創作物語

海となぎさの間にある1エーカーの土地

約4カ月ぶりに執筆した、創作物語です。お楽しみください。

海となぎさの間にある1エーカーの土地

 紅茶に浸したマドレーヌの香りが鼻孔をかすめた瞬間、忘却のかなたにあった記憶が、まざまざとよみがえる。プルーストの描写したこの記憶の救出劇が、ある日わたしの身にも起こった。もっとも、私の場合はマドレーヌではなく、一枚のノートの切れ端がきっかけだったが。

 最近の町の一大ニュースといえば、さきの嵐によって、教会の鐘楼に亀裂が入ってしまったことだった。もともと老朽化が進んでいた教会に対し、いつか補修工事をしなければならないことは、町民間の共通認識だった。そこで今回の損傷をきっかけに、工事に向けた話が具体的に進みはじめた。平行して、資金集めのために、教会でバザーが開かれることになった。

 そういうわけで休日の朝から、出品できるものを探して、妻が家の中を行ったり来たりしている。あちこちの部屋を見てまわったあと、居間で新聞を読んでいた私の元へやってきて、書斎で埃をかぶっている本をいくつか、バザーに出品してはどうかと尋ねた。紙面から顔をあげた私は、紅茶を一口のんで、答えた。そうだな、子供たちも大きくなったし、児童向けの本はもういらないかもね。私が本の整理をする気になったと見てとると、妻は勝手口を通って、庭の物置を見に行った。犬のクラウドが、尻尾を振りながら、トコトコと後を追っていく。

 換気のために、書斎の窓を開け放つと、色づいたカエデの葉が一枚、舞い込んできた。風に吹きつけられたのだろう、家の外壁に沿って、落ち葉が溜まっている。あとで掃かなければならないな、と思いながらシャツの袖をまくった。陽光に照らされた床板と対照的に、暗がりに沈みこんでいる本棚の一画に目を留め、本を数冊、取り出した。それらを机に積み上げるたびに、うすく積もった埃が、光のなかに舞った。

 棚の一画をきれいに拭きおわった私は、本の埃を落とす作業に入った。積み上がった山から一冊ずつ手に取り、埃を払っては、棚に戻した。あるいは、誰も読まないだろう、と判断した本は、あとで妻に渡すために、別の机に積み上げた。そうして作業を続けていると、不意にひらりと、紙切れが足元に落ちた。それは、四つ折りにされたノートの切れ端だった。私は紙を拾って、広げてみた。

 紙面には、色鉛筆でつたない絵が描かれていた。赤い果物の実った樹がたくさん描かれているから、森を描いた絵だろうか。キツネやウサギらしき動物も描かれている。息子たちの誰かが、幼い頃に描いた絵だろう。そう思って折りたたもうとしたとき、端に書かれた文字が目に入った。《一エーカーの土地》。私は雷に打たれたように固まった。

 きれいな声で歌う子だった。十歳かそこらだった私が、学校からの帰路についていると、空き家だったはずの家の敷地から、歌声が聞こえてきた。私は蔦植物にびっしり覆われた柵の前を右往左往して、庭をのぞけそうな場所を探した。すると一本の大樹が生えた場所だけ、柵が途切れていた。大樹の陰から、そっと視線を投げる。ぼうぼうと草が生えた庭の一画に、あおむけに寝転がるワンピース姿を見つけた。

 私はその子と会話した、と思う。生成のワンピースは、草の汁でところどころ汚れていて、栗色のおさげには草が絡まっていた。今となっては、顔も名前も思い出せない。快活で、よく喋る子だったが、話の途中でげほげほと咳き込み、うずくまってしまった。その様子に気づいた母親が、戸口から出てきて、娘の背中をさすった。母親は、彼女が喘息持ちであることを教えてくれた。一家は以前、ロンドンの市街地に暮らしていたが、娘の健康のために、片田舎にある私たちの町に越してきたのだった。

 それからというもの、学校からの長い帰路が楽しみになった。放課後にはたいていの場合、学友と遊ぶ約束をしていた。ところが彼女に出会ってからは、約束より遅れて集合場所に行くことが多くなり、ときには急な家の用事ができたことにして、すっぽかすこともあった。

 あの子の家が近づくにつれて、私は耳をすます。最初は風にのってかすかに、歌声が聞こえる。あの子に会いたいとの、私の願望が幻聴となって聞こえるのではないか、と疑い歩調を速める。やがて、歌声が本物であることを確信し、駆け足になる。二階の角部屋が彼女の部屋で、新鮮な空気を入れるために、いつも窓が開け放たれていた。レースのカーテンが揺れる向こうから、歌声が聞こえてくるのだった。

 私が大声で呼びかけると、歌声が止み、窓辺に彼女が現れる。彼女は医者の言いつけで、外出を制限されていたから、いつも家の敷地内で過ごしていた。私たちは庭のベンチに腰掛け、様々なことを話した。彼女はいつか、丈夫な身体になって、インドへ遊びにいくのだと意気込んでいた。叔父か祖父だったと思うが、そこには彼女の親戚が暮らしていて、インドでの出来事を、手紙で彼女に教えてくれるのだった。

 彼女はインドで、虎を見たいと言っていた。また、夕日の美しい浜辺を歩きたいと。インドの蒸し暑く、病気が蔓延しているイメージしか知らなかった私は、そのような国へ行ったら、彼女の喘息が悪化するのではないかと、心配だった。今思うと、イギリスの気候は、彼女にとって陰鬱すぎたのかもしれない。彼女は爽やかな夏の風と、海の香りをまとっている、ニンフのような女の子だった。

 単純だった私はすぐに、好きな子の病気を治すために、医者になりたいと思うようになった。ある日、母にそのことを打ち明けてみた。母は目を丸くして私を見返した。そうねえ、と言って母は、夕飯に使う、ジャガイモの皮むきに戻った。うちに一エーカーの土地でもあればいいんだけれど。

 医者を目指すことと、一エーカーの土地に何の関連があるのだろう? ほどなくして私は、医者になる人はみな金持ちであることを知った。なぜなら、医学の勉強をするにはお金がかかるからだ。つまり医者になるためには、土地や家などの、何かしらの資産が必要だった。私は子供ながらに、ショックを受けた。勉強が苦でなかった私は、その気になれば、将来どんな仕事にも就けると思っていた。しかし二十世紀になった今でも、靴職人の息子は靴職人しかなれないし、修理工の息子は修理工にしかなれないのだった。

 やがてニンフは、窓辺に姿を見せなくなった。彼女の部屋の窓は、くる日もくる日も、固く閉ざされていた。心配になってきたある日、彼女の母親が、戸口から出てきたところに遭遇した。母親に話を聞くと、彼女は具合が悪くなって、病院に入院したとのことだった。私は大急ぎで帰宅し、ノートの切れ端に「一エーカーの土地」を描いた。それから教会に行って、紙を握りしめながらお祈りした。彼女の具合がよくなるようにお助けください……、あるいは、ぼくに一エーカーの土地をください。猛勉強して、きっと医者になりますから……。

 ある日、町なかを歩いていると、ガラガラと馬車の近づく音が聞こえた。名前を呼ぶ声に振り返ると、あの子が馬車の窓から身を乗り出し、私に向かって手を振っていた。すっかり喜んだ私は、馬車に駆け寄った。彼女が言うには、体調がよくなったから、退院して帰ってきたとのことだった。私は、彼女が家の敷地外にいる姿を初めて見た。外出用の服は、ロンドン子らしい、洗練されたデザインだった。馬車には彼女の父親と、私より年上とおぼしき、見知らぬ少年が同乗していた。彼は父親の友人の息子で、父と同じく、医者を目指して勉強中とのことだった。

 アルバート、との声が庭から聞こえて、私は意識を引き戻した。

 本の整理が一段落したら、庭の落ち葉を掃いてくれない? 明日は雨になりそうだって、新聞に書いてあったわ。

 いま行くよ、と返事をした私は、ノートの切れ端をたたんで、適当な本の間に挟んだ。小学校を卒業してからは、通学路が変わったため、あの子とは疎遠になってしまった。しかし成長するにつれて、彼女の調子はよくなっていると、風の噂で聞いた。数年後には、一家でロンドンに戻ったと聞いた。今頃あの子は、インドで暮らしていて、夕日の美しい浜辺を、毎日あるいているのかもしれない。

あとがき

「小説家になろう」の公式企画「秋の歴史2024」への参加をかねて書きました。公式企画は毎年、四季ごとに開催され、春が推理、夏がホラー、秋が歴史、冬が童話と定められています。2022年にはじめて参加し、それ以降、秋と冬の企画で参加しつづけていたので、今年もなんとか参加したい! と思って書きました。

なぜなら、これまでの傾向を見ると、企画のために書いた物語は、出来のよい傾向にあるからです。おそらく、他者から提示されたテーマ縛りがあったほうが、いつもと違ったアイディアが生まれやすいのだと思います。ちなみに、これまで企画にあわせて書いた物語は、以下の通りです。もしかすると、皆さんのお気に入りの物語もあるかもしれません。

さて、今回の秋の歴史のテーマは、「分水嶺」でした。分水嶺とは雨水が分岐する尾根をさすことから、転じて、物事の方向性を決定づける大きな分かれ目という意味があります。今回の物語は、「もし主人公が1エーカーの土地をもっていたら」というテーマにしました。

私が育った家は、どちらかというと貧しいほうだったので、幼い頃から、周りの友人が普通に手に入れられるものや境遇を、我慢したり、諦めたりすることが多かったです。そのため、経済的格差により将来の進路が狭められたり、奨学金の返済のために結婚ができなかったり子を持てなかったり、という現代日本の状況は他人事ではありません。よい方向に変えたいとの想いをこめて、今回の物語を書きました。

題名の「海となぎさの間にある1エーカーの土地」は、イギリスの民謡『スカボロー・フェア Scarborough Fair』の歌詞から採用しました。この民謡は、実現不可能な仕事を成し遂げれば、元恋人と再び結ばれるだろう、という内容を歌っています。実現不可能な仕事とは、例えば、「縫い目のないシャツをつくる」「枯れた井戸から水をくむ」といった仕事です。

次々と挙げられる仕事の一つに、「海となぎさ(波打ち際)の間に1エーカー(約4047平方メートル)の土地を見つける」というものがあります。実際には、海となぎさの間には、世界中どこを探しても、そのような広さはないのです。歌を聞きたい方は、以下のサイモン&ガーファンクル版をどうぞ。

「紅茶に浸したマドレーヌ」の話は、プルーストの『失われた時を求めて』の冒頭(冒頭……?)に記載された話です。有名すぎて、香りを契機に記憶がよみがえることを、「プルースト効果」などと呼びます。

今回の物語は、会話文が少なかったので、鍵括弧「」を使わないことにしました。私の好きな作家の一人である、アントニオ・タブッキがこの方法を好んで使います。独特な雰囲気がでて面白いので、マッチする物語があれば、また採用してみたいです。

次は、冬の童話企画に参加する予定なので、遅くともその頃には新作を投稿できると思います。お読みいただき、ありがとうございました!

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