はじめに
2024/8/10(土)に11回目の読書会を開催しました。今回は課題本型で、課題本はフィツジェラルドの『グレート・ギャツビー』でした。当日は著者や本のあらすじをおさらいした後、物語内容について考察しました。その記録を本記事に記載します。
- 読書会はTwitter上で参加者を募り、オンラインで開催しています。
- 今回参加いただいた方は2名でした。
フィツジェラルドについて
フィツジェラルドは、1989年に、アメリカのミネソタ州セントポール市で生まれました。両親はアイルランド系で、カトリックを信仰していました。
ミネソタ州は、五大湖の一つスペリオル湖に接する州で、ミシシッピ川が流れています。アメリカ国土を4つの区分に分けたときの「中西部」に該当します。(のちに解説しますが『グレート・ギャツビー』では中西部という単語が重要になります)
フィツジェラルドの「フランシス・スコット・キー」という名前は、父の遠縁にあたる、アメリカ国歌の作詞者の名前から採用されました。彼も同じくフランシス・スコット・キーという名前です。
セントポールのビジネス街(2008年)。東部と比べるとやはり田舎である。
生まれてすぐに、父の会社(家具工場)が倒産しました。そのため、新しい仕事の関係で一家は一時、ニューヨーク州に暮らしましたが、フィツジェラルドが9歳の頃には、再びセントポールに居つきました。セントポールは、フィツジェラルドにとって故郷の街になります。
フィツジェラルドは、地元の学校に入学し、10歳の頃から、校内誌に作品を発表しはじめました。15歳の頃に書いた脚本が演劇家の目に留まり、演劇の公演に採用されたこともありました。
フィツジェラルドは、ニュージャージー州のプリンストン大学に進学しましたが、大学のアカデミックな雰囲気が肌にあわなかったようで、休学をしています。1917年、第一次世界大戦が始まると陸軍に入隊し、大学を中退しました。
陸軍の訓練時代、ダンス・パーティーにて、のちの結婚相手になるゼルダに出会いました。彼女は名家の娘であると同時に、「アラバマ・ジョージアの2州に並ぶ者無き美女」で、数々の男性に言い寄られていました。他の候補者との競争が、ゼルダを追い求める気持ちを駆り立て、フィツジェラルドは熱烈にアプローチをしました。ここまで読んでお分かりかと思いますが、『グレート・ギャツビー』のヒロイン・デイジーにはゼルダの姿が投影されています。
フィッツジェラルドは、戦争が終わり陸軍を除隊した際に、ゼルダとの婚約にこぎつけ、広告代理店のコピーライターとして働きはじめます。ところが、ゼルダは彼の経済能力を不安視し、婚約を解消してしまいました。
1920年に、フィッツジェラルドは『楽園のこちら側』を出版します。それがベストセラーとなったことで、ゼルダは再び婚約に応じ、同年に2人は結婚しました。フィツジェラルドが31歳、ゼルダが20歳の頃でした。翌年には娘が生まれました。
ベストセラー作家の仲間入りをしたフィツジェラルドと、妻のゼルダの生活は、ニューヨークのスターらしく奔放なものでした。その醜態に顔をしかめられ、出禁になったホテルも多々ありました。結婚したばかりの1920年代は、フィツジェラルドの全盛期でした。
36歳の頃、3作目の小説『グレート・ギャツビー』を出版します。しかしそれまでの作品と異なり、重厚で文学的だったため、ファンからは不評でした。名作として評価されるようになったのは、死後10年以上経ってからでした。
フィツジェラルドの生活に影が落ちはじめたのは、1929年からでした。その年には世界恐慌が起こり、翌年には妻ゼルダが、統合失調症の発作を起こしました。
フィツジェラルドは借金の返済と娘の学費のために、ハリウッドのシナリオライターになります。療養施設で暮らす妻とは疎遠になり、ゴシップコラムニストの愛人・シーラと暮らしはじめました。シーラは売れっ子だったため、彼女に養われている状況でした。
フィツジェラルドは若い頃から酒飲みで、この頃にはアルコールが手放せなくなっていました。健康状態が悪化した結果、51歳の頃に心臓発作で亡くなりました。
彼の墓石の手前には『グレート・ギャツビー』の一説が刻まれています。最後の一文の”So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past.“で、日本語に訳すと以下になります。
「こうしてぼくたちは、絶えず過去へ過去へと運び去られながらも、流れにさからう船のように、力のかぎり漕ぎ進んでゆく」(野崎孝訳)
「だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へ通し戻されながらも」(村上春樹訳)
『グレート・ギャツビー』について
※ネタバレを含むので未読の方は注意!
『グレート・ギャツビー』は、ニューヨーク郊外の自宅にて、毎日のように豪華絢爛なパーティーを開いている男・ギャツビーのひと夏の物語です。ギャツビーの邸宅の隣に越してきた、中西部出身のニックの視点で語られます。
ギャツビーとニックは、ともに作者であるフィツジェラルドの分身であり、それぞれ別の性質をもっていると同時に、心理学的に言うと「もう一人の自分」で、反発したり惹かれ合ったりします。作中では2人は「同年代」とされており、ニックが30歳であるのに対し、ギャツビーは31-32歳とされています。
ギャツビー本人に会うまでニックは、噂に聞く金持ちの隣人を中年のおじさんだと思っていました。ところがある日パーティーに招かれ訪ねてみると、ギャツビーであると名乗ったのは、派手な生活には似つかない、慎重な物言いの上品な田舎者でした(ニックと同じく中西部出身)。
出自不明で、「人殺しの目をしている」とも噂されている男・ギャツビーがパーティーを開く目的は、彼の想い人であるデイジーに再会することでした。彼はわざわざ、かつての恋人だったデイジーが暮らす家の対岸に居をかまえ、誰でもかれでも歓迎するパーティーを開くことで、彼女がいつか来てくれることを期待していたのでした。
ギャツビーとデイジーはかつて恋仲でしたが、会えない期間が長くなったために、デイジーはギャツビーを捨てて、自らの容姿・地位・財産にふさわしいトムと結婚していました。ニックがある日パーティーに招かれた理由は、デイジーの遠い親戚かつ友達である彼に、デイジーとの再会の仲介をしてもらうためでした。
そうしてやっとデイジーと再会できたギャツビーは、彼女の夫になることを願いました。しかしデイジーはトムと離婚してまでギャツビーと一緒になろうとは思えませんでした。振られた直後に、ギャツビーは事件に巻き込まれて命を落とします。その間にニックが彼に打ち明けられた話によると、ギャツビーは、偽名まで使って成り上がった元貧乏人でした。
物語にはさまざまな主題が読み取れ、例として以下の通りのものがあります。
- 恋に狂わされる人生
- 金持ちには2種類いること(名家と成金)
- 成金は名家に敵わないこと
- きらびやかな東部の生活は腐敗だらけであること
- 田舎くさい中西部にもよい面はあるあること
『グレート・ギャツビー』は過去に何度も映画化されており、一番知られているのはレオナルド・ディカプリオがギャツビーを演じる『華麗なるギャツビー』でしょう。以下が予告編です。
小説で読んだときのギャツビーのイメージは、冴えない地味なつまらない青年、むしろ少し生理的嫌悪もわく青年、という感じでした。そのため「イケメン代表!」なディカプリオが演じていると知ってびっくりしてしまった……。
配役ミスでしょ、と思いましたが、原作の再現としては失敗でも、映画としては配役成功なんでしょうね。なぜなら、映画はビジュアルが勝負なので、とにかく予告で映えなければならないし、ディカプリオが主演ということだけで映画を観てくれるファンがたくさんいるのです。たとえるならインスタとTwitterの戦略の違いのような感じです。
小説の日本語訳で今手に入るのは、新潮社(野崎孝訳)、中央光文社(村上春樹訳)、光文社( 小川高義訳)の3種類です。野崎孝による翻訳が最初で、その間に複数人が訳しており、村上春樹、小川高義のものはかなり最近です。途中、題名が『華麗なるギャツビー』になったこともありますが、今手に入る3冊は『グレート・ギャツビー』で統一されています。
読書会において、「華麗なる」だと意味が浅いという意見がありました。本当にその通りで、英語の「グレート」のままにすることで、読了後に「実はこんなことも含意していたのか」と気づくことができます。のちほど詳しく説明していきます。
フリートーク
ここからは参加者の皆さんとお話したことを紹介します。記事に書く都合上、一程度のまとまりに分けて記載します。
アメリカン・ドリームの物語展開
一発当てて金持ちになった者が一転して落ちぶれていく、という物語展開はアメリカに多い、という意見がありました。言い換えると、アメリカン・ドリームを叶えた者が落ちぶれていく展開です。例えば、映画『ウルフ・オブ・ウォールストリート』も同じプロットであり、主人公は金もうけに注力するあまり、犯罪にも手を染めて捕まってしまいます。
『ウルフ・オブ・ウォールストリート』は起業家のジョーダン・ベルフォートの自伝が基になっています。この映画が大きな成功を収めたことからも、アメリカでは人生の成功=自分の力で富と名声を得る、だということがよく分かります。彼らは「自分たちの力でアメリカ大陸を切り開き、発展してきた(※)」という自負から、ヨーロッパ大陸における元貴族のような、先祖代々の遺産で金持ちの名家の人を、どちらかというと軽蔑するのです。
※先住民のことを考えると、傲慢もはなはだしい考えである。
同様に「自分の力で富と名声を得る」物語として、私はハイラインの『夏への扉』を想起しました。『夏への扉』も、主人公が自分の発明によって富と名声を獲得する(そしてアメリカらしく、発明特許を友人に横取りされて争う)物語です。
『夏への扉』では、主人公が富と名声を得る一方で、少なくない人に迷惑をかけています。「自分が成功すれば他者はどうでもいい」という考えがにじみでている点が、個人的には嫌で、アメリカ人は自己中……世間の人気とは裏腹に、そこまで好きになれない物語でした。しかし展開としては面白いし、SF好きな人は絶対に読んでいる名作の古典SFです。
『グレート・ギャツビー』の主人公が事故死して人生の幕を閉じる一方で、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』の主人公は、釈放されたあとに再び、一攫千金を目指してビジネスをはじめます。
アメリカでは「告訴社会」と言われるように、誰かに訴えられて裁判になることは日常茶飯事であり、成功した者がどん底に落ちることも、再起することもよくあります。イメージ像としてはト○ンプ氏や、ホリ○モンですね。一度地に落ちたからといって終わりではなく、また頂点に登りつめてやろう、という気概がアメリカン・ドリーム精神なのです。
ちなみに営業職やコンサルタント職の面接で定番の、「このペンを私に売ってみてください」という問い(その人の商才を見極めるための質問)は、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』が元ネタです。物語の最後で、再び一攫千金を狙う主人公が、セミナー会場にて参加者に、その問いかけをするそうです。
大戦特需の時代背景
第一次世界大戦(1914-1918年)が起きたことで、一番もうかった国はどこでしょうか。それはアメリカです。大戦がはじまった当初、アメリカは中立の立場を示し、イギリスを中心とする連合国側にも、ドイツを中心とする中央同盟国側にも軍事品を売っていました。戦争が終わった後も、戦後復興のための物資を販売することで、世界の富をアメリカに集中させました。
つまり、『グレート・ギャツビー』の物語舞台となっている、1920年代は、アメリカが好景気の時期でした(フィツジェラルド自身の全盛期でもあった)。日本でたとえるとバブル期でした。その時代背景もあって、ギャツビーは貧乏人から金持ちになれたのだろう、という意見がありました。明確には言及されていませんが、ギャツビーは金持ちになるために、後ろ暗いビジネスもやってきたことが匂わされています。
デイジーの夫トムに愛人がいたり、デイジーもトムがいながらギャツビーと遊んだり、という登場人物たちの退廃した状況は、いくらでも金があり、輝かしいパーティーを毎夜開けた、この時代の状況をよく表しているといえます。ところが、好景気が永遠に続くわけはなく、1929年にウォールストリート街の株が大暴落して、世界恐慌が始まるのです。
金持ちとしての大成を目指すむなしさ
毎夜きらびやかなパーティーを開いていたギャツビーですが、パーティーに来る人びとが求めているのは「パーティーという場」であって、ギャツビーに会いに来ているわけではありませんでした。そもそもギャツビーは素性を明かさない、謎の人物で近寄りがたさを放っています。
そのため、ギャツビーの葬式に参列した人は、語り手であるニック、ギャツビーの実父、ふくろうのような眼鏡男の、たった3人だけでした。毎夜毎夜、あれほど多くの人で自宅を満たしていたギャツビーだったのに、最後に会いにきてくれた人はたった3人だったのです。
この展開から、「お金があるからといって友達はできない」という意見がありました。実際の金持ちも、多くの人に囲まれていながら、実はその誰とも心から友達ではない、という状況がありそうです。お金を持っているよりも、真の友達をもっているほうが、ずっと幸せなことです。
きらびやかな都会の影の面
語り手であるニックは、中西部出身の、インテリな田舎者です。主要な登場人物である、ギャツビー、デイジー、トム(デイジーの夫)も同じく中西部出身で、東部のきらびやかな都会的生活を好んで、ニューヨーク郊外に居をかまえています。
物語の冒頭で、ニックは都会的生活に憧れて、ギャツビーの邸宅の隣に引っ越しました。最初は都会的な生活を楽しんでいたニックでしたが、デイジーやトムを取り巻く退廃した雰囲気が嫌になり、「食傷気味」になってしまいました。物語の終盤では、ギャツビーが死去したことを契機に、東部で出会った彼女と別れて、故郷へ帰る選択をします。
つまり、物語では都会(東部)と田舎(中西部)の対比がされており、田舎者が憧れる都会には、光の面だけではなく影の面がある、というメッセージがあります。前述した通り、ニックとギャツビーにはそれぞれ作者のフィツジェラルドが投影されています。ということは、きらびやかなニューヨーク生活を送っていたフィツジェラルドも、その影の面を感じ取り、故郷である中西部を恋しく思っていたのかもしれません。
ニックは、ギャツビーが死んだことを気にもせず、同じような豪華絢爛な暮らしをつづけるトムたちに、軽蔑を抱くようになりました。最後にはトムが子供のように思えました。それはニックが精神的な成長を遂げたことを表しています。このような、憧れだった都会の悪い面を知ることで、故郷の良い面を知る、という精神的成長は、首都中心社会の私たちにとって、なじみ深いと思います。
題名の「グレート」
『グレート・ギャツビー』の題名の「グレート」には、さまざまな意味が込められています。
題名の候補として、当初は「トリマルキオ(成り上がり者)」がありました。まさにギャツビーの出自を表しており、成り上がり者は名家には敵わない、という皮肉もきいています。最終的には「偉大なギャツビー」になりましたが、その後で作者は、やはり「トリマルキオ(成り上がり者)」にすべきだった、と不満を残しています。
つまり「グレート」には、以下のような意味が含まれていると考えられます。
- 貧乏人から大成した偉大な男
- しかしやはりどこか本物の金持ちとは違い、何かが欠如している男(皮肉の意味でのグレート)
- 対外的に華やかな生活をしているが、自分の真の目的を達せなかった滑稽な男(皮肉の意味でのグレート)
やはり映画で使われている題名「華麗なる」は皮肉が弱くて、原作の再現という点では微妙ですね。
フィツジェラルドが登場する映画
読書会で挙がった映画として、『華麗なるギャツビー』『ウルフ・オブ・ウォールストリート』の他に、『ミッドナイト・イン・パリ』がありました。主人公がパリでタイムスリップしてしまい、当時の芸術家に出会う、という物語で、ヘミングウェイやフィツジェラルドも登場します。
その映画でのフィツジェラルドは、妻ゼルダと一緒に大変な浪費家として描かれているようです。昔から題名だけは知っていて、観たいと思っていた映画なので、そのうち観てみたいです。
おわりに
今回は、フィツジェラルドの『グレート・ギャツビー』の読書会記録を書きました。
今回、はじめて『グレート・ギャツビー』を読んだときの感想は、「そんなに世の中で言われているほど傑作か?」でした。金持ちの腐敗した生活も、貧乏人の立身出世も、今の時代の貧しい日本に合わず、共感しづらかったからです。
しかし、アメリカ人の国民性を知るという目的や、当時の大戦特需の状況を知るという目的で見返すと、かなり面白いです。欲をいえば、小説らしく、もう少しギャツビーの心理描写をせきららに書いてほしかったとは思います(最後までよく分からない謎の男で終わってしまった)。
読書会でさまざまな意見を聞いて、自分では気づかなかった、この物語の面白さを知れました。そのため、一つのテーマについて他の方と議論して、学びを深める機会は、本当に重要だと思いました。
読書のメリットは、一人きりで学びを深められる点です。しかし、議論したほうが、やはり何倍も学びが深まります。参加者だけではなく、この記事を読んだ方にも学びになると思いますし、読書会の存在意義をあらためて実感した回となりました。
今回話題に挙がった、ヘミングウェイの小説を、いつか課題本にしたいと思っています。しかしブラッドベリ、フィツジェラルド、とアメリカ作家が連続したので、次はちがう国の作家の本を考えています。最近、課題本によいかも……と思っているのは、安部公房の『けものたちは故郷をめざす』です。(私が単純に気になっています)
次回9月の読書会は、久しぶりに紹介型で、本のテーマは「涼しげな小説・エッセイ」です。参加枠にはまだ空きがありますので、参加希望の方は連絡ください。お楽しみに!