創作物語

エルネスタと水たまり

はじめに

創作物語の回です。月に1回を目標に投稿していく予定です。お楽しみください。

エルネスタと水たまり

 エルネスタがうちへやってきたとき、ぼくは五歳だった。なぜそれほど具体的に覚えているかと言うと、当時のぼくにとって、彼女がぼくより年下か年上かという問題が、大きな関心事だったからだ。年下であれば彼女は妹になり、ぼくに初めて居丈高に振舞える家族ができる。年上であれば彼女は姉になり、ぼくは一家の末子という立場から抜けだせない。だからエルネスタと対面したとき、真っ先に彼女の歳を尋ねた。

「知らない」

 というのが彼女の答えだった。きっとお前と同じくらいの歳ですよ、と母は言った。ぼくは納得しなかった。同い年ということでよいではないですか、と母は言った。

「先にこの家にいたんだから、ぼくがお兄ちゃんだぞ」

「いいよ」

 あっさりとエルネスタが応えた。そうしてぼくは妹を得たが、この返答こそが、彼女のほうが大人であるという証拠にほかならなかった。

 ネランネ一家は代々軍人を輩出している家系で、地位も財力も十二分にあった。四人の男児に恵まれていたから、長子に何かあったとしても、跡取りの替えには困らず、両親は安心して暮らしていた。ところが安心したところで自分たちが持っていないもの、つまり女児がほしくなった。そうしてネランネ夫妻は、愛玩動物を手に入れるような気軽さで、孤児院からエルネスタを手に入れた。いわば金持ちの道楽だった。

 エルネスタは両親の期待通りに、愛嬌を振りまける子だった。その最たる例が、毎朝どんな服を着せられても、文句を言わずに朗らかに過ごすことだった。当時の両親の最大の楽しみは、都市へ外出してエルネスタのための服飾品を選ぶことだった。彼女と両親を乗せて街から戻った馬車には、いつも車内に収まりきらないほどの購入品が積まれていた。三人の兄も初めてできた妹に夢中で、休暇が訪れるたびにうちに帰ってきては、遠方の珍しい玩具や調度品を、彼女に贈るのだった。

 一方のぼくはというと、同じ年ごろの遊び相手ができて嬉しかった。かつて兄たちがぼくにそうしたように、屋敷の周りの遊び場へエルネスタを案内してやった。それは登りやすい樹だったり、魚がよく釣れる小川だったり、ベリーの群生地だったり、兎の巣穴だったり、宝物を隠した秘密基地だったりした。朝食が済むといつも、エルネスタは母好みのきれいな服をまとったまま、ぼくと並んで駆けだした。たまに母が引き止めて、彼女に帽子をかぶせたり、ケープをかけてやったりした。エルネスタは大人しく従うが、ぼくは知っていた。館が見えなくなるまで遠ざかると、彼女は邪魔な衣服を脱ぎ捨てて、身軽になってしまうのだ。

 雨上がりのある日、エルネスタが奇妙な言動を取ったことを、ぼくは思い出す。いつものように遊ぶための「身支度」をしていた彼女は、顎の下で結ばれた瑠璃色のリボンをほどいて、帽子を低木にかけた。と、足元の水たまりをしげしげと見つめながら、しゃがみこんだ。

「見てよ、ギョーム。すごくきれい……」

 ぼくも彼女の隣にしゃがみこんだ。水面にはぼくたちの顔が映っていた。

「なんのこと?」

 見返したエルネスタの顔には、困惑の表情が浮かんでいた。彼女は水面を見つめて、口を開きかけたが、それを閉じた。「なんでもない」丈の長い白のワンピースを脱いで、亜麻布の下着姿になった。

「行こう」

 ぼくの手を取り、エルネスタが先導した。ぬかるんだ道の上でも、彼女は羽根のように軽やかに駆けた。泥だらけになったぼくらは、小川で身体を洗い、水切り遊びをした。腹が減ると、侍女が用意したバスケットから、パンや果物を出して食べた。秘密基地の補強のために、形のよい枝を拾い集めた。日が暮れて、館を出たときと同じ格好にエルネスタが着替え終わるころには、ぼくは彼女の奇妙な言動など、すっかり忘れていた。再びそれを思い出したのは、十年の時を経てからだった。

 学校の夏季休暇で家に戻ってきていたときのことだ。館の侍女から、エルネスタの様子がおかしいと聞いた。近頃、彼女は物思いにふけることが多く、散歩中に急に立ち止まったきり、その場から半刻も動かないことがしばしばだと。

 さっそくぼくは、エルネスタを散歩に誘った。玄関ポーチで待っていると、両開きの扉が重々しく開いて、彼女が現れた。今となっては、両親が彼女を「選んだ」理由が容易に分かる。エルネスタは、これまでぼくが目にしてきたどの娘よりも、美しかった。彼女は、あの日に身につけていたのに似た、瑠璃色のリボンの帽子をかぶり、長いつややかな黒髪を風になびかせていた。

 ぼくたちは連れ立って森を歩き、ベリーの群生地で、ブルーベリーとクランベリーを摘んでは口に運んだ。「普段こんなことをしたら、家庭教師に怒られるんじゃないか」とぼくは尋ねた。エルネスタは神妙な面持ちで頷いた。

「行儀よくしなきゃいけないからって、木登りも魚釣りも、全部禁止されているんだ。こっそりしようと思っても、一人では出歩かせてくれないし」

「社交場には行っていないんだってね」

「あんな場所、行っても退屈なだけ。ギョームがずっとうちにいてくれればいいのに」

 この調子では、エルネスタには友達がいないのだろう。物思いにふけるようになるのも無理はない。そこまで考えてぼくは、十年前の、彼女の奇妙な言動を思い出した。

「前に水たまりを見て、きれいだと言ったことがあったよね」

 ベリーを摘むのをやめて、彼女が立ち上がった。

「……覚えていたの?」

「いま思い出したんだよ。あれはどういうことだったの?」

 エルネスタは黙したまま、ベリーの群生地を抜けて、小径に入っていく。ぼくも彼女の後を追って歩いた。木漏れ日がちらちらと、風でふくらむワンピースに揺れていた。

「頭のおかしな子だと思われるのが怖くて、言えなかったんだけど」

 木立を抜けて、小川に出たとき、エルネスタが立ち止まった。

「水面に、別の景色が映って見えることがあるの。春でもないのに、樹には花が咲いていて、草は青々としていて、空は朝焼けの紅色で。最近は、水場以外でも見えるようになった。木立の奥をふと見ると、見たこともない形の樹が生えていたり、人の頭くらい大きな木の実が落ちていたりする」

 彼女が振り返り、髪がなびいた。

「信じる?」

「エルネスタが嘘をついたことなんてないよ」

 微笑んだ彼女が、帽子を取った。瑠璃色のリボンをほどくと、「腕を出して」と言った。言われた通りに差し出すと、彼女はぼくの右腕にリボンを巻き、へんてこな結び目を作った。

「明日の朝になるまで、この結び目をほどいては駄目」

「どうして?」

「どうしても」

 不思議な遊びをするものだ、とぼくは思った。しかし彼女が満足するならそれでよい。なぜなら、ぼくは彼女のお兄ちゃんで、わがままを聞いてあげる立場にあるのだから。

 翌日、エルネスタは館からこつぜんと姿を消した。朝食を取るためにぼくが食堂に入ったとき、他の家族は揃っていたが、彼女の姿がなかった。席に着くと、父が食前の祈りの号令をとろうとした。

「……エルネスタは?」

 ひとときの間のあと、母が言った。

「何を寝ぼけているのです? さ、早く手を組んで」

 朝食を終えると、ぼくは食堂を飛び出し、エルネスタの部屋へ行った。名前を呼びながら戸を叩いたが、一向に返事がなかった。そばにいた侍女を呼び止め、この部屋の鍵を持ってきてほしい、と伝えた。やがて、鍵束を管理している侍女長がやってきた。彼女が鍵束から鍵を探している間、ぼくは緊張でどうにかなりそうだった。

 部屋の戸が開いたとき、埃っぽい匂いが鼻をかすめた。侍女長が室内に足を踏み入れると、手近なカーテンを開け、窓を開け放した。

「たまには空気を入れ替えないといけませんね」

 部屋のなかは空っぽだった。かつて兄たちが買ってきた数々の調度品どころか、寝台や文机さえなかった。

 その後もぼくは館じゅうを歩いたが、エルネスタが存在した形跡はどこにも見当たらなかった。それどころか、誰に尋ねてもエルネスタという名の少女を知らなかった。ということは、ぼくだけが長い長い夢想のなかにあったのだろうか? そう思って自室に戻ると、寝台のわきに瑠璃色のリボンが落ちていた。今朝ほどいたリボンだった。

 ぼくは丁寧にリボンを拾いあげながら思った。エルネスタはきっと、本来いるべき場所へ帰っていったのだろう。このリボンに、ぼくだけが彼女を忘れない魔法をこめて。

おわりに

幼い頃に読んだ『まじょ子』シリーズで、たしか一番最初に読んだのが、水たまりに飛びこんで別世界に行く話だったと思います。そのときから、水たまりに別世界が見えたら面白いだろうな、とおりおり思っていて、そんな考えを今回の物語に書きました。

西洋の伝承類型に当てはめると、エルネスタは「妖精の取り替え子」だったというわけです。

以上です。お読みいただきありがとうございました。前回の物語はこちら→『名もなき村の賢者

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