本さえあれば何もいらない

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はじめに

老人的趣味嗜好の者は、なんてことない自然の風景に魅力を感じるものだ。
老人的趣味嗜好の者は、なんてことない自然の風景に魅力を感じるものだ。

私は小さい頃から芸能人やTV番組、最近だとYouTubeなどの配信サービスに全く興味がなく、学校でクラスメイトが話題にしている流行ものに関心がない人間だった。

社会人になってある日、わりと偉い管理職に一眼カメラで何を撮っているのか尋ねられた。「お花とか紅葉とかの自然風景が多いですね」と私が答えたところ、その人は「俺もさ、昔は全く自然に関心がなかったんだけど、歳をとってからそういうものに良さを感じるようになってきたよ」と言った。

え!?普通の人は歳をとってから自然を好きになるものなのか?と衝撃だった。そうか、私の趣味嗜好はどちらかというと若者ではなく老人なのか、と悟った瞬間である。

そんな私は最近、物欲がなくなったことに気づいた。きっかけはコロナ禍になって仕事が在宅勤務になったことだろう。

私はコロナ禍になってから会社を2社経験しているが、どちらも在宅勤務を推奨していた。すると、通勤のためのオフィス服や靴や、外見を整えるためのあれこれ(メイク用品とか)が不要になった。もちろん通勤はしなくても遊びにはいくので、身だしなみを整えるものがまったく不要になるというわけではないが、必要最低限で済むし、遊びにいく回数は通勤回数より少ないため、あらゆるものの消耗が減った。

本当に物欲がなくなったのか確かめるために、ここ数カ月での出費を振り返ってみた。光熱費・食費などの生活に必要な出費をのぞくと、残りは友達と遊びにいったときの「交際費」や年に数回、年末年始や長期休暇を取った際の「旅費」くらいだ。

大量消費社会とは逆を進み、散歩の際にどんぐりを拾ったり花を摘んだりするだけで満足できる私、老人的趣味嗜好を通り越して悟りの境地に達せるかも、と思ったが、肝心な出費を忘れていた。それは本の購入費だ。

これほどにも無欲な私が、なぜ本だけは欲するのだろうか?今回はそれを考えてみよう。

モノを購入する条件

去年の冬に一目ぼれして買った靴。

無欲とか言っているが、私はけっこう服や靴やアクセサリーが好きである。美しいものや素敵なものを身にまとうと気分もあがる。例えば、最近は上記のハイヒールパンプスを買った。個人的にモノを買うときの判断基準は、以下2点だと思う。

  1. それを使う場面があるか
    ※1回きりではなく値段の元を取ったと感じる回数
  2. 本当にそれを気にいっているか

上記のハイヒールパンプスとは、手持ちのパーティードレスに合う靴を探していたところで出会った。パーティードレスなんて滅多に着ないだろうと思わないでほしい、最近は年に数回のペースで友人の結婚式に招待されるのだ。「結婚ラッシュ」とかいうやつだ。そしてこの靴は一目ぼれしたモノだったので、①と②の条件を満たした買い物の好例である。

数年前に、『フランス人は10着しか服を持たない』という本が話題になった。趣旨を紹介すると、人は本当に必要な、気に入ったモノに囲まれて生活すると、大量消費社会の波に惑わされずに、満ち足りて生活できるという内容だ。べつにこの本の通りの生き方を目指そうと思ったわけではないが、最近はこの本の著者が言うことが実感として分かった。

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在宅勤務になる前に多かった買い物が、圧倒的に「2. 本当にそれを気にいっているか」の条件を満たさない買い物だ。職場に制服がある場合、それを着れば事足りるからよいだろう。また男性の場合、スーツという型は流行に左右されず一程度決まっているので、色違いや素材違いで何着か持っていれば、何年も継続して着れる。ほぼ制服のようなものだ。

女性のオフィスカジュアル服。あれほど無駄なものはない。というか服飾業界は女性のオフィスカジュアル服で稼いでいるといっても過言ではない。私が「2. 本当にそれを気にいっているか」の条件を満たさない買い物をしていた時、ほとんどのモノは通勤で身にまとう服と靴だった。

多くの女性はオシャレをしたがるので、職場環境さえ許せばきちんとしたスーツは着ない。オシャレな女性に囲まれていると、自分だけみすぼらしいのは嫌なので、それなりに流行にのったキレイめな服を買うことになる。しかしそれらは流行に左右されるものであるし、だからこそ長期使用を想定されておらず低品質ですぐ駄目になるので、悪いモノはワンシーズンで使えなくなる。

なんて無駄な買い物なんだ。環境にもよくない。クローゼットも腹立たしいほど低品質で無駄な服でいっぱいになる。だから前の会社の先輩はエアクローゼット(服のレンタルサブスクリプションサービス)を使っていたのか。

滅多に出勤しなくなった今、オフィスカジュアル服の購入が不要になり本当に嬉しい。今の私は、仕事で使用することを想定せずに、遊ぶときに着たい服と靴のことだけ考えればよいのだ。ちなみに私の服の好みは柄物(花柄・ペイズリー柄・水玉柄など)だし、派手な色の組み合わせで遊ぶことが好きなので、「清楚な女性代表」みたいなオフィスカジュアル服は好みではない。

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「1. それを使う場面があるか」の条件を満たさない買い物は、もとから滅多にしない。日常で使わないけれど購入するモノとは、鑑賞するためのモノだと思う。しかし私には収集の趣味があまりなく、唯一鑑賞のために買うものといえば、美術展に行くと売っている、絵画のポストカードだ。気に入った絵のポストカードが売っていれば購入し、専用のはがきファイルに入れて、いつでも見返せるようにしている。

物欲がなくなった理由

物欲がなくなったのは確かに、通勤のためのオフィス服や靴や、外見を整えるためのあれこれ(メイク用品など)が不要になったからである。だがより大きな理由は、購買欲を刺激される環境に行かなくなったからである。

都会は購買欲を刺激する媒体で溢れている。電車の広告、所せましと突き出た飲食店の看板、デパートのショーウィンドウ、漂ってくる焼き菓子の香り、洗練された服を身に着けた人びと。個人的には、街を行き交う若い女性が一番危険だ。流行の最先端を歩く彼女たちがどんな髪形・メイク・服装をしているのか、参考として観察していると、つい彼女たちが身に着けているのと同じモノが欲しくなってしまう。だってかわいいんだもん。

しかし、在宅勤務で、運動といえば家の周辺の散歩とランニングしかしない日々を送っていると、そうした購買欲を刺激される世界とは無縁だ。なるべく人の往来が少ない時間帯に外出し、桜の新葉が綺麗だな、とか、ハナミズキが咲きはじめたな、とか、うぐいすの鳴き声が心地よいな、とか思っていると満ち足りる。まじで老人かよ。

本が欲しいのはなぜだろう

学術文庫が並んだ区画。

そうして無の境地に達しつつある日々だが、本だけは欲しくなる。

いや、実を言うと本を買うのも最近は控えている。みんな知っての通り、本棚のスペースは有限である。人によって持っている本棚の数や大きさは違うだろうが、とにかく「これ以上はだめ」というスペースの上限がある。半年ほど前に、そのスペースの上限に達しそうになったため、既読の本のうち、手放しても我慢できる本を何十冊か手放した。それがとても悲しかったため、買ったまま読めないでいる積読本をむやみに増やさないほうがいいと痛感したのだ。

現時点で、少なくとも5年間は読み終わらない量の積読本がある。だから、実際に購入する本は厳選しているが、それでもAmazonの「ほしいものリスト」に本が次々と溜まっていく。そもそも私はなぜ本が欲しいのだろうか。

図書館の本を借りることで事足りないのは明白である。私がアクセスできる一番近い図書館までは電車に乗らなければいけないし、常に10年以上も入れ替えをしていないような蔵書のラインナップである。仮に図書館が家から近く、大学図書館並みにラインナップが充実してたとしても、以下の理由でやはり私は本を買うことを選ぶだろう。

  1. 本に書き込みができる
  2. 自分のペースで本を読める・好きなときに読み返せる

特に①の書き込みは重要だ。本の余白の書き込みのことを、ラテン語由来の英語で「マルジナリア」と言う。書物という媒体が生まれたときから人は、余白に書き込みをしながら自身の思考を深めてきた。学術書を読む際には、心惹かれた部分に線を引き、自分の考えや思いついたアイディアを記載しておくと、普通に読むのに比べて2倍以上の学びになる。またそうして出来上がった本は、自分オリジナルのネタ帳兼宝物になる。しかも本はその時点で完成ではなく、数年後に新しい考えやアイディアが追記されたりして、成長していくのだ。

※マルジナリアについて知りたい人におすすめの本は『マルジナリアでつかまえて 書かずば読めぬの巻

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では、本と本以外のモノの違いはなんだろう?

本以外のモノ、服や靴や化粧品は、購買欲がかきたてられるのに他者が存在が密接に関わっている。例えば、「みんなが持っているから欲しい」、「他の人に見栄えよく見せたい」と思うからそれらのモノを買うのだ。オシャレは自分の気分をあげるためでもあるが、オシャレした自分を視界に入れる周囲の目や、褒めてくれる人がいたほうが楽しめる。もしあなたが人里離れた山の中で暮らし、日々誰にも会わずに独りで過ごしているなら、自分だけを楽しませるオシャレなんて、馬鹿らしくてしなくなるだろう。インスタグラマーが写真を投稿するのは、承認欲求を満たすためでもあるが、オシャレした自分を誰かに見てほしいという心理もあると思う。

一方で本は、純粋に自分自身のためのものだ。学術本の場合には、自分の知的好奇心を満たすために読むのであるし、小説の場合には、その芸術性を味わうために読むのだ。購買欲を刺激されない世界で生活していても、人生をより豊かで楽しいものにするために、私は本を買うのだろう。人里離れた山の中で独りで暮らしていたとしても、私は本だけは買う自信がある。

そう考えると、大学に通うことと、本を読むことは似ている。世の中には「大学に通っても生活の足しにならない」と言う人がいる。その人は正しい、大学で学んだことが仕事に繋がる人はほんの一部だ。しかしその人は大学に通う目的をはき違えている。人は生活の足しにするために大学に通うのではなく、自分のその後の人生をより豊かで楽しいものにするために大学に通うのだ。

おわりに

今回は物欲がなくなり、無の境地に達しつつある私が、それでも本を買いたくなる理由を考えた。結果、本は誰かのために買うモノではなく、自分自身のために買うモノだということが分かった。また、それは自分の外面に関わることではなく内面に関わることで、私は自分の人生をより豊かで楽しいものにするために、本を買うようだ。

以上、本さえあれば何もいらない、だった。

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