早朝、台所の蛇口をひねる。が、水が一滴もでない。夜の間に水道が凍ったのだろう。ここでの生活は、当たり前のことが当たり前には存在しない。
気がつくと、山で暮らしていた

地方で暮らしはじめてから、2年が経とうとしている。短くはない月日が経ったものの、ときどき、以前の生活の断片が記憶からよみがえると、今の生活スタイルとのギャップに、戸惑ってしまう。
私は生まれも育ちも関東で、東京の大学に通い、東京の会社に勤め、東京で一人暮らしをしてきた。毎日目にしていたのは、駅から足早に会社へ向かう人波、塵ひとつないエントランス、エレベーター待ちする人の列、予約者名が表示される会議室のタブレット、暖色ライトのカフェエリア、席順が決まっていない白い机。
そして、ハッと意識を引き戻すと、私は山に囲まれた畑で、鶏が草をついばむ様子をながめている。え、どうしてこうなったんだっけ。以前の生活環境と、今の生活環境が違いすぎて、自分が同じ世界線上にいるのかどうか、疑わしくなってしまう。もしかして、両者は別世界で、もう一人の自分が、前の世界線上でまだ生きているのではないか…そんな空想をしてしまうほどだ。

「自然と動物に囲まれて暮らしたい」との夢は、幼い頃から抱いていた。人生の岐路においても、その夢はいつも念頭にあり、それに備えた選択を、意図的にしてきたと思う。
けれど、決断には何年もかかった。私は都会にしか暮らしたことがないため、田舎でうまくやっていけるのか、単純に不安だった。「田舎暮らしは、今の安定した暮らしを捨ててまで、やりたいことなのか」「もしうまくいかなくて、都会暮らしのほうがよいとなったとき、選択を後悔しないのか」…自問自答しながら、決断を先延ばしにしてきた。
やがて、さまざまな状況が重なり、もうここで決断しなければいけない、というタイミングがやってきた。そして、一年間の地方都市暮らしを経て、今は本当の「田舎暮らし」をしている。すなわち、車を30分走らせないと、コンビニやスーパーもないような山間部に暮らしている。
こうした生活を選んだ背景には、働き方の変化もある(以下記事参照)。

「生きる」って大変だ…
田舎に暮らしはじめてからの苦労はいろいろとある。
なかでも、快適に過ごすための環境メンテナンスを、自分の責任と技量でもってしなければならない点に、大変さがあると思う。言い換えると、住まいが僻地なので、何か問題が起きても、自分で原因を考え、自分で解決しなければならない。つまり、サバイバル力が求められるのだ。

ネズミの侵入
その例として、ネズミの侵入問題がある。都会にもネズミはいるが、建物内で見かけることはあまりなかった。管理が行き届いていて、ネズミの隠れ家になりにくいのだと思う。
しかし田舎の古民家では、侵入できる隙間がたくさんある上に、「屋根裏」という恰好の隠れ家があるため、ネズミが容易に住みつく。ネズミによってもたらされる実害はいろいろある。一つには、台所にストックしている食料を食べられる。とくに常温保存している野菜や、米びつにいれずに袋のままストックしている米を。もう一つには、夜中に天井裏で、ドタバタ活動して、人間の睡眠をさまたげる。極めつけは、フンが汚く、台所には不衛生だ。
もちろん、ネズミの罠や毒餌はずっと置いている。が、役に立ったことがない。奴らはとても警戒心が強く、賢いのだ。そのためできる対策といえば、侵入経路になっていそうな穴を塞ぐこと。また、あらゆる食べ物や生ゴミを、ネズミが一切齧れないように保管することだ。食べられるものがなければ、いなくなることも多い。
水がでない
別の例として、水道凍結問題がある。冬の山はたいへん寒く、雪もよく降る。冷え込む晩には、水道が凍ることもよくあり、完全凍結を防ぐためには、寝る前に蛇口を少しゆるめて、少量の水を朝まで常に流しつづける工夫が必要だ。
しかし一度は、蛇口をゆるめていたにもかかわらず、水がまったく出ない朝があった。おそらく、家の周囲の水道管のみならず、水源に近いほうの管も凍ってしまい、そもそも供給できる水が届かなくなったのだろう。他の原因でも、水がでなくなることが何回かあった。そのため、水のペットボトルを常に数本、ストックしている。
さらに一度は、お湯を出しているはずなのに、ずっと冷水のままで、風呂に入れない晩もあった。原因はおそらく、ボイラーまわりの管が凍ってしまったことだと思う。暖かい日に風呂に入れないなら、なんともないが、その日は水道が凍るだけあって、家じゅう冷蔵庫のような室温だった。身体が冷えきっていて、なかなか寝つけなかった。
結局、翌日にボイラーまわりを、ぬるま湯につけたタオルで巻いたところ、お湯が出るようになった。

植物の猛威
また別の例として、植物の猛威問題がある。初夏から秋にかけての約半年は、植物が人間の住処を呑み込まんとする浸食力がすごい。この状態を放置すると、手がつけられなくなり、再び土地を開拓するような、大変な労力が必要になる。よって、早め早めに力を減退させる活動、すなわち草刈りが必要だ。
暖かい時期の間は、少なくとも一カ月に1回、できれば二週間に1回は、家の敷地を草刈りしなければならない。暑いなかでの草刈りは重労働だが、快適な住環境のためには必要なことだ。草が伸びてくると、マダニや毒蛇(マムシ)が潜むリスクも上がるので、直接的な生命の安全のためにも、必要なことである。
ムカデ
あとは、虫がたくさんいる問題もある。しかし、慣れれば実害はほぼないので大丈夫。
実害のある虫はムカデで、刺されると二時間くらい、激痛でもだえるらしい。昨年の梅雨時期は、一日のうちに、家の中でムカデを三匹退治することも、珍しくなかった。ムカデはよく、人間が寝ている間に刺してくるため、その時期はこわくてなかなか寝付けなかった。対策として、テント型の蚊帳で寝ていた。
なんでもない日々が、なんて豊かなのだろう
このように、田舎暮らしでは、都会暮らしにはない苦労がいろいろとある。それでも私は、都会の便利な生活より、自然と共生する今の暮らしが、好きだと感じる。気に入っている点を一つ挙げるなら、「自分の好きなペースで、自分らしい日々をつくっていきやすい」点だ。

都会に暮らしていた頃は、行動ペースや行動内容の管轄権が、常に自分以外にあったように思う。つまり、社会が細かく刻んだ時間の下で、秩序だった行動することが求められていた。
例えば平日には、会社が定めた出社時刻がある。次に、それに間に合う電車の発車時刻。発車時刻に間に合うよう、家を出る時刻。それに間に合うよう、起きる時刻。起きる時刻から逆算して、十分な睡眠時間が取れる就寝時刻。就寝時刻に間に合うよう、家に帰宅すべき時刻。それに間に合うよう、残業を切り上げて会社を出るべき時刻。
休日には、多少時間に選択の余地があるが、それでも土日の「二日間」という決められた範囲がある。しかも、この二日間は、多くの会社員の休みの日なので、どこに行っても人がいて、「団体行動」ならぬ「団体休み行動」的雰囲気がながれている。そして、団体である以上は、決められた時間制限の下、秩序だった行動を求められる。その最たる例は、飲食店での席の利用が、2時間制であることなどだろう。
まとめると、都会では行動ペースや、なにをするかといった行動内容の型が、(意識的にせよ無意識的にせよ)社会によってある程度決められていると思う。人びとは、その型のなかで可能な選択をして、日々を過ごしていく。

いっぽう田舎の生活では、自分の好きなペースで、好きな生活をつくっていきやすいように思う。ここでいう「田舎」とは地方都市というよりは、オフィス街や繁華街がない、本当の田舎のことだ。
まず、田舎の人びとの仕事は、オフィスワークでない場合が多い。農業や漁業、材木業など、地元の人びとの暮らしと密接に関わる仕事が多い。個人経営の飲食店も多い。
そして収入源について、一つの仕事ではなく、複数の仕事である場合も多い。
例えば、畑を持っている人のほとんどは、本業とは別に、小規模な農業をやっている。そして、見栄えのよくできた農作物を産直市場などで販売し、売れない農作物を自家消費している。現にうちも、農作物や鶏の卵を販売して、収入源の一つにしている。
暮らしと地続きの仕事は、自分の采配でやることが多いので、自分の好きなペースで進められる。例えば、農業であれば、その日の天気や気候に応じて、どの作業を優先的にするかや、畑以外の仕事をするかなどを、決めることができる。ここでの仕事とは、どれだけ儲けられるかの「競争」ではない。仕事とは「日課」や「生きること」そのもので、プライベートとの境はないと言える。
暮らしと地続きの仕事で、たくさんの収入を得ることは、もちろん難しい。しかし、田舎ではお金を使う機会があまりないので、贅沢をしなければ生活できる。以下記事で書いたように、物欲があまりないことは、田舎暮らしで役立っているかもしれない。生活に必要なものが少ないから、この暮らしが成立している。


私は田舎暮らしのこの、「自分の好きなペースで、自分らしい日々をつくっていきやすい」点が気に入っている。それを思ったのは、街に買い出しに行った帰りに、ふと思い立って海辺に寄って、持参したパンを食べながら、ぼーっとする時間を過ごしたときだ。
春らしい、あたたかい日和で、室内で過ごすにはもったいない日だった。だが平日の真昼間だったので、もし都会の会社員であれば、ビルの中で、パソコンの画面を睨みながら、必死に働いていなければならない時間帯だった。私はそのとき思った。こんなに豊かな時間を過ごせて幸せだ。もう二度とサラリーマンにはなりたくない、と。
生き方を、自分がつくっていく
田舎暮らしは楽ではない。しかし、自分の采配で、自分の生活をつくることができる。誰かが決めた時間の流れではなく、自分が選んだ時間の流れにいる。
日々をただ過ごすのではない。創造できる。だから私は、この暮らしが好きだと感じる。


