとんどつねに、輝き、ないし、生きいきとした動きの感覚に発しているのだ。
ホイジンガ『中世の秋(下) 』堀越孝一訳、中公文庫、2018年、278頁
ホイジンガはその美しさを中世人が言葉で表現した例として、「行進する騎馬の一隊の、かぶとやよろい、槍の穂先、槍旗や旗指物にたわむれる日の光」「露の玉にきらめく日の光」「ブロンドの髪に、日の光がきらきら輝いている」こと等を挙げています。さらに15世紀に、衣服を宝石で飾り付けることが流行したことに言及しています [1]。
以上の通り、西洋人による光の賛美は、生活の様々な面に現れています。その例として、イルミネーションと輝きへの嗜好を挙げました。
光の誠実性
先述した通り、悪魔や異教の超自然的存在がはびこる時間帯として、西洋人は夜を非常に恐れていました。それはちょうど西洋における森の歴史の「異界としての森」で紹介した森に対する恐怖と同様です。
一方で夜の闇は悪事を働きたい人間にとって、格好の環境でもありました。夜は法による支配が行き届かない、アウトロー(※3)の時間帯であり、欺瞞と秘密に満ちた、不正の温床でした。よって夜の対極に位置する昼は、正義の時間帯でした。そのため約束事は一般的に、太陽の下で、つまり昼にするのが良いと考えられていました。
※3. アウトローについては西洋におけるアジール(例)を参照。
中世後期に再び日の目を見ることになったローマ法の指針として、夜間が不誠実をはぐくむという信念が、ヨーロッパ大陸全域に恒久的な影響を及ぼした。いくつかの地域では、日没後には一般の取引が禁止され、たとえ許可された場合でも、その合法性は疑わしいと見なされた。(中略)ところによっては、遺言書作成者による受取人の選択が禁じられ、遺言書自体は「三つの灯火」の下でなければ読んではならないとされていた。
ロジャー・イーカーチ『失われた夜の歴史』樋口幸子、片柳佐智子、三宅真砂子訳、インターシフト、2015年、134頁
引用文の「三つの灯火」は不正を暴く光としての意味合いがあると考えられます。その根底には、蝋燭の火が太陽の光の代用をしており、その下であれば約束事の誠実性も有効であるという考えがあります。
クジャクが振舞われる正餐
また20世紀になるまで、西洋における正餐(ディナー)が夜ではなく昼だった [2] ことも、昼の正しさを象徴していると考えられます。当然、正餐が昼食とされていた主な理由としては、電気が発明されるまでの弱弱しい(蝋燭などの)灯りでは凝った調理ができないからでした。近代以前の西洋における光源については、西洋における光源としての火の利用を参照してください。
しかし、もし夜の不正さが信じられていた時代に電気が存在したとしても、正餐は昼のまま変わらなかったことでしょう。なぜなら夜は正式な催しを開催するには不適切だからです。
このように、西洋人の間では、昼の光は夜の闇における不正や不誠実性を暴くと考えられていました。
おわりに
今回は、西洋における光の文化史について記載しました。
視覚を奪われる夜に、人間は本能的に恐怖を感じます。西洋においては、キリスト教の考えに基づき、神の象徴である光と対極に位置する闇は、悪魔の象徴とされました。そのため彼らににとって闇への恐怖は単なる本能上のものだけではなく、宗教的な教義にも基づいていました。
西洋人による光に対する賛美は、他の民族よりも強いものがあります。理由として第一に、キリスト教に光を神の象徴と見なす考えがあること、第二に西洋の夜が長いことを挙げました。
そして彼らの光に対する賛美が分かる例として、イルミネーションと輝きへの嗜好を挙げました。
光はまた、闇と比較して誠実性があると考えられていました。西洋では夜に交わされた約束事は信頼性や誠実性が欠如していると考えられていました。なぜなら夜はその隠蔽性から、法の支配が行き届かない時間帯だったからです。
キリスト教文化圏に限らず、光は世界各地で神性と結びつけられて考えられます。光と闇の関係は、今回紹介した西洋の考えのように、必ずしも敵対関係ではなく、例えば中国における陰陽思想のように、相互補完的な関係である場合があります。今後は異なる地域の光の文化について調べるのも面白そうです。
以上、西洋における光の文化史でした。
参考文献
[1] ホイジンガ『中世の秋(下) 』堀越孝一訳、中公文庫、2018年、279頁
[2] 木村尚三郎、堀越孝一、渡辺昌美『生活の世界歴史〈6〉中世の森の中で』河出文庫、1991年、59頁