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中世ヨーロッパのパン:パンに形づくられた人びとの暮らし

秋に種をまき、夏に収穫する。麦を育てるその年間サイクルに沿って、中世の人びとは働いていました。収穫された麦は、つど製粉され、窯で焼かれ、パンとなって、一年を通して食されます。

この時代の人びとの暮らし、すなわち、いつ・どこで・どのように働くかといったことは、多くの場合、「主食」を確保するために規定されていました。かつて、日本人にとってそれが米であったように、ヨーロッパ人にとってのそれは麦だったのです。

この記事では、中世ヨーロッパの人びとの暮らしを形づくった、パンをめぐる文化に着目します。

目次

中世におけるパンの概要

古代からつづくパンづくり

パンづくりをする古代エジプトの女性。紀元前2200年頃。

私たち日本人は、古くから米を主食としてきました。そのため多くの日本人にとって、パン文化に対する知識は、ぼんやりとしたものだと思います。じつはパンは、私たちが想像するよりずっと古くから存在します。

人類最初の麦の栽培とパンづくりは、「肥沃な三日月地帯」、すなわちメソポタミア周辺で、5000年以上前に始まったと考えられています。パンづくりはメソポタミアから西へ伝播していき、古代エジプトにおいては、パンとビールが主食1として食べられていました。

古代ギリシア時代には、各家庭にパン焼きのための竈がありました。古代ローマ時代には、はやくも現代の薪用パン窯と、同じ構造をもつ窯が完成していました。そうして焼けるようになったのが、ドーム型にふっくらと膨らんだパンです。それは例えば、ポンペイから出土した、八等分にできる下図のようなパンでした。

古代ローマ都市ポンペイで出土したパン。

こうした脈々と続いてきたパン文化を受け継いで、中世ヨーロッパでのパン文化は存在します。

パンの原料となった穀物

パンの原料となるのは、何らかの穀物です。中世ヨーロッパにおいては、基本的には、その土地で育てやすい穀物をパンの原料としていました。

具体的には、現代で主流の小麦以外に、中世期には以下のような穀物が、パンに使われました。一種類のみでなく、複数の種類の穀物を混ぜて使われることも、しばしばでした。

穀物の種類中世における立ち位置
ライ麦パンの原料として、小麦と並んでよく使われた
スペルト小麦小麦の先祖種で、中世中期頃までは、パンの原料としてよく使われていた。しかし、より扱いやすい、上等品種の小麦が登場したことで、小麦に置き換わっていく。ドイツなど、地域によってはスペルト小麦のほうが好まれ、現代でも根強い人気がある
大麦ビールの原料としてよく使われた。大麦からつくられたビールは「セルヴォワーズ」と呼ばれ、飲むというより「食べる」ビールだった
燕麦えんばく (オート麦)北ヨーロッパでは、粥(オートミール)にされてよく食べられた。パンにはあまり適していないため、フランスなど、地域によっては、しだいに馬の飼料用穀物になっていった
蕎麦そば 「黒麦」とも呼ばれ、中世後期に、やせた土地でよく栽培されるようになった
中世期にパンの原料となった穀物の例

ところが、中世末にかけては、小麦を栽培する割合が、ヨーロッパ全体で増えていきます。というのも、小麦からつくるパンはおいしく人気があり、富裕層を含めた世間からの需要が高かったため、栽培の余剰分が売り物になったからです。

中世後期に、小麦が好んで栽培されるようになった背景からは、次のような社会変化もうかがい知ることができます。

  • その頃には「あまった作物を売り物にできる」ほどの、安定した農業技術が確立していた
  • その頃には郊外や農村から、人口の多い都市へと、作物を輸送できる流通網が整備されていた
  • 中世初期には、人口の大半が農民で、自分の糧を自分で育てることは当たり前だった。この時点では、穀物を販売するビジネスは成り立たなかったはず。ところが、中世後期に都市が発展するに伴い、商人や職人などの、農業以外の仕事をする人(=第二次産業の従事者)が増えた。その人たちが生きていくためには、他者が生産した穀物が必要なので、小麦の販売ビジネスが成り立った

「パン」に着目するだけで、これほどさまざまな中世の社会状況が見えてくるのは、それだけこの時代のパンが、人びとの生活と密接に結びついていた、ということを意味します。

「食べる」ビール

古代エジプトにおいては、ビールはパンと並ぶ主食で、中世ヨーロッパにおいても、一部のビールには主食級の栄養がありました。このような、食べ物として摂取されるビールは、エンマー小麦や大麦から作られた、どろっとした飲み物です。

「食べる」ビールも含めた、中世ヨーロッパで飲まれていた酒については、以下記事で紹介しています。

キリスト教におけるパン

《最後の晩餐》
シモン・ウシャコフ 、1685年。

中世ヨーロッパにおけるパンは、あらゆる食べ物を代表する、「食べ物のなかの食べ物」でした。人間が生きていくために必要な摂取物は、水と食料であり、この「食料」にあたるものは、彼らにとってパンだったのです。

その位置づけは、日本人にとっての米に近いものがあります。米が単なる穀物以上の意味を持ち、神事や祭事に用いられてきたように、中世ヨーロッパのパンもまた、食べ物全体を象徴する存在でした。人びとは「パン」という言葉で食べ物を表し、超自然的な存在に対する、供物としてパンを捧げてきました。

キリスト教においても、パンは特別な意味を持つ食べ物です。まず、パンを他者に施す行為は、「食べ物」や「神の恵み」を分け与える行為と同義なので、尊い行為とみなされます。そのため中世期の修道院では、自家製のパンを、旅人や病人、貧者などに日常的に分け与えていました。

最後の晩餐の際に、キリストが弟子たちに分け与えたのも、自らの肉の象徴であるパンと、自らの血の象徴であるワインでした。このエピソードに基づき、中世期のローマ・カトリック教会の礼拝では、パンとワインを口にする儀式が行われるようになります。ワインをめぐる文化については、以下記事で紹介しています。

人びとの命を支える食べ物であったからこそ、パンはキリスト教においても重要な象徴となっていったのです。

農村部のパン

中世ヨーロッパの農村部では、人類が最も古くから行ってきた方法で、パンを調達していました。すなわちパンは、自給自足の産物で、自ら栽培した穀物を原料として、自らの手でつくられました。

よって、中世農村のパンづくりに着目すると、主食確保を最優先に位置づけていた、人類の古くからの生活スタイルも見えてきます。

一年の仕事は「麦」の栽培サイクルに沿って

現代人にとっての農業というと、「野菜」を育てるイメージが強いかもしれません。

しかし自給自足する人にとって、最も大切な作物は、身体のエネルギー源となる主食(=穀物)でした。なぜなら、野菜に含まれるビタミンは、少しばかり不足していても生きていけますが、穀物に含まれる炭水化物がなければ、人は生きていけないからです。つまり、人類が太古から行ってきた農業とは、米、麦、トウモロコシなどの、穀物を安定的に確保する取り組みなのです。

中世ヨーロッパの人びとにとっても、農業とは、まずもって穀物を安定的に確保することでした。具体的には、農村の人びとの仕事の中心には、年2回の麦の栽培サイクル(耕作→種まき→栽培管理→収穫→乾燥→脱穀)が存在しました。生活に必要なその他の仕事――例えば、他の野菜の栽培、保存食づくり、木の実や薪の採集など――は、その合間に行われる傾向にありました。

もともと麦は、秋に芽をだし、春に実をつける植物です。中世ヨーロッパでは、その伝統的な冬麦栽培に加えて、春に種をまく春麦栽培もおこ行われていました。よって、年2回の麦の栽培サイクルがありました。

  • 冬麦栽培:秋に種まき、翌年の初夏に収穫
  • 春麦栽培:春に種まき、その年の秋に収穫

ただし、秋にまく麦と、春にまく麦は、別種類のものです。どのような麦が、どちらの季節に栽培されるかは、その地域の気候や、扱われていた品種によってさまざまでした。例えば、秋に小麦やライ麦の種をまくなら、春にはスペルト小麦や大麦や燕麦の種をまく、といった具合に分けられていました。

共同の水車とパン焼き竈

中世農村において、パンづくりに欠かせなかった施設が二つあります。それは、製粉水車とパン焼き竈です。これらの施設は一般的に、村人たちの共同施設として、どの村にも1つずつ備わっていました。

このような施設を設置した人物は、主に、その地域を管轄域としていた領主です。これらの施設は、結果的には公共性の高い施設になりましたが、領主が念頭に置いていたのは、自らの収入を増やすことでした。つまり領主の目的は、高価な生産施設を建設し、維持管理する代わりに、その使用のたびに、人びとから使用料を徴収することでした。代表的なそのような施設として、他にワイン用のブドウ圧搾機もあります2

こうした領主による使用強制は、フランス語の専門用語で「バナリテ banalite」と呼ぶよ。気になる人は調べてみてね。

製粉水車がある場合、人びとは製粉を、粉ひきを請け負う仕事人(=粉ひき屋)に任せました。同様に、共同のパン焼き竈がある場合、パン焼きを請け負う仕事人(=パン屋、パン焼き人)に任せました3。村人自身が行うのではなく、請負人に任せるルールだったのは、その者一人が、税や使用料を取りまとめて領主に支払うためです。

竈にパン生地を入れていく婦人。『健康全書』より、15世紀。

水車の慣習については、別記事で詳しく紹介しているため、ここではパン焼きの慣習に触れます。

共同のパン焼き竈では、一度火をつけたあとは、なるべく連続で使われる傾向にありました。なぜなら、パン生地が膨らむ温度は約200度であり、その高温に上げるまでに、たくさんの燃料が必要になったからです。逆に、一度温度を上げてしまえば、竈内の熱はなかなか下がらず、2,3日は温かさを保ちます。よって竈の温度を持続しながら、ひっきりなしにパンを焼けば、その分燃料の節約になりました。

日本の田舎で野焼きをしはじめると、火が強いうちに、いろんな人が「燃やしたいもの」を持ってくるよね。パン焼き竈の使い方は、その構図に似ているね。

中世においては、パン焼きをする際、薪などの燃料は、各個人が用意する決まりでした。ゆえに当然、節約の工夫がなされていたと思われます。中世にこの慣習があったかは定かではありませんが、最近まで共同竈が使われ、もしかすると今でも使われているドイツの村々では、パン焼きの順番をくじ引きで決めます4。というのも竈の構造上、後ろの順番であればあるほど、竈がよく温まっており、自分の用意する燃料が少なくすむので、順番によって損得が生じるからです。中世においてもこのような、不公平の生じない、なんらかの順番決め手段があったと思われます。

中世の水車をめぐる文化については、こちらの記事で紹介しています。

農民は「黒パン」を食べていたのか

ここで、皆さんが気になっているであろう、身分によるパンの違いを整理しておきます。いわゆる「白パン」と「黒パン」の話です。

中世期には、目の細かいふるいにかけて、不純物を限りなく取りのぞいた、上等な小麦粉からつくられたパンが、白パンと呼ばれました5。このパンは真っ白な身と、(表面にこげがつくため)薄い褐色の皮をもちます。ふるいにかけるために、使える粉の量が半減したと考えられている6ため、このパンはぜいたくな代物でした。

一方で、同じ小麦を原料としても、ふすまや目の粗い粉が混ざった小麦粉からつくられたパンは、身が白くならないため、黒パンと認識されました(現代風にいうと全粒粉パン)。また穀物の章で紹介したような、小麦以外の麦は、いくら丁寧に精麦しても白い粉にはなりません。よって、小麦以外の穀物を原料とするパンも、すべて黒パンと見なされました7

穀物の章で紹介した通り、中世末にかけて、小麦粉のパンの需要が高まりました。そして一般的にはお金持ちほど、小麦のみを原料とするパンを、好んで食べる傾向にありました。ただし小麦のパンだからといって、白パンとは限りませんでした。

一方で農民のパンは、数種類の穀物をブレンドして作るのが一般的でした8。例えば、小麦とライ麦の粉を混ぜたパンなどです。そのため、中世の農民が黒パンを食べていた、という一般的なイメージはおおむね正しいです。ただし、真っ白な小麦粉が高級品だったから、というよりは、ブレンドパンを食べるほうが栄養価が高かったから、という理由のほうが適していると感じます。

食の健康に関心のある方はご存知だと思いますが、麦や米は基本的に、精麦・精米しすぎないほうが、ミネラルなどの栄養価が高いです。加えて数種類の穀物を同時に摂取すれば、一種類では取れない栄養素を取ることができます。年から年じゅう力仕事をしなければならない、農民にとっては、一回の食事で得られるエネルギーと栄養が多いに越したことはありません。よって、栄養素が多分に含まれる状態の粉を使って、パンをつくることは、合理的だったと考えられます。

とはいえ不作年などの緊急時には、かさ増しのために、普段はパンに使わない、さまざまな穀物が混ぜられました。例えば、常時にはビールの原料となる麦(とくに大麦)が、ビールではなくパンの原料に回されることは常套手段でした。ほかにソラ豆や栗、どんぐりなどの家畜の餌が混ぜられることもありました9

パンが食べれないかもという緊急事態に、ビールを飲んでいる場合じゃないもんね……!

都市部のパン

中世ヨーロッパの都市部では、すでに現代と同じようなパンの調達方法が取られていました。すなわち、自分でパンをつくるのではなく、専門店でパンを買うという方法です。

一方で、富裕な市民ほど、こだわりを込めた自家製パンをつくる(従者につくらせる)傾向にありました10。それは、画一化されていない「一点もの」の入手は、「時間」と「お金」のある人の特権というイメージの、現代社会にも通じるところがあります。

町にあふれるパン屋

竈でパンを焼く人。Psalterより、13世紀半ば

都市に暮らす人びとが、パンを調達したいと思った場合、主に2つの方法がありました。

1つ目は、農村部と同様に、自分でこねたパン生地を、パン焼き人に焼いてもらう方法です。2つ目は、パン屋にて、できあいのパンを買う方法です。前者は、農村から出てきた人にもなじみ深い、伝統的な調達法で、後者は都市ならではの新しい調達法でした。都市におけるパン販売場所は非常に多く、竈が備わった店舗(=パン屋)だけでなく、市場や路上でもパンが売られていました。

都市のパン屋。中世都市の店舗は、街路に面した窓をカウンターにて、物を販売した。『健康全書』より、14世紀。

ここで押さえておきたいのは、賃仕事のパン焼き人は、パン屋とは区別されていた、ということです。当時のパン屋にとって「パン屋」とは、パンの製造から販売までを一貫して行う仕事人でした。ゆえに、彼らはパン焼き人をパン屋とは認めず、自分たちの「パン屋」ギルド(※)から排除し、しばしば蔑視しする傾向にありました11

※ギルド:同業者の相互扶助・利益擁護のための組合

中世都市では、火事防止の観点から、竈を所有できる人や団体が限られていました。そのため市民が、ドーム型によく膨らんだパンを入手しようとなると、パン焼き人に焼いてもらうか、パン屋で買うかのどちらかでした。ところが一握りの富裕市民は、パン焼き竈の個人所有が認められていることも、しばしばでした。その場合には、自分でこねたパンを、自分の竈で焼くことができました。

ところでパン屋は、市民の生活に欠かせないゆえに、都市の成立とともに設けられる類の店でした。そのため、同じく生活に欠かせない肉屋と並んで、はやくから同業者組合(=ギルド)を結成する傾向にありました12

市外から運びこまれるパン

中世ヨーロッパにおけるパンは、食料供給安全上、最も重要な地位にあります。言い換えると、都市の安寧と治安維持のためには、あらゆる市民が、十分な量と品質のパンを入手できる状態になければなりませんでした。だからこそパン屋は、都市の成立とともに必ず設けられる店だったのです。

しかし、ときに都市では、パンが不足する事態に陥りました。平時には安定した供給が可能でも、原料の流通が滞ったり、価格が高騰したりなどの、さまざまな要因でパン不足が起こり得ました。また、たいていの都市では、都市の発展に伴い人口が増加すると、市内で生産されるパンのみでは、住民の腹を満たすことができなくなりました。

よって、ある程度発展した都市ならば、リスクヘッジのためにも、市外からのパンの持ち込みと販売を、許可することが普通でした13。ここでいう市外の者とは一般的に、都市郊外に点在する、農村に暮らす人びとのことです。市外からのパンは、週次で開かれる市のほか、一週のうち数日間、販売されました。

都市のパン屋にとっては当然、競合店(ライバル)が増えるこの制度は、嫌なものでした。そのため都市当局に交渉を行うなどして、都市のパン屋が優位に立てるようなしくみをつくる傾向にありました。

ここまで紹介してきた中世ヨーロッパの「都市」が、どのような共同体だったかは、以下記事で解説しています。それは単に人や建物が集まっていた場所ではなく、領主に対して自治権を有する共同体でした。

家庭で焼かれた「平たい」パン

これまでの話ででてきたパンとは、高温の竈で焼く「ドーム型にふっくらと膨らんだパン」でした。すでに紹介した通り、このパンを焼くことのできる竈は、古代ローマ時代から存在しました。ところが、このような竈は高価な上に、火事防止の観点から、都市では限られた数の設置しかできませんでした。

つまり中世ヨーロッパにおいて、パン焼き竈の製造は、技術的には可能でしたが、さまざまな理由から、個人が所有できるものではありませんでした。よって、人びとが家庭で気軽にパンを焼きたいとなると、竈を使わない、より原始的な「平たい」パンを焼くことになりました。

囲炉裏を囲む一家。『健康全書(Tacuinum Sanitatis)』より、ビジリアの場面。14世紀。

都市の各家庭では、調理場として、明かりも兼ねた囲炉裏が備わっていることが一般的でした。そこで調理するなら、囲炉裏にフライパンなどを置いて、熱を加えることになります。しかし、囲炉裏の火力は現代のコンロと同じようなものであり、熱も空気中に離散するため、竈のような高温を実現できません。このような方法で、パン生地に熱を加えてできたのが、膨らみの少ない平パンでした。現代でいう「フォカッチャ」が、そのパンにかなり近いです。

現代でも、オーブンレンジがないと、200度の熱での調理はできないね。そう考えると、中世人が家でパンを焼こうとする工夫と、現代人がオーブンレンジなしの家でパンを焼こうとする工夫は、似通ってくるね!

中世において、竈を使わずに焼けたパンの例に、串焼きパンもあります14。家庭でパンを焼く場合には、低い温度でも火が通るように工夫せねばならず、平パンの場合にはその工夫が、平たく伸ばすことでした。串焼きパンの場合にはその工夫が、火にかざしながら串を回すことにあったのです。

中世都市の調理環境については、以下記事で紹介しています。

パンをめぐる、中世らしい慣習

ここからは補足として、パンをめぐる、中世に特徴的な慣習を2つ紹介します。

「皿」として使われたパン

会食で使われるトランショワール。Chronique de France et d’Angleterre、15世紀

中世ヨーロッパでは、パンが皿として使われることがありました。このパンは「トランショワール(仏:tranchoir)」と呼ばれ、古くなり固くなったパンを、厚切りにスライスしたものでした15

トランショワールの上にのせられた料理は、主に肉や魚でした。その油やソースを染みこませることで、固くなったパンを柔らかく、かつ、それなりに美味しくする目的があったと考えられます。そうして食べやすくなったトランショワールは、食事の後で食べられていました。

しかし身分の高い人びとは、トランショワールを好んでは食べませんでした。多くの場合、自身は食べずに、飼い犬や貧しい人びとに与えていました。

船乗りのための「二度焼きパン」

中世ヨーロッパには、長期間、海の上で過ごす船乗りのための、日持ちするパンがありました。それは「ビスキュイ」と呼ばれる、二度焼きした、厚い皮をもつ全粒パンでした16。「乾パン」と表現されることもあります。こうしたパンは、商船の持ち主や艦隊の責任者によって、船乗りのために大量に注文されていました。

航海している間、このパンしか食べられなかった船乗りたちは、やはり普通のパンが恋しかったようで、陸につくやいなや、パン屋に向かい、できたてのパンを買い占めたといいます。なお、このパンが現在の「ビスケット」の原型であると考えられています。

おわりに

今回は、パンに形づくられた、中世ヨーロッパの人びとの暮らしをたどりました。

パンは、中世ヨーロッパの人びとにとって、ただの主食ではありませんでした。

麦を育てる一年の仕事、水車やパン焼き竈をめぐる村のしくみ、町に並ぶパン屋、食卓で皿として使われる古いパン、そして航海に持ち出される二度焼きパン。パンに目を向けると、人びとがどのように働き、食べ、祈り、共同体のなかで生きていたのかが見えてきます。

かつて日本人の暮らしが米を中心に回っていたように、中世ヨーロッパの人びとの暮らしもまた、麦とパンを中心に回っていました。パンは「食べ物のなかの食べ物」として、人びとの命を支えるだけでなく、暮らしや共同体、信仰を形づくる存在だったのです。

中世において、生きるとことの一部は食べることであり、食べるための仕事は、暮らしそのものでした。そうした「暮らしと仕事が分かれていない感覚」については、こちらの記事でも触れています。

参考文献

  1. 船田詠子『パンの文化史』講談社、2017年、106頁。 ↩︎
  2. 『ヨーロッパの中世5 ものと技術の弁証法』100頁。 ↩︎
  3. 阿部謹也『中世を旅する人びと』筑摩書房、2015年、148頁。
    同様の情報として、フランソワーズ・デポルト『中世のパン』見崎恵子訳、白水社、2006年、41頁。 ↩︎
  4. ローレン村の事例:パウル・ザルトーリ『鐘の本』吉田孝夫訳、八坂書房、2019年、250頁。
    ヘンゲン村の事例:前掲書、船田、196頁。 ↩︎
  5. 前掲書、フランソワーズ・デポルト、88頁。
    ↩︎
  6. ブリュノ・ロリウー『中世ヨーロッパ 食の生活史』吉田春美訳、原書房、2003年、61頁。 ↩︎
  7. 前掲書、船田、246頁。 ↩︎
  8. 前掲書、ロリウー、60頁。 ↩︎
  9. 前掲書、ロリウー、71頁。 ↩︎
  10. 前掲書、フランソワーズ・デポルト、66頁。 ↩︎
  11. 前掲書、阿部謹也、151頁。 ↩︎
  12. 前掲書、阿部謹也、151頁。 ↩︎
  13. 前掲書、フランソワーズ・デポルト、120頁。 ↩︎
  14. 前掲書、船田、141頁。 ↩︎
  15. 前掲書、ロリウー、247頁。 ↩︎
  16. 前掲書、フランソワーズ・デポルト、96頁。 ↩︎

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