バイユーのタペストリー。1066年のノルマン人(ゲルマン人の一派)によるイングランド征服を描いている。

言語

過去の言葉のなごり

はじめに

ラテン語とはで触れたように、言語は生き物と同じで、生まれた瞬間から常に変化していくものです。たとえば日本人はかつて、自らの両親のことを「父上」「母上」と呼んでいましたが、現代では「お父さん」「お母さん」などと呼びます。

父母の呼称の例ほど長い期間の隔たりがなくても、世代が違えば使う言葉が異なる場合があります。たとえば「雰囲気」という字は「フンイキ」と読まれてきましたが、最近は「フインキ」と読む人もいます。このような言葉は、まさに変化の途中にあると言えます。

そのため、古代人が話していた言語と、現代人が話している言語は、地域によって程度の差こそあれ、異なるものになります。ただし、言葉のなかには寿命の長いものもあります。今回は、そのような寿命の長い言葉を紹介します。

一般的な規則

過去の言葉は、日常的によく使う言葉や言い回しに残っています。逆にいうと、低頻出の言葉や言い回しは、変化しやすいのが普通です。たまにしか使わない言葉を使用する場合には、以前の使い方を忘れて、異なる使い方をすることがあるからです。それが他者に伝播していくと、異なる使い方をする人のほうが多くなり、異なる使い方が正になります。

最も古い言葉が隠れた名前

『指輪物語 The Lord of the Rings』の作者であるJ.R.R.トールキンは、英国オックスフォード大学の文献学者でした。文献学とは、過去の言語や文献を研究する学問です。ときにはそれに基づく民族・時代文化も研究することもあります。たとえばグリム兄弟――彼らはドイツ国民の民族的団結のためにドイツの口頭伝承を集めた――も文献学者でした。

トールキンは『指輪物語』のなかで、「エルフ語」という自らが創作した言語を使用しました。実は彼が『指輪物語』を書こうと思った大きな理由の1つに、創作言語を使う場が欲しかったから、という理由があります(詳しく知りたい方は『J.R.R.トールキン―或る伝記』を参照)。

トールキンが創作したエルフ語は非常によくできているらしく、世の中にはエルフ語研究をする学者までいます。日本では伊藤盡さんがエルフ語研究の第一人者で、映画版The Lord of the Ringsの日本語字幕で、エルフ語監修を務めています。

さて、トールキンは物語世界に登場する言葉、とくに名称に非常にこだわりました。彼は文献学者なので、古い言葉がどこに残るか知っていました。そして、古い言葉で呼ばれるはずのものに、しかるべき名前をつけました。最も古い言葉はどこに隠れているのでしょう?それは、地名です。地名こそ、人びとが最も古くから使用している言葉の一つなのです。

バイユーのタペストリー。1066年のノルマン人(ゲルマン人の一派)によるイングランド征服を描いている。
バイユーのタペストリー。1066年のノルマン人(ゲルマン人の一派)によるイングランド征服を描いている。

英語の例を考えてみましょう。現代の英語は、つまりイギリス国民が話している言語は、様々な言語が混ざり合ってできました。イギリスにおける魔法の歴史で説明した通り、イギリスにはまずケルト人が、次にローマ人が、その次にゲルマン人が移住しました。そのため、現代の英語は、ケルト語とラテン語とゲルマン語が混ざっています。

ケルト人は文字を使用しない民族であったため、文字史料が残っておらず、彼らの言語を知る機会は少ないです。しかし地名について考えたとき、ケルト人の言語が由来していると考えられている地名がいくつかあります。たとえばロンドン(London)、テムズ(Thames)、エイボン(Avon)などです。

地名は長い時を経ても名称が変化しにくいと考えられます。なぜなら全く違う名前で呼ぶと、その土地を指していることが誰にも伝わらないからです。人の名前を本来とは違う名前で呼ばないのと同様です。これは、政治的理由による意図的な地名変更がどれほど難しいかにも、よく表れています。

文法における例外

過去の言葉のなごりは、文法規則における「例外」にも残っています。たとえば、ラテン系やゲルマン系言語には、必ず英語の不規則動詞に相当する動詞があります。つまり、時制による動詞変化の規則に当てはまらない動詞があります。

英語の例を考えると、動詞を過去形・過去分詞形にするには、語尾にedをつけるのが規則となっています。しかし例外がいくつか存在します。以下は、中学生が頑張って覚える、不規則動詞の一例です。

いる、存在する: be – was/ware – been

食べる: eat – ate – eaten

飲む: drink – drank – drunk

行く: go – went – gone

話す: speak – spoke – spoken

なぜ、これらの動詞はedをつけるという規則に従わないのでしょうか。それは、これらの動詞が、日常でよく使われる動詞だからです。

現代英語の祖語となる古英語(Old English、約450年から約1100年の間に使用されていた)においては、すべての動詞に複雑な語形変化がありました。つまり現代ではedをつければ済む動詞も、すべて今より複雑な語形変化が適用されていました。

例に挙げた「食べる」「飲む」「行く」「話す」などの動詞は、人が共同体で生活するなかで、一日に複数回使用する動詞です。そのような頻繁に使用する動詞については、現代まで語形変化のなごりが残りました。しかし使用頻度が低い動詞については、物が増え、外来語が増え、動詞の語彙が多くなるにつれて、語形変化が失われていきました。頻繁に使用しない動詞については、人びとは複雑な語形変化を覚えていられなかったからです。結果的に人びとは、低頻度の動詞における、過去形や過去分詞形には単純にedをつけて済ませるようになりました。

ちなみに、現代英語には性や格による名詞変化はありませんが、古英語の時代には、現代の仏語や独語と同様に、性や格による名詞変化がありました(厳密にいうと、格による変化は一部残っている)。勉強する面から言うと、楽になってくれてよかった!と思いますけれどね。

おわりに

今回は過去に使用されていた言葉が、現代における言葉のどの部分に残っているのかを紹介しました。言語は常に変化していくものですが、日常的によく使用する言葉については、過去の言葉からさほど変化していないことがあります。例として、地名と文法上の「例外」の2つを挙げました。

今回は「最も古い言葉が隠れた名前」として地名を挙げましたが、一般的に、名詞はあまり変化しないように思えます。たとえば日本語の「花」や「木」などです。特に、一音節や二音節で構成される名詞はかなり古くから使われていた可能性が高いです。なぜなら新しい名詞ほど、既存の名詞と被らないように、多数の音節から成る名詞になる傾向があるからです。

以上、過去の言葉のなごりでした。

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