歴史

西洋中世期の服飾-ロマネスク時代男性

はじめに

中世ヨーロッパ風の人物絵を描くときに、参考となる知識をインプットしよう! という目的で、服飾に関する記事を書いています。史実上の姿を踏まえた上でアレンジが加えられるように、形状や素材など、できるだけ具体的に記載しています。

過去に公開した服飾シリーズは以下です。

女性編が好評だったため、男性のロマネスク時代、ゴシック時代の服飾についても記載予定です。今回はロマネスク時代(11-12世紀)男性の服飾について記載します。

※主に丹野郁の『服飾の世界史』(白水社)を参考にしています。

時代背景

中世期に生じた、西洋男性の服飾の大きな変化として、ズボンが着用されるようになったことが挙げられます。この場合のズボンは、ケルト人あるいはゲルマン人の文化を起原とします。

トガを着たネルウァ帝。1st century AD with restoration head from a portrait of nerva, inv. 2286. Chiaramonti Museum.

ゲルマン人の前に西洋大陸の覇権を握っていた、古代ローマ人は、男性も女性もゆったりとしたひだが特徴のチュニック(ワンピース)を着ていました。とりわけ、しかるべき身分の男性は市民服として、トガと呼ばれる一枚布を体に巻きつけていました。つまり彼らの文化にはズボンに該当する服がなかったのです。

最盛期のローマ帝国の版図
最盛期のローマ帝国の版図。ドナウ川を境に、北がゲルマン人の住む土地。

ローマ人たちは、ドナウ川の北側にいる民族、ゲルマン人の戦士たちがズボンを身につけていることを知っていました。しかし彼らの美的感覚からすると、そのような恰好は野蛮に思えました(※)。ローマ人にとっては、トガの特徴に現れているように、たっぷりとした布でたくさんのひだ(ドレープ)を生む服が美しく、威厳性にあふれていたのです。

※カエサルの『ガリア戦記』、タキトゥスの『ゲルマニア』などから、ローマ人から見たゲルマン人の服装が分かる。

しかしながら、ローマ帝国が衰退し、ゲルマン人の王国があちこちに設立されると、ゲルマン人のズボンの文化が浸透しはじめました。

実のところ、文化水準としては、ローマ人のほうが、ゲルマン人よりはるかに上でした(彼らが水道橋や水洗トイレまでつくっていたことを考えるとよく分かる)。また、人口割合としてもローマ人が圧倒的多数でした。そのため、ゲルマン人はローマ文化を尊重しながら統治を進め、その結果、大部分の文化がローマ化されました。

それにもかかわらず、服装の面でズボンが浸透したのは、ひとえにズボンの機能性ゆえです。「オシャレは我慢」とはいえ、ローマ人たちも、ズボンを履いたときの身体の動かしやすさにはあらがえなかったのでしょう。

当時のズボンは、中世期のフランス語ではブレー(braies)と呼ばれます。11世紀頃までは、戦士と農民のみが、身体を効率的に動かすことを目的に着用していました1

ところがあまりに機能性が高かったために、やがてあらゆる身分の男性に着用されるようになりました。ロマネスク時代になると、ローマ化の影響で丈が足元まであるブリオー(オーバーチュニック)が流行します。しかし服の上から見えない状況でも、ブレーは着用されつづけました。

一方で女性の場合には、服に対する機能性がそこまで重視されなかったため、優美さを優先してブレーを着用しませんでした。それまで服には身分差や性差がほぼありませんでしたが、この頃から、現代の洋服文化(女性はスカート、男性はズボン)に通じる服の性差が生まれたといえます。

そもそも、ズボンの登場は乗馬文化と深く関連しており、馬に乗る習慣があった地域では、だいたいズボンに該当する衣服があります。例えば、日本には袴があります。そして、前近代においては、「馬に乗る人」=「戦士」であるため、「ズボンを履く人」=「戦士である男性」になるわけです。

ゆえにズボン=男性という私たちの連想は、歴史的に見ると当然といえます。もしかすると、人間が馬を飼いならせなかった場合には、ズボンに該当する衣服が生まれていななかったかもしれません。

(馬と人の関係史も、考えはじめると非常に面白いですよ。以下の本がオススメです。本村凌二は古代ローマ史家で、競馬ファンでもあります)

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さて、先ほどゲルマン人文化の「ローマ化」という言葉を使いましたが、ローマ風の芸術様式が好まれた時代こそが、「ロマネスク時代」です。ロマネスクの意味について、詳しくは女性編の記事に記載しているため、あわせてお読みください。

それでは、次章からロマネスク時代の男性の服飾について、詳しく見ていきましょう。当時のフランス(あるいはフランク王国)の史料から読み取れる服飾となるため、用語のほとんどはフランス語となります。また、次に紹介するような服装の人しかいなかったわけではなく、地域差や身分差によってさまざまな違いがあったと推測されます。

基本の5パーツ

ロマネスク時代の男性の服パーツは、以下の5つに大きく分けられます。女性と異なるパーツは、ブレーとショースです。シェーンズ、ブリオー、マントルの3パーツは女性と同じです。順番に紹介していきます。

  1. ブレー(ズボン)
  2. ショース(靴下)
  3. シェーンズ(下着)
  4. ブリオー(オーバーチュニック)
  5. マントル(外套)

ブレー(braies)とショース(chausses)

ブレーは、ややゆるやかな長ズボンのことです。丈が短いもの、膝下をくくったもの、すねを革のバンドでとめたものなどもあります(上図が該当)。多くの場合には、あわせて靴下であるショースが履かれました(上図だと緑の箇所)。ショースを履く場合には、ブレーの上から履きました。

中世期の男性下半身の服は、ブレーとショースだけを押さえておけば問題ありません。ただし、その面積の割合が時代によって異なります。具体的には、徐々にブレーが短く、下着的なパーツになっていくのに対し、もともと膝下だったショースが長く、華麗な素材になっていき、ゴシック時代には股下までの長さになります(現代でいうとタイツのようなパーツになる)。

股下まであるショースを履く男性。腰回りの白い布が、短くなった後世のブレーである。13世紀半ば、ニューヨーク、モルガン図書館。

ブレーの色は、丈の長いブリオー(オーバーチュニック)が登場し、服の上から見えない状況になると、白が主流になります。見えないのに華やかな色にする必要はないからです。しかしながら、服の上から見える状況だと、色つきのブレーも史料で読み取れるため、もともとは色がついた服だったと考えられます。

ブレーの素材は、亜麻製もしくは麻製でした。なお、身分が高いほどブレーは身体にぴったりと沿う形状で、低いほどだぼだぼとしていました。

脱穀をしている二人の男性。それぞれ色つきのブレーを着用している。1325-1335年の間。British Library。

ショースの色は、中世初期の段階ですでに、多様でした(白、赤、黄色など)。元来、ややゆるやかな形状だったのが、ロマネスク時代になると、脚にぴったりと合うように、入念に仕立てられるようになりました。靴下というよりは、衣服と同等の見せる(魅せる?)パーツになり、色のみならず、素材も豪華になりました。

ショースの素材は、麻、絹、サティンなどでした。柄は無地、縞模様、赤地に金糸の縞模様、紋織や錦織などがありました。特に僧侶のショースは常に高価な紋織や錦織でした。

シェーンズ(chainse)

シェーンズとは、白麻はくま 製の下着のことです。形状や素材は女性のものとほぼ同じで、ブリオーからあえて覗かせることも多いため、そで とえり元には装飾が施されています。

ブリオー(bliaud)

ブリオーとは、オーバーチュニックのことです。男性の場合、初期のものは短い丈(腰~膝上)で、ズボンであるブレーを見せて着ていました。初期の男性ブリオーには、袖が狭くなっているものもあります。

ところが、文化のローマ化が進むと、男性の場合も、長い丈のブリオーが着用されるようになりました。新型のブリオーは、布地をたっぷり使用した、ゆったりとしたワンピース型です。新型ブリオーの袖口はやや広く、シェーンズの袖が見えるようになっています。12世紀半ば頃まで、貴族男性の間で好んで着用されました。

このブリオーの素材は毛織物や絹でした。女性の場合と同じく、衿元や袖には装飾が施されていました。

マントル(mantel)

マントルとは外套のことです。男性の場合、11世紀頃まで膝丈の長さが主流でした。ところが、ブリオーの丈が長くなると、見た目のバランスを取るためにマントルの丈も長くなります。ときには、引き裾を伴うマントもありました。

表と裏で色が異なる点、美しい縁取り、マントルの留め方、形状などは女性と同じです。飾り紐ではなく留め具を使う場合、右肩で留めることが主流なのは、おそらく右利きの人が多かったからでしょう。

庶民の服

たっぷりとひだを持つ、新型のブリオーは中流以上の人びとのものでした。庶民男性の場合は、粗い麻製の下着の上に、膝丈のチュニックを、ベルトを締めて着用していました。脚部には麻か粗ラシャ製のブレーを着用し、時には革紐で靴下を巻いていました。

庶民女性が短靴を愛用していた一方、庶民男性の場合は、実用的な深靴を愛用していました。

当時の姿例

ロマネスク時代の男性の姿例を、以下に載せていきます。

ゲルマン人の一派、フランク人(フランスの原型をつくった民族)が800年頃にまとっていた服。丈の短いブリオー、マントルという組み合わせで、脚部にはブレーとショース。ブレーもショースも色とりどりである。by Albert Kretschmer, “Costumes of All Nations” 1882年。

西ゴート王国の王、シセナンド(Sisenand 605-636年)の想像図。丈の短いブリオー、黒のブレー。Bernardino Montañés、1856年、プラド美術館。

レスリングをする男たち。左の男はブレーを、右の男はブレーとショースを着用している。“The Rutland Psalter”, British Library, 1260年頃。

ブレーを着用した農民。他の絵でも、この絵のように、腰回りの絞る箇所が広い(もたついている)ブレーが多い。13世紀半ば、ニューヨーク、モルガン図書館。

再びレイトンの絵だが、今度は男性に着目してみよう。膝丈のブリオーに、白のブレーを着用していると思われる。革紐で脛をあみあみするファッションは少なくないようだ。《トリスタンとイゾルデ》エドモンド・レイトン、1902年、私蔵。
ノルマン人のイングランド征服を描いた『バイユーのタペストリー』11世紀。革紐で脛をあみあみしているファッションの人がいる。また、ブレーの色はさまざま。

この時代の男性の服飾史料として参考になるのは、間違いなく『バイユーのタペストリー』でしょう。全長63.8mもある刺繍のタペストリーで、ノルマン人によるイングランド征服の物語が、左から右へ時系列で描かれています。Wikipediaでデータ化された全部位を閲覧できるため、興味のある方は参考にしてみてください。現地に行かなくても、データで閲覧できるなんて、すごい時代になったものです。

おわりに

今回は、中世・ロマネスク時代の男性の服飾について紹介しました。

男性の衣服に特徴的なのは、ブレー(ズボン)とショース(靴下)です。これ以外は、ほぼ女性と同じだと覚えればよいでしょう。

『指輪物語』などのファンタジー映画に登場する男性は、中世初期の服装、すなわち、腰~膝丈のチュニックにブレー(ズボン)といった服装が多い印象です。現代人の感覚からすると、ロマネスク時代のワンピースみたいな恰好は弱そうだし、ゴシック時代の腿までタイツ(ショース)を見せて着る恰好は罰ゲームかな? という感じなので、中世初期の恰好が最も現代の美的感覚にマッチするのでしょう。

皆さんから好評いただいているおかげで、大変はげみになっております。本記事も面白ければ、ぜひ拡散をお願いします。次回の服飾シリーズは、ゴシック時代男性編です。以下リンク先です。

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  1. 河原温、堀越宏一『図説 ヨーロッパの暮らし』河出書房、2015年、116頁。
    ↩︎

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