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中世ヨーロッパの水車小屋 – 川辺にあった、いつもの風景

中世ヨーロッパの風景というと、まずは城や聖堂が思い浮かぶかもしれません。しかし、川沿いに立つ水車小屋もまた、当たり前の風景でした。

水の音が絶えず響き、粉の匂いが漂うその場所には、村の暮らしが集まっていました。水車小屋は、特別な装置ではなく、日々の営みの一部だったのです。

この記事では、中世ヨーロッパの水車小屋がどのように暮らしに溶け込み、社会のなかでどのような役割を果たしていたのかをたどります。

目次

川沿いに立つ水車小屋 – 中世ヨーロッパの風景

《水車と葦を刈る男性のいる風景》Jacob van Ruisdael、1653年頃、ボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館。

人が暮らす場所にはどこでも、小川のせせらぎと、水車の回る音があるーーそれが中世ヨーロッパの生活風景でした。というのも水車は、中世ヨーロッパの人びとの主食である、パンを作るために欠かせない動力だったからです。

皆さんもご存知の通り、パンの主要成分は、なんらかの穀物です。パン用に栽培された穀物の種類は、地域によってさまざまでしたが、例えば中世フランス地域では、小麦、ライ麦、大麦、オート麦などが栽培されていました1

どのような穀物も、パン生地にするためには、「粉」にしなければなりません。ゆえに穀物を粉状にする道具・ひき臼は、有史以前からパン作りと切り離せないものでした。そして、この「製粉」という重労働を、水車の動力で自動化することが一般的になったのが、中世という時代でした。

臼をひく古代エジプト人の像。この臼は「サドルカーン」と呼ばれる。第18王朝、地中海考古学博物館所蔵

じつは、水車の技術そのものは、紀元前から存在しました。水車を使う利点は、手で臼をひく労力から解放される上に、短時間で大量の穀物を製粉できる点です。ところが、古代期にヨーロッパで力を持っていた国々——古代エジプトや古代ローマ帝国など——は、奴隷の労働力が豊富だったため、彼らの粉ひきによって、水車を使うまでもなく、十分な粉が手に入りました。

ところが、ローマ帝国の衰退とともに支配体制が変わると、ヨーロッパに粉ひきをしてくれる奴隷はいなくなりました。そして人びとの生活は、自分が口にするものは自分で用意するという、ごく自然な自給自足生活に戻ります。すると、重労働な粉ひき仕事を代行してくれる、水車という技術への関心が高まっていきました。つまり中世期に水車が普及した背景には、一つには粉ひき人材が不足したことがありました。

具体的には、中世の盛期には、ひとつの共同体につき一棟の水車小屋の設置が一般的になりました。例えばフランス地域においては、11世紀以降には、どの地方でも水車が風景の一部として一般的になり2、ドイツ地域においては、1300年頃には、水車小屋の見られない村はないといわれるほどに、水車が広く普及していました3

なお、水車と同じ回転型の動力機には、風車もあります。風車も水車と同じく、中世期に普及しますが、安定的に風力を確保できる地域は、安定的に水力を確保できる地域に比べると、限られます。ゆえに、ヨーロッパ全体で見ると、風車の利用は限定的でした。

「ときどき強い風が吹く」程度では、製粉作業が滞ってしまうから、「常に、毎日、どの時間帯でも、強い風が吹く」くらいの条件がそろわないと、風車での製粉は難しいよ。

それに比べて、川の流れの強さは、毎日だいたい一定だから、動力としては安定しているね。

《風車》Thomas Creswick (1811–1869年)。

水車の利用は強制だった? – 領主と製粉の独占

ベルギーのBraine-le-Châteauの水車小屋(12世紀)

すでに紹介した通り、中世期に水車が普及した背景の一つは、粉ひき人材が不足したからでした。

とはいえ、水車小屋を建て、それを定期的にメンテナンスするには、高度な技術と莫大な資金が必要です。そのため、中世期に水車小屋を設置したのは基本的に、当時の富裕層である「領主」でした

領主とは、自らが所有し管理する土地(領地)をもつ人のことです。つまり、中世期に水車が普及した背景には、人材不足のみならず、領主の粉ひき場に対する利権がありました。

そもそも領主にとって、領民(領地に暮らす農民)が生産する穀物を取り締まることは、彼らの収入に欠かせないものです。というのも、現代のような貨幣経済が浸透していない中世社会では、現金ではなく、日持ちする穀物が、最も一般的な「税」として扱われたからです。

加えて穀物は、毎日食べる主食でもあるので、現金と同じで、いざという時に備えて、どれだけ蓄えても困らないものです。そう考えると当時の主要穀物は、今でいう「現金」の概念に最も近い物体だった、といえます。

日本でも昔から、お米を「税」として統治者に収めてきたよね。貨幣経済が浸透していない時代には、日持ちする、かつ実用性もある穀物を「税」とするのが、どの地域でも一般的だったんだ。

よって、領主が粉ひき場を自らの管轄下に置くことは、領民から税(穀物)を効率的に、漏れなく回収するために、ぜひしておいたほうがよい統治政策でした。具体的には、人びとの主食がパンであるということは、彼らは穀物を食べるために必ず「製粉」を行います。ということは、領主が「製粉」の場を取り締まることは、各領民が生産した穀物の全体量を正確に把握し、それに比例した税負担を、各領民に課せることを意味しました。

そうして中世社会では、領主が粉ひきを取り締まるために、水車小屋を建て、民が持ち込んだ穀物量に応じて、「製粉料」を課すようになります。製粉料は、一回の製粉ごとに徴収され、持ち込んだ穀物量の1/12~1/24の間で定められていました4

製粉料は、季節を通して一律とは限らず、繁忙期や閑散期に応じて率が変わることもあったよ。例えば、民が穀物の貯蔵切り崩しをを節制しがちな、クリスマス以降の製粉料を低くする、などの事例があるよ。

ところが領民たちにしてみると、穀物の収穫量に応じた税は、すでに「貢納」(土地の利用代)という形で収めていました。よって製粉料は民にとって、現代でいう「二重課税」のような印象でした。言い換えると、製粉料はたいてい、自分たちの食いぶちを必要以上に減らし、かつ、領主の私腹を肥やす悪税と思われていました

そこで民たちは、水車で製粉せずに、手間がかかったとしても、昔ながらの手回しひき臼で製粉したがりました。というのも、水車を利用しなければ、製粉料を払わないで済むからです。ところが、民にそれを許すと、領主は得られるはずの収入が得られず困ってしまいます。ゆえに領主は、民に手回しひき臼の使用を禁じ、水車の利用を強制するなどの措置を取りました。

こうした、領主が水車使用を強制し、民が抵抗して自家用の手回しひき臼を使い続けるという図式は、ヨーロッパの各地で見られ、その攻防は中世期以降も続きました。

整理すると、中世期に水車小屋を設置し、管理したのは、基本的に領主でした。つまり中世社会における、水車普及の背景には、領主の存在がありました。たしかに、水車の技術そのものは、製粉作業を楽にしてくれるものでした。しかしその技術が領主の利権になったことで、製粉のたびに製粉料(税)を払う社会構造が基本となり、民は水車の導入を手放しで歓迎するわけにはいきませんでした。

なぜ粉ひき屋は嫌われたのか

穀物の入った袋を、水車場に運ぶ女性。Le Mortifiement de vaine plaisance, 1470年頃。

水車技術と領主の結びつきを踏まえると、当時の社会で「粉ひき屋」が嫌われていた理由も分かります。

西洋中世史の文脈で、水車小屋に暮らしながら、粉ひきを請け負う職業の者を、「粉ひき屋」あるいは「粉ひき」などと呼びます。この粉ひき屋は、中世社会における、典型的な嫌われ者でした。

というのも、粉ひき屋は民から製粉料を徴収する仕事を請け負う、領主側の人間だったからです。さらに粉ひき屋は、民たちの村落共同体には属さず、領主が直接管轄している職業人です。そのため民と異なる、多くの特権を与えられていました。

もちろん、粉ひき屋も領主から、重い税負担などを課せられていたよ。だけど、それを考慮しても、農民と比べると高い経済的地位にあった、という見方が一般的だよ。

当時の粉ひき屋に対する、人びとの不信感がよく分かる例として、各地に次のような諺がありました5

  • 「正直な粉ひき屋は金の指をもっている(ほどに稀だ)」
  • 「絞首刑を宣告された粉ひきに、盗みをしない粉ひきを知っているかね、と聞いたら、粉ひきは皆同じさ、と答えた」
    → 農民が持ち込んだ穀物の一部を盗んでいるという疑い
  • 「粉ひきとパン屋は最後に餓死する連中だ」
    製粉料を必要以上に多くかすめとっているという疑い
  • 「粉ひきの子どもの指はすでに曲がっている」
    幼い頃から他人に暴力をふるう類の人間であることを示唆?

しかし、当時の粉ひき屋に対する忌避感情のわけを、たんに経済的な利害観点で解釈してしまうと、中世社会を少し誤解することになります。言い換えると、粉ひき屋に対する忌避感情には、「税を取りたてる領主側の者だから」だけではない、より深い理由がありました。

すなわち、粉ひき屋に対する忌避感情の根底には、彼らに対する「そら恐ろしさ」がありました。この場合の「そら恐ろしさ」とは、科学的思考を身につけた現代人が忘れてしまった、「超自然的な存在や事象に抱く恐ろしさ」です。

中世ヨーロッパの粉ひき屋は、その仕事の性質から、まぎれもなく「異界の住人」です。この場合の「異界」とは、共同体の外に広がる世界、すなわち超自然的な存在が支配し、そのルールを適用させている、と信じられていた領域のことです。その代表例は、町や村の外に広がる「森」でした。森の異界性については、以下記事で詳しく紹介しています。

粉ひき屋という職業は、以下の点で異界的な要素が強く、ゆえに人びとから異界の住人と見なされていました。

  1. 村はずれの川のほとり、しばしば雑木林に居(=水車小屋)を構える。村を囲う柵を一歩越えた先は異界なので、粉ひき屋の住まいは異界にある。
  2. 「水」を制御し、そのエネルギーでもって仕事をする。火、風、水などの、自然界エネルギーは、異界に属しているので、粉ひき屋は異界の力を操っている6

中世社会の一般思考においては、異界の住人は、普通の人間ではありません。異界の住人とは、超自然的な存在か、その手下で、いずれにしても、普通の人間には備わっていない、超自然的な力を操る者でした。

そのため粉ひき屋は、悪魔そのものか、悪魔の手下と見なされ、(そら恐ろしさとともに)人びとから嫌煙されていたのでした。その証拠として、ヨーロッパにのこる多くの伝説では、水車小屋は悪魔の住む場所として登場します。

粉ひき屋のような、中世社会における「異界の住人」をより詳しく知りたい方は、以下の記事を参照ください。彼らは「アウトサイダー」などと呼ばれたりもします。

水車小屋と悪魔・魔術のイメージ

強欲な人のまわりにむらがる悪魔。La Somme le Royの挿絵、1290-1300年頃、British Library。

悪魔の住処としての水車小屋のイメージが、分かりやすく描かれている物語例として、ここでは『クラバート』を紹介します。『クラバート』は、チェコスロバキア出身のプロイスラ―が、民間伝承の魔術師「クラバット」をモデルに執筆したファンタジー小説です(1971年出版)。

主人公の少年クラバートはある日、「シュヴァルツコルムの水車場に来い」と呼びかける、十一羽のカラスの夢を見ます。その声に導かれたクラバートは、件の水車場を尋ね、粉ひきの見習として雇ってもらいました。

ところが、水車場で暮らしはじめたクラバートは、水車場に奇妙な面がたくさんあることに気づきます。まず、普通の水車場では、近隣の村人から粉ひきを請け負うはずなのに、この水車場では、外部の者との交流がいっさいありません。それどころか、クラバートは近隣の者から「あの水車場には近づかないほうがいい」と警告されたほどでした。

次に、この水車場にある七台の臼のうち、一台はまったく使われていません。その一台は不気味なことに、先輩職人から「死のうす」と呼ばれています。しかし、しばらく水車場で暮らしているうちに、このひき臼がときどき、真夜中に使用されていることが、クラバートにも分かってきます。しかも、ひいているのは穀物ではなく何かの骨らしい、ということが……。

そして、クラバートの見習期間が終わったあと、水車場の秘密の一つが、明らかになります。じつは、水車場の親方は魔法使いで、仲間の十一人の職人たちは、魔法使いの弟子として、親方から指南をうけているのでした。つまり、クラバートは最初から、魔法使いの弟子見習として、親方に迎えられたのでした。

以上、簡単に『クラバート』のあらすじを紹介しました。こうしてたどっていくと、物語舞台となる水車場に、悪魔や魔術のイメージが結びついていることが分かります。具体的な要素としては、水車場が暗い湿地にあること、悪魔のしもべとしてのカラス、死を連想させる臼などです。

水車場の職人たちは、この水車場に来てしまった以上は、魔法使いである親方から、決して逃れられないことが作中で示唆されています。つまり、この物語上での「魔法」は、中世ヨーロッパの人びとが恐れていた、悪魔や魔女による悪しき魔法(※)なのです。その意味で『クラバート』は、伝統的な「悪魔の住処としての水車小屋像」が描かれた物語といえます。

※現代人にとって分かりやすいように「悪しき魔法」と表現したが、中世ヨーロッパ社会においては、「よい魔法」という概念は存在しない。「魔法」は「魔法」と呼ぶ時点で、異教のものなので、すべて悪しき魔法である。詳しくは以下記事を参照ください。

製粉だけではない – 水車が動かした中世社会

セーヌ川の橋脚に設置された、浮き水車。1317年頃。

中世ヨーロッパにおける水車は、第一に製粉機械として利用されました。

しかしながら中世期における、ほぼ唯一の動力源と言ってもよい水車(風車)は、当然、ほかの仕事にも利用されました。言い換えると、中世期に何らかの手作業を楽にしようと思ったとき、使える技術は水車くらいだったので、水車の動力で代替できる工程がある場合に、人びとはまず、水車を使おうとしたのでした。

製粉以外に、水車の動力が利用された作業には、以下のようなものがありました7

  • 布の縮絨しゅくじゅう
  • 皮なめし
  • 製鉄
  • 製紙

このような水車の利用の広がりは、中世社会の産業発展を下支えしていくことになります。つまり、中世期における水車は、粉をひくだけの技術ではなく、社会を回す仕組みだったのです。

おわりに

今回は、中世ヨーロッパの水車小屋をめぐる、文化と社会構造を紹介しました。

水車は中世の村にごく自然に存在し、とくに盛期には、一つの共同体につき一棟の水車小屋設置が一般的になりました。その背景には、製粉の効率化だけでなく、人手不足といった事情がありました。

また、水車の設置と維持には多大な費用がかかるため、領主の関与は不可欠でした。その結果、水車は便利な技術であると同時に、製粉料の徴収という社会構造の一部にもなります。

水車小屋に暮らす粉ひき屋は、領主側の人間として見られる一方で、どこか異界めいた存在として忌避されることもありました。水車小屋が悪魔や魔術の舞台として語られた背景にも、そうした社会的・心理的距離があったと考えられます。

さらに水車は製粉にとどまらず、さまざまな産業へと利用が広がり、中世ヨーロッパの経済活動を支える基盤となっていきました。

城や聖堂ほど目立つ存在ではありませんが、水車小屋もまた、中世ヨーロッパの暮らしを支える風景のひとつでした。川の流れにあわせて回りつづける水車。その音は、人びとの日常のリズムでもあったのです。

中世の村を思い浮かべるとき、ぜひ川辺の水車小屋も、その風景のなかに加えてみてくださいね。

参考文献

  1. フランソワーズ・デポルト『中世のパン』見崎恵子訳、白水社、2006年、9頁。 ↩︎
  2. 同書、17頁。 ↩︎
  3. 阿部謹也『中世を旅する人びと――ヨーロッパ庶民生活点描』筑摩書房、2015年、128頁。 ↩︎
  4. 前掲書、デポルト、29頁。
    ↩︎
  5. 前掲書、阿部謹也、122-123頁。 ↩︎
  6. 詳しくは拙著『心情の中世ヨーロッパ ——なにを恐れ、なにに安らぎを見出したか』(2025年)「粉ひき屋」の項(43-47頁)で解説しています。 ↩︎
  7. 前掲書、デポルト、18頁。 ↩︎

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